表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

5:消えた妹4

夜のミナミ。

ネオンが、湿った路地を照らしていた。飲食店の呼び込み、酔客の笑い声、車のクラクション。その喧騒から少し外れた裏通りに、古びた雑居ビルが立っている。看板は控えめだが、階段の壁に貼られた小さなプレートが目に入る。


「スィートエンジェル」


四階。

涼は一瞬だけその文字を見上げ、何の迷いもなく階段へ足をかけた。エレベーターは使わない。足音を殺しながら、一段ずつ上がる。

四階。

薄い扉の前で立ち止まる。中からは、かすかに音楽が漏れていた。軽いポップスと、グラスの触れ合う音。涼はノブに手をかけ、そのまま押し開けた。


「いらっしゃいませ〜!」


若い女性の声が三つ、同時に重なる。店内は思っていたよりも狭かった。カウンターが一直線に伸び、その前に十席ほど。奥には小さなテーブル席が三卓。照明はやや落とされていて、ピンクがかった柔らかい光が空間を包んでいる。

今日はまだ開店して間もないのだろう。 客は二人しかいなかった。

カウンターの端に、それぞれ一人ずつ。片方はスーツ姿の中年男。 ネクタイを緩め、グラスを片手に静かに飲んでいる。う一方は、ラフな服装の若い男。スマートフォンをいじりながら、時折店内を見回していた。

涼は店内を一瞥し、迷うことなくカウンターの中央へと歩く。


「こちらどうぞ〜」


案内された席に腰を下ろす。

背筋は自然に伸びているが、力みはない。周囲に溶け込むようでいて、どこか浮いている。すぐに、おしぼりが差し出されたので、周囲を観察するのをやめ、涼はそれを受け取った。


「初めてですか?」


声をかけてきたのは、目の前に立つ若い女性だった。明るい茶色の髪。 柔らかく笑う目。そこ声の主の方へ涼は軽く視線を上げる。


「ああ」


短く、それだけ答える。女性はにこりと笑い、少し身を乗り出した。


「初めまして。私はマユです」


胸元を指さす。小さなネームプレート。そこにはマユと書かれていた。


「みんなこのネームプレート付けてるので、気軽に呼んでくださいね」


店の空気は軽い。柔らかく、警戒心を解くような雰囲気。だが涼の視線は、すでに別のものを追っていた。

店内の構造。カメラの位置。客とスタッフの距離感。そしてここにいたはずの、ひとりの女の気配。


「……マユ」


涼は、おしぼりで手を拭きながら小さく呟いた。その声は、夜に溶けるように静かだった。

涼がカウンターに座った瞬間から、涼に視線が集まっている。マユだけではない。グラスを拭いている女性。奥で別の客に笑いかけている女性。ふとした瞬間に、全員の視線が自然とこちらに流れてくる。


(……分かりやすいな)


涼は内心でそう思いながらも、表情には出さない。

若く、整った顔立ち。落ち着いた雰囲気。無駄のない所作。こういう場所では、むしろ目立つ側だということを、涼自身も理解していた。

店員たちは口には出さない。

だが、それぞれの胸の内では——


(かっこいい)

(タイプかも)

(当たりやん)


そんな感情が、小さく波立っている。マユの隣に立つ別の女性が、ちらりとこちらを見。すぐに視線を逸らし、何事もなかったかのようにグラスを拭く。だが、耳は完全にこちらに向いている。

マユは自然な笑顔のまま、涼に問いかける。


「何をお飲みになりますか?」


声は柔らかく、距離の取り方も絶妙だ。 涼はメニューに目も落とさず、短く答える。


「ハイボールをお願いできますか?」


「はい、かしこまりました」


マユがカウンターの内側へ回り、ボトルに手を伸ばす。

その瞬間――


「マユ、それやっとくよ」


横から声がかかった。さっきまで若い客の相手をしていた店員が、すっと割り込む。動きは自然。だが、意図は明確だった。

マユが一瞬だけ視線を向ける。


「え、でも」


「いいからいいから」


軽く笑いながら、そのまま手際よくグラスを取る。氷を入れる音。 カラン、と軽く鳴る。手慣れた動きでウイスキーを注ぎ、ソーダを加える。グラスの中で気泡が立ち上る。

完成したハイボールを、女性は涼の前に差し出した。


「はい、どうぞ」


そして、そのまま少しだけ身を乗り出す。


「私はエリって言います。よろしくね」


にこり、と笑う。

前かがみになったその姿勢は、偶然にしては少しだけ出来すぎていた。大きく開いた胸元からは、若くはじける谷間があらわになっていた。

涼はその一連の動きを、静かに見ていた。


(……あからさまだ)


計算された距離。視線の角度。声のトーン。すべてが仕事として完成されている。

内心で、小さくため息をつく。


(やれやれ)


だが、表情には出さない。 グラスを手に取り、軽く口をつける。 炭酸の刺激が喉を通る。

そして、エリを見る。 ほんの少しだけ、興味を持ったように。


「よろしく」


涼は短く返した。

エリはそのまま、カウンター越しに涼の前に立っていた。完全に涼についた状態だ。マユは少し離れた位置で様子を見ている。 他の店員も、それとなく気配を探っている。


(この女は使えるな)


涼の頭の中では、すでに別の計算が始まっていた。

この距離感。この積極性。情報を引き出すには、都合がいい。

涼はグラスを傾けながら、静かに店内を観察する。


マユ。エリ。

他の客。

店の奥。

そしてここにいたはずの人物の痕跡。

夜は、まだ始まったばかりだった。


エリはグラスに指先を添えたまま、涼の顔を覗き込むようにして笑った。


「お兄さんって、こういうバーよく来るの?」


軽い口調。だが、相手の距離感を測るための問いだ。

涼はグラスを傾け、ほんの少しだけ考える素振りを見せてから答えた。


「こういう場所って、ガールズバーってこと?」


一拍。


「初めてだよ」


エリの目がわずかに見開かれる。


「そうなんだ」


すぐに柔らかい笑みに戻る。


「初めてのガールズバーに、ここを選んでくれてありがとうございます」


その言い方は自然で、営業の型にきっちりはまっている。だが、ほんの少しだけ本音が混じっているようにも見えた。

その時。


「すみませーん」


カウンターの端から声が上がる。先ほどからスマートフォンをいじっていた若い男が、空いたグラスを軽く持ち上げていた。

お代わりの合図。

エリは一瞬だけ涼に視線を戻し、ほんのわずかに残念そうな表情を見せた。


「ちょっと行ってくるね」


軽く手を振り、そのまま若い男の方へ移動する。視界からエリが外れる。空いた空間に、少しだけ静けさが戻る。

涼はマユに視線を向ける。


「あの、フードメニューってありますか?」


グラスを軽く持ち上げる。


「何か、つまむものが欲しくて」


マユは「はい」と頷きかけたその瞬間。

横から、すっと手が差し出される。先ほどからグラスを拭いていた女性だった。無言のまま、メニューをマユに渡す。動きは自然。だが、タイミングは完璧すぎる。


(俺のことを観察してるな)


涼は視線だけでそれを追う。

マユはメニューを受け取り、にこやかに広げた。


「おつまみから、がっつり系まで色々ありますよ」


そのまま涼の前にフードメニューを差し出す。涼はそれを受け取りながら、視線は、ほんの一瞬だけ別の方向へ流れた。

グラスを拭いていた女性。その後ろ姿。無駄のない動き。他の店員より、少しだけ距離を取っている。

マユがその視線に気づいたのか、くすっと笑う。


「彼女はミーナです」


さらりと紹介する。


「特定のスタッフをお付けすることもできますよ?」


軽い冗談のような言い方。だが、試すような響きもある。そして振り返り、声をかけた。


「ミーナ、挨拶して」


呼ばれた女性は手を止め、ゆっくりとこちらに振り向いた。涼と目が合う。一瞬だけ、空気が止まる。


「……ミーナです」


短い挨拶。声は落ち着いていて、他の二人とは少し違う温度を持っていた。笑顔はある。だが、それはどこか作られたものではなく、むしろ感情を抑えた結果のようにも見える。

涼はその顔を見て、ほんのわずかに目を細めた。彼女の表情に何か引っかかるけど、何が引っかかるんだろう。

涼はマユからメニューを受け取ると、ぱらぱらとページをめくった。酒に合いそうな軽いものから、意外としっかりした料理まで並んでいる。


「じゃあ、だし巻き卵」


顔を上げずにそう言う。


「はい、だし巻きですね」


マユがすぐに応じる。振り返り、短く声をかけた。


「ミーナ、だし巻きお願い」


「……はい」


ミーナは小さく頷くと、そのままカウンターの奥、暖簾の向こうへと入っていった。


(ミーナは料理担当か)


涼はグラスを指先で回しながら、店内を改めて観察する。三人の役割は、ある程度分かれている。


――マユ。

落ち着いた対応。無理に距離を詰めない。

客の空気を読むのが上手い。


(この店の軸だな)


年齢も、おそらく一番上。

リーダー的な立ち位置だろう。


――エリ。

若い。

動きが軽く、感情も表に出やすい。


(学生か、せいぜい二十歳前後)


武器は分かりやすい。

距離感と見せ方。


——ミーナ。

一番整った顔立ち。

だが、前に出ない。

距離を取っているというより、必要以上に関わらないようにしているのか?


涼が3人の店員を観察していると、


「どうかしました?」


マユが軽く首を傾げる。涼は慌てて視線を戻す。


「スタッフって、三人だけなんですか?」


何気ない調子で、自然に質問する。

マユは「ああ」と頷いた。


「いえ、ママと女の子があと三人いますよ」


「へぇ」


興味があるような、ないような相槌。だがその裏で、涼の意識は一気に研ぎ澄まされる。


(あと三人。その中に美咲がいるはず)


グラスを口に運びながら、さりげなく続ける。


「他の子って、どんな子がいるんですか?」


涼はあくまで自然に、悟られないように質問する。

マユは少し考えるように視線を上げてから、答えた。


「えっと、レンカちゃんと、ジュリちゃんと、キキちゃんですね」


そして、カウンター越しに奥を指さす。


「ほら、あそこに写真貼ってあるので、よかったら見てみてください」


テーブル席の奥。壁一面に、ポラロイド写真が並んでいる。

笑顔の女性たち。ピースサイン。誕生日の飾り付け。

涼はゆっくりと視線をそちらへ向けた。その中に探している顔があるのかどうか。

グラスの氷が、静かに音を立てた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ