5:消えた妹4
夜のミナミ。
ネオンが、湿った路地を照らしていた。飲食店の呼び込み、酔客の笑い声、車のクラクション。その喧騒から少し外れた裏通りに、古びた雑居ビルが立っている。看板は控えめだが、階段の壁に貼られた小さなプレートが目に入る。
「スィートエンジェル」
四階。
涼は一瞬だけその文字を見上げ、何の迷いもなく階段へ足をかけた。エレベーターは使わない。足音を殺しながら、一段ずつ上がる。
四階。
薄い扉の前で立ち止まる。中からは、かすかに音楽が漏れていた。軽いポップスと、グラスの触れ合う音。涼はノブに手をかけ、そのまま押し開けた。
「いらっしゃいませ〜!」
若い女性の声が三つ、同時に重なる。店内は思っていたよりも狭かった。カウンターが一直線に伸び、その前に十席ほど。奥には小さなテーブル席が三卓。照明はやや落とされていて、ピンクがかった柔らかい光が空間を包んでいる。
今日はまだ開店して間もないのだろう。 客は二人しかいなかった。
カウンターの端に、それぞれ一人ずつ。片方はスーツ姿の中年男。 ネクタイを緩め、グラスを片手に静かに飲んでいる。う一方は、ラフな服装の若い男。スマートフォンをいじりながら、時折店内を見回していた。
涼は店内を一瞥し、迷うことなくカウンターの中央へと歩く。
「こちらどうぞ〜」
案内された席に腰を下ろす。
背筋は自然に伸びているが、力みはない。周囲に溶け込むようでいて、どこか浮いている。すぐに、おしぼりが差し出されたので、周囲を観察するのをやめ、涼はそれを受け取った。
「初めてですか?」
声をかけてきたのは、目の前に立つ若い女性だった。明るい茶色の髪。 柔らかく笑う目。そこ声の主の方へ涼は軽く視線を上げる。
「ああ」
短く、それだけ答える。女性はにこりと笑い、少し身を乗り出した。
「初めまして。私はマユです」
胸元を指さす。小さなネームプレート。そこにはマユと書かれていた。
「みんなこのネームプレート付けてるので、気軽に呼んでくださいね」
店の空気は軽い。柔らかく、警戒心を解くような雰囲気。だが涼の視線は、すでに別のものを追っていた。
店内の構造。カメラの位置。客とスタッフの距離感。そしてここにいたはずの、ひとりの女の気配。
「……マユ」
涼は、おしぼりで手を拭きながら小さく呟いた。その声は、夜に溶けるように静かだった。
涼がカウンターに座った瞬間から、涼に視線が集まっている。マユだけではない。グラスを拭いている女性。奥で別の客に笑いかけている女性。ふとした瞬間に、全員の視線が自然とこちらに流れてくる。
(……分かりやすいな)
涼は内心でそう思いながらも、表情には出さない。
若く、整った顔立ち。落ち着いた雰囲気。無駄のない所作。こういう場所では、むしろ目立つ側だということを、涼自身も理解していた。
店員たちは口には出さない。
だが、それぞれの胸の内では——
(かっこいい)
(タイプかも)
(当たりやん)
そんな感情が、小さく波立っている。マユの隣に立つ別の女性が、ちらりとこちらを見。すぐに視線を逸らし、何事もなかったかのようにグラスを拭く。だが、耳は完全にこちらに向いている。
マユは自然な笑顔のまま、涼に問いかける。
「何をお飲みになりますか?」
声は柔らかく、距離の取り方も絶妙だ。 涼はメニューに目も落とさず、短く答える。
「ハイボールをお願いできますか?」
「はい、かしこまりました」
マユがカウンターの内側へ回り、ボトルに手を伸ばす。
その瞬間――
「マユ、それやっとくよ」
横から声がかかった。さっきまで若い客の相手をしていた店員が、すっと割り込む。動きは自然。だが、意図は明確だった。
マユが一瞬だけ視線を向ける。
「え、でも」
「いいからいいから」
軽く笑いながら、そのまま手際よくグラスを取る。氷を入れる音。 カラン、と軽く鳴る。手慣れた動きでウイスキーを注ぎ、ソーダを加える。グラスの中で気泡が立ち上る。
完成したハイボールを、女性は涼の前に差し出した。
「はい、どうぞ」
そして、そのまま少しだけ身を乗り出す。
「私はエリって言います。よろしくね」
にこり、と笑う。
前かがみになったその姿勢は、偶然にしては少しだけ出来すぎていた。大きく開いた胸元からは、若くはじける谷間があらわになっていた。
涼はその一連の動きを、静かに見ていた。
(……あからさまだ)
計算された距離。視線の角度。声のトーン。すべてが仕事として完成されている。
内心で、小さくため息をつく。
(やれやれ)
だが、表情には出さない。 グラスを手に取り、軽く口をつける。 炭酸の刺激が喉を通る。
そして、エリを見る。 ほんの少しだけ、興味を持ったように。
「よろしく」
涼は短く返した。
エリはそのまま、カウンター越しに涼の前に立っていた。完全に涼についた状態だ。マユは少し離れた位置で様子を見ている。 他の店員も、それとなく気配を探っている。
(この女は使えるな)
涼の頭の中では、すでに別の計算が始まっていた。
この距離感。この積極性。情報を引き出すには、都合がいい。
涼はグラスを傾けながら、静かに店内を観察する。
マユ。エリ。
他の客。
店の奥。
そしてここにいたはずの人物の痕跡。
夜は、まだ始まったばかりだった。
エリはグラスに指先を添えたまま、涼の顔を覗き込むようにして笑った。
「お兄さんって、こういうバーよく来るの?」
軽い口調。だが、相手の距離感を測るための問いだ。
涼はグラスを傾け、ほんの少しだけ考える素振りを見せてから答えた。
「こういう場所って、ガールズバーってこと?」
一拍。
「初めてだよ」
エリの目がわずかに見開かれる。
「そうなんだ」
すぐに柔らかい笑みに戻る。
「初めてのガールズバーに、ここを選んでくれてありがとうございます」
その言い方は自然で、営業の型にきっちりはまっている。だが、ほんの少しだけ本音が混じっているようにも見えた。
その時。
「すみませーん」
カウンターの端から声が上がる。先ほどからスマートフォンをいじっていた若い男が、空いたグラスを軽く持ち上げていた。
お代わりの合図。
エリは一瞬だけ涼に視線を戻し、ほんのわずかに残念そうな表情を見せた。
「ちょっと行ってくるね」
軽く手を振り、そのまま若い男の方へ移動する。視界からエリが外れる。空いた空間に、少しだけ静けさが戻る。
涼はマユに視線を向ける。
「あの、フードメニューってありますか?」
グラスを軽く持ち上げる。
「何か、つまむものが欲しくて」
マユは「はい」と頷きかけたその瞬間。
横から、すっと手が差し出される。先ほどからグラスを拭いていた女性だった。無言のまま、メニューをマユに渡す。動きは自然。だが、タイミングは完璧すぎる。
(俺のことを観察してるな)
涼は視線だけでそれを追う。
マユはメニューを受け取り、にこやかに広げた。
「おつまみから、がっつり系まで色々ありますよ」
そのまま涼の前にフードメニューを差し出す。涼はそれを受け取りながら、視線は、ほんの一瞬だけ別の方向へ流れた。
グラスを拭いていた女性。その後ろ姿。無駄のない動き。他の店員より、少しだけ距離を取っている。
マユがその視線に気づいたのか、くすっと笑う。
「彼女はミーナです」
さらりと紹介する。
「特定のスタッフをお付けすることもできますよ?」
軽い冗談のような言い方。だが、試すような響きもある。そして振り返り、声をかけた。
「ミーナ、挨拶して」
呼ばれた女性は手を止め、ゆっくりとこちらに振り向いた。涼と目が合う。一瞬だけ、空気が止まる。
「……ミーナです」
短い挨拶。声は落ち着いていて、他の二人とは少し違う温度を持っていた。笑顔はある。だが、それはどこか作られたものではなく、むしろ感情を抑えた結果のようにも見える。
涼はその顔を見て、ほんのわずかに目を細めた。彼女の表情に何か引っかかるけど、何が引っかかるんだろう。
涼はマユからメニューを受け取ると、ぱらぱらとページをめくった。酒に合いそうな軽いものから、意外としっかりした料理まで並んでいる。
「じゃあ、だし巻き卵」
顔を上げずにそう言う。
「はい、だし巻きですね」
マユがすぐに応じる。振り返り、短く声をかけた。
「ミーナ、だし巻きお願い」
「……はい」
ミーナは小さく頷くと、そのままカウンターの奥、暖簾の向こうへと入っていった。
(ミーナは料理担当か)
涼はグラスを指先で回しながら、店内を改めて観察する。三人の役割は、ある程度分かれている。
――マユ。
落ち着いた対応。無理に距離を詰めない。
客の空気を読むのが上手い。
(この店の軸だな)
年齢も、おそらく一番上。
リーダー的な立ち位置だろう。
――エリ。
若い。
動きが軽く、感情も表に出やすい。
(学生か、せいぜい二十歳前後)
武器は分かりやすい。
距離感と見せ方。
——ミーナ。
一番整った顔立ち。
だが、前に出ない。
距離を取っているというより、必要以上に関わらないようにしているのか?
涼が3人の店員を観察していると、
「どうかしました?」
マユが軽く首を傾げる。涼は慌てて視線を戻す。
「スタッフって、三人だけなんですか?」
何気ない調子で、自然に質問する。
マユは「ああ」と頷いた。
「いえ、ママと女の子があと三人いますよ」
「へぇ」
興味があるような、ないような相槌。だがその裏で、涼の意識は一気に研ぎ澄まされる。
(あと三人。その中に美咲がいるはず)
グラスを口に運びながら、さりげなく続ける。
「他の子って、どんな子がいるんですか?」
涼はあくまで自然に、悟られないように質問する。
マユは少し考えるように視線を上げてから、答えた。
「えっと、レンカちゃんと、ジュリちゃんと、キキちゃんですね」
そして、カウンター越しに奥を指さす。
「ほら、あそこに写真貼ってあるので、よかったら見てみてください」
テーブル席の奥。壁一面に、ポラロイド写真が並んでいる。
笑顔の女性たち。ピースサイン。誕生日の飾り付け。
涼はゆっくりと視線をそちらへ向けた。その中に探している顔があるのかどうか。
グラスの氷が、静かに音を立てた。




