2:消えた妹1
夜の部屋は、スマートフォンの光だけが浮かんでいた。
男はソファに浅く腰掛け、無意識に画面をスクロールしている。 ローテーブルには、コンビニで買った飲みかけの缶チューハイが無造作に置かれている。
ニュース、広告、どうでもいい動画。しかし、どうでもいいはずなのに、おすすめに出てくるショート動画を見出すと止まらなくなる。指先だけが動き続ける。
ふと、指が止まった。
《未解決案件、引き受けます》
《警察に断られた依頼もOK》
《料金:成果報酬制》
「……なんやねん、これ」
半信半疑でタップする。
そこには匿名アカウントの投稿が並んでいた。
《妹のストーカー、3日で解決してもらいました》
《警察が動かなかった件、証拠ごと持ってきてくれた》
《正直グレー。でも助かった》
「グレーはあかんやろ」
そう呟きながら、男はSNSの内容を男なり吟味しようとしていた。
そのアカウント名は簡素だった。
——“S3”
プロフィールには、短く一文だけ。
《困りごと、引き受けます》
男は鼻で笑った。
「これ……詐欺やろ。成功報酬ってどんだけ請求されるねん」
だが、指は戻らなかった。
しばらく画面を見つめた後、缶チューハイを一口飲み、ゆっくりとメッセージ入力欄を開く。
一瞬の躊躇い。
一度閉じて、また開く。 やがて、短い文章を打ち込んだ。
《人を探しています》
送信ボタンを押す指が、ほんの少し震えていた。
***
――大阪地検。
無機質な部屋。蛍光灯の白い光。机の上には分厚い資料の束。
三條遥は、静かにページをめくっていた。ボブヘアが頬にかかる。視線を落としたまま、指先で髪を払いのける。スーツは一切の隙がなく、姿勢も崩れない。
「検事どうしますか?起訴しますか?」
遥の斜め横に座る事務官が、早く結論を出せと言わんばかりの口調で尋ねてくる。
「そうね…本人も犯行を認めているし、これだけ証拠があれば」
遥は捜査書類に目を通しながら答える。
「起訴ですね。わかりました。では、次」
事務官は事務的に答え、うなずく。
今日はあと2件の在宅事件を処理しなければならない。いつにも増して、早く帰りたいという事務官の心の声が漏れている。
(今日はあなたの推しのインスタライブがあるんだっけ…)
遥は事務官の圧を感じながら、次の書類に目を通した。
***
——とある総合病院、手術室前。
自動ドアが開くと同時に、強い消毒液の匂いが流れ出た。ストレッチャーが勢いよく押し出される。その上には、全身を固定された患者。酸素マスクの奥で、かすかな呼吸音が続いている。
「血圧安定してます」
看護師の声が響く。その後ろから、ゆっくりと細見の女性が歩いてくる。女性が慣れた手つきで手袋や帽子を外し、手術用ガウンを脱いだ。
三條歩は額にかかった髪を、手首でぐいと払う。
「……ふぅ」
短く息を吐く。
「肝臓の損傷ひどかった。あと二十分遅れてたらアウトやったな」
関西弁の軽い調子。だがその言葉の中身は、ぎりぎりの現場を物語っている。
若い医師が、半ば呆然とした顔で言う。
「三條先生、あの状態からよく持ち直しましたね」
歩は肩をすくめる。
「持ち直したんは、あの人の運やろ。うちはちょっと手伝っただけ」
そう言って笑うが、目は笑っていない。
看護師たちと共に、ストレッチャーがエレベーターに吸い込まれていく。扉が閉まる直前、歩はその姿をじっと見つめていた。
(助かった命)
ほんの一瞬だけ、表情が緩む。だが次の瞬間、別の声が頭の奥に浮かぶ。数年前、自分が助けられなかった人。歩は視線を落とし、拳を軽く握った。
(優先順位、やと……?)
誰かに言われた言葉。
今でも、喉の奥に引っかかっている。
「……アホらし」
小さく吐き捨てる。すぐに顔を上げると、いつもの調子に戻った。
「お腹減ったなぁ……なんか食べよ。この時間は食堂も閉まってるし、出前か売店しかないか~。この病院にも、阪神大学病院みたいコンビニがあったらいいのに」
スクラブのポケットに手を突っ込みながら、軽い足取りで廊下を歩いていく。命の重さも、現場の緊張も、その全部を、無理やり飲み込むように。
***
「こんばんは~。おまたせしました~」
柔らかく、それでいて低く落ち着いた声が、画面越しに流れる。照明を抑えた室内。背景はシンプルで、余計なものは一切映っていない。モニターの光に照らされているのは、一人の青年だった。
整った輪郭。
通った鼻筋。
やや長めの前髪が、片目にかかる。
ノーブルな顔立ちは中性的でありながら、どこか凛とした印象。無駄な表情はなく、視線は静かだ。
それでも、惹きつけられる。
画面の右側には、コメントが流れていた。
《きた!!》
《今日も配信ありがとう》
《顔良すぎてしんどい》
《声が好きすぎる》
「そんなに騒がなくても、逃げないから」
わずかに青年の口元が緩む。それだけで、コメント欄がさらに加速する。
《今の笑った!?》
《無理好き》
《死ぬ》
三條涼は軽く息を吐き、椅子に背を預けた。
「今日はちょっとだけ。長くはやらない」
《えー!》
《もっと見たい》
「今週はあと1回あるだろ」
淡々とした言い方。だが、それがむしろ心地よく響く。コメントが次々と流れる。
《晩御飯もう食べた?》
「晩御飯?まだだよ」
短く答える。
「配信終わったら適当に食べる」
《ちゃんと食べて》
《またコンビニでしょ》
「偏見だな」
少しだけ肩をすくめる。
「今日はちゃんとしたもの食べるよ。多分」
《多分ってなに》
《絶対食べてないやつ》
そのコメントを見て、涼は軽く笑う。ほんの一瞬だけ、表情が柔らかくなる。
《今日はどんなゲームするの?》
「う~ん、今日は雑談だけかな~」
《えー》
《ゲーム見たかった》
「たまにはいいだろ」
《今から彼女とディナーデート?》
キラキラに装飾されたコメントが流れた。スーパーチャット。いわゆる投げ銭だ。
《きた》
《これ聞きたかった》
《答えて》
涼は少しだけ視線を逸らし、指でデスクを軽く叩いた。
スーパーチャットを無視するわけにはいかない。
「ミカミカさん、スーパーチャット、ありがとうございます。…デートか。どうかな?そもそも彼女いないかもよ」
《いるでしょ》
《いないって言って》
《絶対モテる》
「……さあな」
曖昧に笑う。肯定も否定もしない。
《ずるい》
《好き》
そのまま、涼は話題を変えた。
「じゃ、次の質問」
流れるコメントを淡々と拾いながら、時間が過ぎていく。
無駄のない受け答え。距離を詰めすぎず、しかし冷たくもない。絶妙なバランス。やがて、時計に視線を落とす。
「……そろそろ終わるか」
《早い》
《もう!?》
「また明後日な」
《おやすみ》
《いい夢見てね》
一瞬だけ、画面を見つめる。そして、静かに言う。
「みんなも、おやすみ」
配信が終了し、画面が暗転する。
静寂。
涼は大きく息を吐き、そのまま数秒、動かない。
やがて、涼は椅子からわずかに前傾した。マウスを操作する。配信アカウントからログアウトし、別のウィンドウを開く。
そこに表示されたのは全く別のインターフェース。
装飾のない、簡素な画面。通知が一つ、点滅している。新着メッセージ。
《人を探しています》
送信元は知らないアカウント。
涼の口元が、わずかに歪んだ。
「来た」
その一言に、どこか楽しげな響きが混じる。
すぐにスマートフォンを取り出し、短く打つ。
《詳細を》
モニターの光だけが、静かに部屋を照らしている。
物語は、ここから動き出す。
***
心斎橋の雑居ビル、その一室。古い扉が、ゆっくりと開いた。中は意外なほど整っている。
古いソファ、簡素な机、壁際の棚。だが空気は、どこか張り詰めていた。すでに二人がいた。
遥は窓際に立ち、街を見下ろしている。
歩はソファに寝転び、ポテトチップスを食べていた。
「お、重役出勤?」
ドアの方を見て、歩が手をひらひら振る。涼は無言で中に入り、スマホをテーブルに置いた。
「依頼」
それだけ言う。
遥が振り返る。
「内容は?」
涼は画面をスワイプし、メッセージを表示する。
《妹が、いなくなりました》
部屋の空気が、わずかに変わった。
歩が起き上がる。
「失踪かいな」
遥は数秒、画面を見つめた。そして、静かに言った。
「受けるかどうかは、話を聞いてからね」
外では相変わらず人の波が流れている。誰もこの小さな部屋の存在に気を留めない。




