1:心斎橋アンダーコート
日本には、未解決事件がいくつあるのか、正確な数字を知る者は少ない。
警察庁の統計に記録されるものだけでも、その数は膨大だ。だがそれはあくまで「事件」として認知されたものに限られる。届け出られなかったもの、証拠不十分として扱われなかったもの、あるいは“事件ですらない”と判断されたものは、最初から数に含まれていない。
そして現実には、そうした数えられない問題の方が、圧倒的に多い。
夜道で感じる視線。
鍵を閉めたはずの部屋に漂う違和感。
誰にも証明できないが、確実に侵食されている日常。
それらは警察にとって、事件ではない。
証拠がなければ動けない。
被害が明確でなければ介入できない。
法律に触れていなければ、取り締まることはできない。
それは当然の原則であり、社会を守るための前提だ。
だが同時に、それは救われない人間を生み出す構造でもある。
“まだ何も起きていないから”という理由で、誰も助けてくれない。
その間にも、何かは確実に進行しているというのに。
だからこそ、そんな噂が生まれるのかもしれない。
深夜二時過ぎ。
スマートフォンの画面だけが、暗い部屋を青白く照らしている。
画面に表示されているのは、匿名SNSのタイムラインだ。流れては消えていく短い投稿の中に、ひとつだけ妙に目を引くものがあった。
いいね数は、まだ三桁に届くかどうか。だが、リポストの速度が明らかに異常だった。
投稿主のアカウント名は、意味を持たないランダムな文字列。プロフィールも空白。作られてから数日しか経っていない“捨てアカウント”だ。
その投稿には、こう書かれていた。
『警察が動いてくれない案件、相談できるとこあるって知ってる?』
それだけなら、よくある愚痴にも見える。
だが、その下に続くスレッドが、異様だった。
『証拠なくても動いてくれる』
『ストーカーの件で助けてもらった』
『マジで消えたんだけどあの男』
『料金とかどうなってんの?』
『金じゃないって聞いたけど』
『場所どこ?』
『場所はない。向こうから来るらしい』
『いやそれ怖すぎだろ』
『でも助かったのは事実』
書き込みの温度が、妙にリアルだった。
作り話にしては具体性がありすぎる。
だが真実だとすれば、あまりにも曖昧で、掴みどころがない。
『三人組らしいよ』
『女?男?』
『探偵?』
混乱したようなやり取りが続く。
断片的な情報だけが積み上がっていく。
『依頼したらほんとに解決した』
『警察じゃ無理だったのに』
『どうやって見つけるの?』
『見つけるんじゃなくて、“見つけられる”って』
その一文だけが、妙に引っかかった。
見つけるのではない。見つけられる。
まるで、向こうが選んでいるかのような言い方だった。
別の投稿が、数分後に現れる。
同じスレッドに、ぽつりと投げ込まれた一文。
『条件があるらしい』
すぐに返信がつく。
『何それ』
『教えて』
数秒の沈黙の後、投稿者は短く答えた。
『無関係な人を巻き込まないこと』
さらに間を置いて、もう一行。
『それと、殺しは最終手段』
その文面だけ、妙に整っていた。それまでの軽い口調とは明らかに違う、硬質な言葉遣い。
まるで誰かが、意図的に書き込んだかのような。
だが、その投稿主のアカウントは、直後に削除された。痕跡は、何も残らない。
それでも、噂は消えない。
むしろ逆に、拡散していく。
誰かが助かったという話。
誰かが消えたという話。
誰かが“裁かれた”という話。
確証はどこにもない。
だが、確かにそこにあったという実感だけが、断片的に残されている。
そして、そのすべてに共通しているのは――「警察ではどうにもならなかった」という一点だった。




