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19 クトゥズ

 マムルーク朝とは、マムルークらの手によって成立し、マムルーク出身の者たちが「王」となった王朝である。

 しかし、その特徴に相反して、初代国王(スルタン)――女王スルターナはシャジャル・アッドゥルである。

 ただし、さすがに当時の世間の理解を得られず、その不利を感じたのか、わずか三か月で退位した。


「……さて、かのマムルークと、とでも思うたが、やはりやめにしておこう。ホラズムの支持を得られぬ」


 その代わり、マムルークの中でも一の実力者であるアイバクという者と婚姻し、彼を国王スルタンとし、彼女は王妃として――事実上の国王スルタンとして、君臨した。

 しかし、アイバクはこのような夫婦と政治のかたちに不満を持ち、バフリー・マムルークの長、アクターイを殺害してしまう。

 シャジャルはバイバルスに逃げるよう勧めた。


「妾は逃がれられぬ。しかしそなたらは行くが良い」


 この時、シャジャルはかろうじて、バイバルスやゼノビア、カラーウーンをカイロから脱出させるのが精一杯だった。

 なぜなら、アイバクの部下のクトゥズという男が――油断ならぬ男が、シャジャルをつけ狙っていたからだ。



「事ここに至っては、やむなし」


 シャジャルはアイバクの暗殺を敢行した。

 浴室にいる間を狙い、いかにも謎の暗殺者に殺されたというていを装ったが、クトゥズには見破られていた。

 というか、元々クトゥズには、アイバクを殺させようとしていた節がある。


「かの妖婦、討つべし」


 それは──クトゥズはシャジャルを惨殺し(アイバクの元妻の女奴隷たちに、木靴で滅多打ちにさせた)、しかるのちにアイバクのまだ十五歳の子、マンスール・アリーを立てたことからわかる。

 そしてその当時、回教徒イスラムを脅かしていたある民族に対するのに、「若年の国王スルタンでは無理だ」と称して、クトゥズは自らが国王スルタンに即位する。



「……クトゥズとやらは、ホラズム王朝の王の子孫、と称しているようだ」


 ガリラヤの丘陵地帯。

 一組の男女が、共に馬に乗って、騎行していた。


「……本当か?」


 男が女に問うと、女はため息をついた。


「……本当かもしれん。だが、今となってはそれどうでもいいことだ」


 たしかに、と男はうなずき、どうどうと言って、馬を止めた。


「このあたりかな」

「このあたりだろう」


 男――バイバルスは、女――ゼノビアが馬を止めるのを待って、それから下馬した。

 二人はアイバクによるアクターイ殺害のどさくさに紛れてカイロを脱出し、仲間たちと共に、ダマスカスやカラクといった諸都市を放浪し、時にエジプトのマムルーク朝と戦い、時にその都市の君主に疎まれてさらに放浪する日々を送っていた。

 ……この時までは。


「そのクトゥズとやらから、和解しないかという申し出だ」


 ゼノビアは眼前に小さな川を見て、小石を一つ蹴った。

 小石は勢いよくね、川面を二、三回叩いてから、沈んでいった。


「それは、ホラズム族の伝手でか?」

「そうだ」


 ゼノビアはその美しい顔を歪ませた。

 おそらく、クトゥズはその出自――ホラズム王の子孫――を強調して、ホラズム族の伝手を使ったのだろう。

 ゼノビアは、それが気に食わない。


ベルケをカイロに残して来たのが、仇となった」

「何で、仇なんだ?」

「仇だ! あんな酷い真似をする奴なんぞに、使い走りさせられるなんて!」


 ゼノビアは、クトゥズがシャジャルを害した手段が気に食わないらしい。

 あまりにむごすぎる、と。


「…………」


 肩で息をするほど激昂するゼノビアの肩に、バイバルスは手を置いた。


「……だが今は感謝する。今、あの民族――モンゴルの脅威に抗するには、そのクトゥズとやらと手を組む必要がある」


 モンゴル。

 この時、チンギス・ハーンの孫、フレグが、兄でありモンゴル帝国の皇帝であるモンケの命により、遥かこの西アジアにまで攻め入って来ていた。

 その脅威はすさまじく、一二五八年にはバグダードを攻め落として、アッバース朝を亡ぼしてしまう。

 クトゥズはその脅威を利用してマンスール・アリーから王位を「譲ってもらった」が、実際にその脅威が地中海沿岸であるダマスカスやエジプトまで至って、真に対応する必要を感じていたらしい。


「……で、戦う地をこうして見つくろっているわけだ」


 バイバルスもまた、小石を蹴った。小石は、あっさりと川に沈んでしまう。

 へたくそめ、というゼノビアの笑い。

 だがバイバルスは、悪い気はしなかった。

 こうして、少しでも彼女の気が晴れるのなら、悪くない。

 ふと、この小川に由来する、この地の名を思い出した。


「アイン・ジャールート」

「何だ、その名は」

巨人ゴリアテの泉、という意味らしい」


 適度な起伏のあるこの地は、モンゴル鉄騎の騎行を阻害し、そして兵を伏せるのに利している。


「……さて、モンゴルという巨人ゴリアテを討つ、ダビデになれるかどうか」


 ゼノビアの期待半分、からかい半分の視線。

 半分だけでも期待してくれるだけ、弟子冥利に尽きると言ったところだろうか。

 あるいは、それは、伴侶としてかもしれないが。


「…………」


 バイバルスは無言で天を仰いだ。

 今はまだ、それを言うべきではない。

 宿なしであるし、何より、彼女の期待に応えてからするべきだ。

 すると何事か悟ったのか、ゼノビアはその緑の目を向けた。


「……一生ものだからな」

「……ああ」


 そのやり取りに、バイバルスは力を得たように思い、馬に乗った。

 ゼノビアもまた馬に乗り、仲間――カラーウーンらの待つ、野営地へと向かった。

 クトゥズとの和解を受け入れるために。

 そしてその先へとつづく、モンゴルとの戦いに身を投じるために。

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