七 猫ちゃんの決意の事
今まで生きて来て、こんな、性格の人物、いや、猫? に出会った事がなかった私は、ドン引きしてしまい、猫ちゃんの事が、怖くなって来てしまっていた。
そして、猫ちゃんとの関係を、もっと軽い感じの物に、大至急改善しなければいけない。と、強く強く、思った。
「猫ちゃん。君の気持ちは嬉しいけど、ごめん。私は、これから、異世界に旅立つ身だ。君とは一緒にはいられない。だから、私の事は諦めて、できるだけ、早く忘れて、あの堤防で幸せになって欲しい」
私は、猫と人間が真剣勝負をすると、人間は決して猫には勝てず、猫に殺されてしまうと、どこかで聞いた事があったような気がしたので、猫ちゃんを本気で怒らせてはいけないと思い、心から猫ちゃんの事を気遣っているというような演技をしながら、その実は、猫ちゃんの気持ちを、なんとか自分から反らそうとして、そんなふうな言葉を出した。
「分かったニャン。人間がどんな世界に転生しても、絶対に離れないニャン」
猫ちゃんが、私の言葉の余韻に浸っているかのように、恍惚とした表情を見せる。
「そんなのはいけない。君は、まだ、生きているじゃないか。私はもう死んでしまっているんだ。そんな私の為に君が死ぬ事なんてない。頼む。君は生きてくれ。私は、君にだけは幸せになって欲しいんだ。それに、こんな言い方は卑怯かもしれないけど、折角、私が助けた命なんだ。だから、大切に使って欲しい」
ちがーう。猫ちゃ~ん。そうじゃないー。猫ちゃんが、変な勘違いをしているじゃないかーい。もっと強く、そう。もっと強くだ。猫ちゃんには悪いが、ここは、攻めていかないといけないと思うと、私は、更に演技をしつつ、言葉を作った。
私の言葉を聞いた、猫ちゃんが、とても悲しそうな、それでいて、とても、嬉しそうな顔になって、かわいい目から、涙を滂沱の如く流す。
「愛を感じるニャン」
猫ちゃんが、両前足で、とってもかわいく、自身の両目をコシコシと擦ってから、何か、とても強い決意を、胸に秘めているかのような顔をした。
「名前を付けて欲しいニャン」
「え? 名前?」
この猫ちゃんには敢えて、名前を付けてはいなかった。それは、ただ堤防で出会うだけの猫ちゃんに、必要以上に、感情移入をしたくはなかったからだった。名前を付けて、かわいがってしまったら、きっと、離れたくなくなって、いずれは、飼いたくなってしまう。良い年をして、独り者だった私には、猫ちゃんの面倒なんて見れるはずもなかったし、そもそも、私が住んでいた、六畳一間のボロアパートは、ペット禁止だった。
「猫の世界には名前を付けてもらったら、何度生まれ変わってもまた会えるっていう、秘密の言い伝えがあるニャン。秘密だけど、人間になら教えても良いと思ったニャン。これは絶対に誰にも言っちゃ駄目だからニャン。それと、人間の名前も、教えて欲しいニャン」
ううう。なんか、とっておきの秘密みたいなのを教えてもらっちゃったぞ。……。演技なんて、慣れない事を、するもんじゃなかった。すべてが逆効果だったみたいだ。全部裏目に出ている。猫ちゃんの勘違いが酷くなっていやがる。私は、そう思って愕然とした。
「なんで黙ってるニャン? 早く教えろニャン」
うわっ。出た。猫ちゃんのエキセントリックな部分。もう隠す気もないみたいだ。気に入らない事があると、性格が急変するなんて。怖過ぎだろっ! 猫ちゃんの態度の急変を受けて、私は、そんな事を思い、あわあわしてしまう。
「あ、ああ。私の名前だったっけ? それは、もうさっきから、神様が、言っていると思うんだけど」
なんだかんだとあって、更に、猫ちゃんの思いを加速させてしまっている事もあって、心理的に、大ダメージを受けている事を、表に出さないようにと、必死に表情を繕いつつ、猫ちゃんとの関係性の事を思い、歯切れの悪い返事をしてしまう。
「直接言って欲しいんだニャン。ちゃんと、この猫の為だけに、名乗って欲しいんだニャン」
猫ちゃんが、居住まいを正し、しゃんとした綺麗な格好で、お座りをする。
「分かった。私の名前は、開玉聖。えっと、これで良いかな?」
これは名乗ってしまっては駄目な奴なのでは? という思いが頭の片隅を過ぎったが、猫ちゃんのかわいいお座り姿の破壊力にやられ、今まで共に過ごして来た時間の事が思い出されて、大した抵抗もできずに、あっさりと、名乗ってしまう。
「もう〜。ダメダメなんだからニャン。そこは、この猫の事を世界で一番愛している男、開玉聖ニャンとかって、言ってもらいたかったけど、今回だけは許してやるニャン」
猫ちゃんが、とても嬉しそうにしながら、言って、それから、何かを期待しているかのような目になって、その目で、これでもかと、私の方を見つめて来て、更に、私を追い込もうとしているかのように、宝石の猫目石のようにキラキラと瞳を輝かせたので、私の意識は、あわわわ〜。猫ちゃん。かわいい〜。となって、グイっと持って行かれそうになってしまう。
「えっと、名前を付けた方が、良いんだっけ?」
私は、いけない。猫ちゃんに名前なんて付けてしまったら、猫ちゃんがもっと勘違いをしてしまう。だから、なんとかして名前を付けずに、この場を乗り切らないといけないんだ。と、思おうとしていたが、それは、思おうとしていただけで、やっぱり、猫ちゃんとのたくさんの思い出が頭の中に浮かんで来て、冷たくなんてできるはずもなく、猫ちゃんの圧に、逆らえるはずもなく、気が付けば、頭の中で、猫ちゃんの名前を必死に考えていた。
「聖が付けてくれる名前なら、どんな名前でも、嬉しいニャン」
猫ちゃんが、自分に付けられるであろう名前の事を想像して、ウキウキワクワクソワソワし始める。
ちょっと待った。今、猫ちゃん、聖って言った? ええ~?! いきなり凄い距離が近くなってない? と、そう思うと、ぞくりと背筋に冷たい物が走り、猫ちゃんに対する恐怖心が一気に高まり、危機意識も瞬時に高まって、危ない危ない。ここは断固阻止だ。これ以上、猫ちゃんとの関係を深くしてはいけない。と、釣れない時の釣りで培った粘りをみせて、なんとか踏ん張って、あの堤防での思い出と猫ちゃんの圧に抵抗すると、頭の中に数多に浮かんで来ていた、猫ちゃんのすべての名前の候補を消して、この状況を打開する為に、それらしい事を言ってみる。
「ごめん。やっぱり駄目だ。君に、相応しい名前なんてそう簡単には、決めらない。だから、待って欲しい。……。ああ。でも、そうか。神様。すいません。なんか、勝手にこっちの事ばかりをやってしまっていて。判決ですよね? 原告の皆さんも、クロダイ達も、待たせてはいけない。そうそう。クロダイ達。ありがとう。こうやって来てくれただけで、私は嬉しい。けど、もうそれだけで十分だ。だから、もう何も言わないで良い。私は、神様の下した判決なら、どんな判決でも受け入れるから。原告の皆さんの為にそうしたいんだ」
やった。言えた。最後まではっきりと言えたぞ。私は、猫ちゃんの圧に勝ったんだ。私は、自分の成し遂げた異業に感動し、自分の事を褒め称えた。
「大丈夫じゃ。開玉聖よ。猫ちゃんの思いを大切にするのじゃ。こんなにお前の事を大切に思ってくれている者は、そこのクロダイ達と、この猫ちゃんしかおらんのじゃ。猫ちゃんといつまでも一緒にいられるように、名前を付けてやるがよい。それまでは、判決は待つのじゃ」
後光が、ミラーボールかよっ。と、ツッコミを入れたくなるように、派手に光ったと思うと、神様が、感に堪えないといったような様子でそう言った。
「いや、でも、それは」
神様。ちょっと待って。そこは、そうじゃないでしょう? と思い、なんとか、神様に思い直してもらおうと口を開いたが、原告席からヤジが飛んで来て、私の言葉は途中で遮られてしまう。
しかも、そのヤジの内容は、猫ちゃんに名前を付けてやれというような、なぜか、敵であるはずの猫ちゃんの事を、気遣うような感じの物で、原告団の全員が、先ほど、私をあれほど責めていた生き餌達や、猫ちゃんに対抗意識を燃やしていた、クロダイの乙女までもが言っていて、この裁判所内が、初めて一つになっているような、謎の一体感を醸し出してさえいたのだった。
「早く名前を付けろニャン」
猫ちゃんが、その恐ろしい声音とは裏腹に、結婚の契りを交そうとする、新婦のような顔になって、私の目を見つめて来る。
「じゃ、じゃあ、名前は、ね、猫ちゃんで?」
猫ちゃんよ。雑になって来ているぞ。もう表情と言っている事がバラバラじゃないか。などと思いつつ、苦し紛れに、なんとかごまかそうとして、そんな事を言ってみたのだが、私の言葉を聞いた途端に、猫ちゃんが、瞬時に、鬼嫁のような形相をしたので、私は、慌てて咳払いを激しくして、その言葉をかき消そうとした。
「ごめん。間違えました。いつもの癖でつい。では、改めまして」
私は、ビビりまくって、我ながら、至極情けなく適当な言い訳をしながら、ごまかし笑いをしつつ、先ほどの無意味な抵抗を、これでもかと更に消しにかかってから、これは、いよいよ追い込まれているぞ。神様もクロダイ達も、あの、原告団達でさえも、猫ちゃんの味方になってしまっている。……。最早、これまでか。分かった。もう良い。何をしても、猫ちゃんとの関係は変わらなそうだ。もう、どうにもでもなってしまえ。などと思うと、ゆっくりと目を閉じた。
目を閉じて、真っ暗な闇の中で、心を閉ざしていた、私の、手に、ふんにゃりと優しく温かい物体が触れる。
「これは?」
私は目を開けて、その手に触れた物体を見た。
それは、猫ちゃんの肉球だった。
なんと、狡猾で、卑怯で、あざといのか。私は、猫好きなら誰もが持っている、恐ろしい不治の病、そう。あの、猫ちゃん中毒を発症してしまい、猫ちゃんハアハア。猫ちゃんハアハアとなってしまう。
猫ちゃんが、例え、どんな、性癖や、二面性や、本性を持っていたとしても。私の中には、猫ちゃんに対する感謝の気持ちや愛情が確かにあって、それは、今でも、あの頃と、なんら、変わってはいない。このまま、猫ちゃんと別れるなんで、やっぱり、嫌だ。今ままで、猫ちゃんとの関係をなんとかしようとして、なんやかんやとやってはみたが、もう無理。だって、猫ちゃんって、かわいいんだもん。もう良いや。流されてしまおう。ヤンデレ系、こじらせ系、猫ちゃん万歳!!
猫ちゃん中毒を発症してしまった私は、くるりんぱっと掌を返して、覚悟を決めて、猫ちゃんの名前を改めて、超真剣に、考えた。
「チコ」
「チコニャン?」
「うん。私がとても幼い頃に、家で母親が飼っていた猫の名前なんだ。別の猫と同じ名前じゃ嫌かも知れないけど、もしも、また、猫を飼う事があったら、この名前にするって決めていて。だから、この名前で良いかな?」
覚悟を決めた私は、最早、無敵となっていて、相手は、私の為に、こんな場所にまで来てくれた猫ちゃんなのだ。中途半端な事はしたくないと思って、その昔に、確かに、そう決めていた、大切な名前を、猫ちゃんに付けた。




