六 クロダイの乙女と猫ちゃんの事
「蘇る銀狼」という言葉の意味も、その文字が書かれている幟旗の意味も、学生服という格好の意味も、クロダイの乙女がなぜ私の事を、見込んだ男だなどといっているのかも、そもそも、クロダイ達が、突然この裁判所の中に入って来た理由も、分かっていない私は、何をどうすれば良いのかが分からなくなって、不安と恐怖が募って来て、喉が酷く乾いて、息が苦しくなって来ているような錯覚さえ覚えて、私の意識は、ふうーっと遠退いて、また、釣れないとか、死んでしまったとか、まあ、色々な事があったけれど、楽しくって幸せだった、あの堤防のあの牧歌的な空気感の中に、逃げ込んで行き始めて、その中で、あの堤防での、そんな雰囲気の象徴ともいえる、猫ちゃんの事を、思い出して、助けを求めるように、キョロキョロと辺りを見てから、縋るような思いで、猫ちゃんの方に顔を向けた。
「人間。ちょうど、お腹が減ったニャン。あれ、また、あの美味しそうで、生意気なクロダイ達を、食べて良いかニャン?」
私と目が合った猫ちゃんが、言って、とても、嬉しそうに、笑ったような顔をしてから、クロダイ達の方に顔を向けると、その顔に、獲物を狙うハンターのような、表情を浮かべる。
「いや、猫ちゃん。ちょっと待ってくれ。取り敢えず、あのクロダイ達が、何しに来たのかを、聞いた方が良いと思う」
猫ちゃんの見せた、残忍ではあるが、野生動物のとしては、当たり前なのかも知れないと思える反応が、私の心を少しだけ、不安や恐怖から解き放ってくれたので、私は、先ほどよりも冷静になって、状況を判断できるようになって、言葉を作る事ができた。
「人間。それは、どういう事だニャン? あいつらは、ただの、獲物のはずなんだニャン。余計な物はいらないんだニャン。人間はこの猫だけの物なんだニャン」
猫ちゃんが、言葉の途中から、私には聞こえないような小声になって、ボソボソと言い、なぜか、そのかわいい目に、冷たい炎が宿った。
「猫ちゃん? 今、なんて? 途中から、何を言っているのか、聞こえなかったんだけど?」
「今回だけニャン。ダメダメ人間の為に少し待っててやるニャン。もたもたしてたら、絶対に許さないんだニャン」
猫ちゃんが、また、言葉の途中から、私に聞こえないような、小声でボソボソと言い、今度は、今までに私が見た事がないような、ぞっとするような、冷たい表情を、顔に浮かべる。
「なんか、怒ってない?」
「怒ってなんてないんだニャン。それより、早くしないと、あのクロダイ達を、全部食ってしまうんだニャン」
私は、やっぱり何やら怒らせてしまっているようだ。何がまずかったんだろう? と思いつつ、猫ちゃんの機嫌を取ろうと、猫ちゃんの頭を撫で撫でしてから、クロダイ達の方に顔を向ける。
「あの、まずは、一応確認するけど、君達は、クロダイで良いんだよね?」
「そうさ。アタイ達はクロダイだ。あんたに釣られて食べられたね。皆、あんたと勝負して、負けて、散っていた者達さ」
クロダイの乙女が、優雅とも表現できるような、長い美しい胸鰭の先を、被っていた、ボロボロの制帽の、所々が欠けている鍔に当てて、クイっと上げる。
「そうか。それは、すまなかった。本当に、ごめん。でも、私は」
「待ちなよ。アタイ達は、あんたを責めに来たんじゃない。アタイ達は、あんたと正々堂々と戦ったんだ。この命のすべてを懸けでね。だから、恨んじゃいないよ」
私の言葉を遮って、そう言った、クロダイの乙女の目には、強く頑なな意志が宿っているのが感じられて、彼女の言葉に、嘘や偽りなどが、まったくない事が伝わって来た。
「それじゃ、何をしに?」
私は、喉を鳴らして、唾を飲み込む。
「アタイらはね。神様に原告団の一員としてここに来るようにって言われてたんだ。けど、それは違うだろうっていう思いがあってね。今日はここには来ないつもりだった。でも、まあ、あれさ。気になるじゃないのさ。アタイの頭蓋骨を、後生大事にとっておいてる男がどうなるのかがさ。だから、外から裁判の様子を伺うようにって仲間の一匹に言ってあってね。その子から、あんたが、理不尽に責められているっていう報告があってさ。しかも、あんたの味方は、ちんけな野良猫一匹らしいし? しょうがないってんで、出張って来たのさ」
クロダイの乙女が、言い終えると、どこか、気恥ずかしそうにしながら、胸鰭を使って、表情を隠すかのように、制帽を傾けた。
クロダイの乙女の言葉を、どう解釈すれば良いんだ? というような意味合いの、沈黙が、裁判所内を包み込む。
不意に、猫ちゃんが、シャー、シャーっと、威嚇するように唸って、その沈黙を破り、クロダイ達の方に向かって、やんのかステップで、走って行った。
「おい。クロダイ、また食ってやるニャン」
「残念だが、アタイは、あんたには食われてない。アタイはあの人間に食われてんだ。あんたの餌になる雑魚とは、格が違うんだよ」
「ねえ、人間。今のは、どういう事ニャン? 猫が食べていたのは、人間が、食べたくない、魚だったのニャン?」
猫ちゃんが、急に、しょんぼりとなって、弱気になって、不安そうになって、泣きそうになりつつも、どこか、得体の知れない、何かしらの、負の感情を潜ませているかのような目を、私に向けながら聞いて来る。
「ち、違う。確かに、えっと、小さかったり、私は食べな、えっと、とにかく、あ、あれだよ。……。ごめん。そうです。食べたくないっていうのは違うけど、サイズが小さかったり、逃がすには弱っちゃっていたり、後は、あんまり人間が好んでは、食べない種類の魚を、あげてました。本当にごめんなさい」
私の言葉を聞いた猫ちゃんが、ガーンという効果音が聞こえて来そうなほどに、全身からショックを受けというような雰囲気を出して、がっくりと項垂れてから、その場に、力なく座り込んだ。
「ふふん。アタイなんて、愛され過ぎて、死して、なお、この男に頭蓋骨を保存されていたんだからね。あんたとは愛され方が違うのさ。勘違いしてんじゃないよ。この、ちんけな野良猫が」
クロダイの乙女が、猫ちゃんに止めを刺さんばかりの勢いで、言葉を投げ付ける。
「頭蓋骨は、あれだから。自分でも悪趣味だとは思うけど、一応、トロフィー的な意味のあれだから。初めて釣った五十センチ越えだったし。あの時はそれで舞い上がっちゃって、ついつい、骨格標本の作り方とかを調べちゃって。それで作ちゃって。作ったら、ほら。捨てるのもね。命を弄ぶわけにもね。だから。取っておいたというか。そういう事だから、ね。猫ちゃん。そんなに落ち込まないで?」
私は、あわあわとなりつつ、猫ちゃんの傍に行き、猫ちゃんの顔を覗き込もうとして、しゃがみ込む。
「この裏切り者ニャン」
猫ちゃんの光速すら超えているかのような、猫パンチが二発繰り出され、私の右頬と左頬が打たれて、爪でやられて出血してしまう。
「猫ちゃん。ごめん。悪かった。本当に俺が悪かった。次から絶対に、あんな事はしないから」
私は心の底から、悪いと思うと、その思いを伝えようとして、本気で謝った。
「しょうがない人間だニャン。人間にはこの猫がいないと駄目だもんねニャン。でも、これからは、この猫だけだニャン。他の女の事を見たら、また猫パンチだニャン」
猫ちゃんが、明らかに、異様さを感じるほどの、不自然な切り替えの早さを見せて、嬉しそうな優しそうな顔になって言う。
「は、はい? 見ただけでも駄目なの? それに、他の女って?」
私は、ここに来て、初めて、猫ちゃんが、ただのかわいい猫ちゃんではなく、ヤンデレ系で、何かを激しくこじらせている系の、猫ちゃんだった事を知ったのだった。




