16 犬神と山伏と、彼女の約束(前編)
その山には、大きな山犬が棲むといふ。
人の身の丈を超ゆる大きな身体は、雪のやうな白い毛に覆われ、青白く光る目はさながら鬼火のやう。
山犬は、真白き髪の媼とともに、山深くに住まうといふ――。
***
「参ったなぁ……」
男は、汗に濡れた額を手甲で拭う。藪をかき分け、道なき道を進み、すでに数刻が過ぎていた。
さほど大きくも深くもない山である。
だというのに、行けども行けども山頂に着く兆しはおろか、喉を潤すための谷川を見つけることもできない。
代わり映えの無い山林の景色の中、目印としていた大きな木の洞――ちょうど六角の形をしており、覚えやすかったのだ――を六度見かけ、男はついに立ち止まった。
笠を被ったまま、顎の下に落ちる汗を再び手甲で拭った。脳裏に浮かぶのは、麓の村人たちの言葉だ。
『あの山は人が入っちゃなんねぇ。山犬様の縄張りだ』
『いくら徳の高い山伏様でも、やめといたほうがいいと思いますよ』
渋い顔、苦笑する顔を思い出したところで、今さら引き返すこともできない。引き返すべき道も見失っている状態なのだ。
どうやら、ただ山中で迷っているわけではないようだ。何かしらの術にかかっているようである。
「さて……どうしたものか」
男は呟くが、その声に焦りの色は無い。のんびりとした声であった。
とはいえ、声を出せば乾いた喉が痛む。水で潤そうにも、生憎と竹筒は空であった。仕方ない、と男は手頃な石の上に腰を下ろし、左に下げていた瓢箪を取る。
栓を取れば、漂うのは甘く濃い酒精の香り。中身は秘蔵の濁酒である。
山に酒を持ち込むなど、と他の修験者からは非難を浴びそうではあるが、男の師匠は気にした様子もなかった。月が美しい夜もそうでない夜も、堂々と酒を楽しんでいたものだ。
男はさほど濁酒を好みはしなかったが、甘味の強いそれは、疲れた身体に利く。しばしの休憩だ。
とりあえず一口、と瓢箪を傾けようとして、男は手を止めた。
何かの視線を感じたからだ。
ふむ、と内心で呟きながら目線を辺りに巡らせれば、鬱蒼とした叢の中に白いものが見えた。
大きな、白い、四つ足の獣。
男は思わず顔をそちらに向けた。すると、青く光る目と、目が合った。
草を踏みしめる白い足、鋭い爪。汚れを知らぬ真っ白な毛に全身を覆われた身体は、男よりも大柄ながら、しなやかで美しい。白く長い尾が、高い位置でゆっくりと警戒するように揺れる。
現れた白い大きな山犬は、男をじっと見つめていた。
男もまた、瓢箪片手に口を開いたまま、犬を見つめ返す。
「……」
双方、黙ったまま目を合わせたのは、数秒のこと。やがて、白いものはぴくっと三角の耳を揺らした後、叢の奥へと消えてしまった。
追うこともできずに揺れる葉を見ながら、男は気づく。
犬が消えた叢の中、白く光るものがある。立ち上がって近づけば、それは白い犬の毛であった。
道しるべのように残った白い毛を辿れば、今まで迷っていたのが嘘のよう。ほんの半刻もせずに開けた場所に出た。
開けたといっても、山林の中に比べれば、と言う話だ。生い茂る葉や苔むした地面は、手入れされているように見えない。鬱蒼とした木々の間から見えるのは、影を落とす小さな池だ。
庭と知れたのは、その開けた場所の奥に家があったからだ。
木で造られた建屋はさほど大きくない。古びてはいるが頑丈そうな柱で支えられた、苔や草が生え朽ちかけた屋根の下には、縁側があった。
そこに、一人の老女が胡坐をかいている。
まず目に留まったのは、白い髪だ。綺麗な銀髪を、後ろで軽く結わえていた。次に目に留まったのは、切れ長の目。年のせいかやや垂れ下がり、皺も深く刻まれているが、涼やかで凛とした色がある。
白い小袖に、藍色の袴。上に羽織るのは縹色の着物。柱に寄りかかり、手元の書物らしきものを見ていた彼女が、ふっと目線を上げる。
「……珍しいな。客人か」
男の姿を見て、老女は唇を綻ばせる。無邪気な笑みだった。
男が呆然と老女を見つめていれば、背負っていた笈に衝撃と重みがかかる。
「うわっ…」
前のめりに倒れた男の首の後ろで、ぐううと獣の低い唸り声がした。肩にちりっと痛みが走る。着物越しに、鋭い爪が食い込んでいるのだ。
首をひねって背後を見やれば、あの白い大きな山犬が男に圧し掛かり、地面へと押さえつけていた。
鋭い牙を眼前にし、身を強張らせた男であったが、それを止めたのは老女だった。
「止めぬか」
老女の一声で、男の肩を押さえつけていた山犬の力が緩む。だが、拘束は外れることなく、青い目が睨み下ろしてきた。唸る獣の声に混じって、低い男の声が響いてくる。
『こいつ、いったい何者だ。どうやってここに入って……』
「どうやって……というか、その、貴方の白い毛が道しるべになったので……」
男が戸惑いながら答えると、山犬がぎょっとしたように男の身体から飛び退く。
『お主、我の声が聞こえておるのか……?』
「え?」
何とか身を起こした男は首を傾げる。山犬は青い目をますます鋭くしてこちらを睨んできた。
『さては大神が差し向けた者か。汚らわしい犬神使いが、何用でこの山に入った?ここは白瀬の治める地ぞ。侵すことは許されぬ』
「お、お待ちください、山犬様。私は犬神使いでは……」
『言い訳はいらぬ。先に約束事を破ったのはそちらだ。覚悟いたせ!』
低い声で鋭く恫喝した山犬は、男に向かって飛び掛かってくる。
咄嗟に男は横に飛んで躱したものの、被っていた笠を鋭い爪で引き千切られた。地面に転がった男は、そのままあたふたと両手足を動かして庵の方へと逃げる。
山犬はその後を追ってくる。
『待て!』
「止めろと言ったであろう、雪王」
男と山犬の間に割って入ったのは、老女だった。
いつの間に来ていたのか、涼しげな顔で男を庇うように前に立つ。
「せっかちな奴だな。ちゃんと話を最後まで聞いてやれ」
『……』
山犬は不満そうではあったが、飛び掛かろうと力を込めていた腰を地面へと下ろした。かさり、と草が揺れる。
男は老女を見上げた。
「あの……」
「ようこそいらした、お客人」
老女は振り返り、男を見やると軽く目を瞠った。しかしすぐに、片手を差し出す。
「私は文緒と申す。其方の名を聞いてもいいか?」
「……恵信と、申します」
男が答えれば、老女――文緒は再び無邪気に微笑んだ。
今回の番外編は、白瀬と高階の過去にまつわる話になります。
一応、前中後編を予定。
主人公達サイドの話とはがらりと変わりますが、繋がりを感じながら読んでもらえれば幸いです。
ちょっと用語説明
笈:山伏が背負っている箱。引き出しがついており、中には法具などを入れます。




