第三話 僕が女装することによって起きた変化
こちらは第三話になります。
第一話からご覧いただけたら幸いです。
半年の猶予が決まってからも、予定どおり交流会は続けられた。
その中でも、一番気が重かったのは、王宮で開かれる舞踏会の練習を兼ねた小夜会である。
当然、婚約者同士として参加しなければならない。
しかも、最初の一曲は婚約者と踊るのが貴族社会の慣例だった。
「……本当に僕が踊るの?」
思わず祖母を見る。
「もちろんです」
有無を言わせぬ即答だった。
母も穏やかに微笑む。
「女性側の所作は十分身についていますよ。そこらのご令嬢にも引けは取りません」
そう言われても、不安は消えない。というより、別の不安が湧いてくる。
この半年で、歩き方や礼の仕方、扇の扱いまで何度も叩き込まれた。ドレス姿で動くことにも、もう戸惑いはない。
すでに立派な淑女として通用する。成人間近の紳士であるはずのこの僕が……本当にこれでいいのだろうか?
しかも、舞踏会だよ……?
手を取り、向かい合って、一曲踊る。さすがにそこまで近づけば、気付かれないはずがない。
それに、何が悲しくて野郎と手を取り合い、密着しなければならないのか。
これから始まる試練を思うと、僕は思わず天を仰ぎたくなった。
◇
学園の大広間には、多くの若い貴族たちが集まっていた。
色とりどりの礼装やドレスが行き交い、楽団の演奏が華やかに会場を満たしている。
やがて開会が告げられると、婚約者同士が中央へ進み出た。
僕もクラリスとしてレオンハルトの前へ立つ。
差し出された手へ、おそるおそる自分の手を重ねた。
――ううっ……気持ち悪い。
演奏が始まる。
レオンハルトの動きは、一見すると悪くなかった。
姿勢は崩れず、手の位置も教本どおりで、見た目だけなら模範的な踊りに見える。
だが、一歩目で分かった。
この人は、相手に合わせて踊るつもりがない。
こちらが半歩引き、歩幅を合わせなければ、何度も足を踏まれそうになった。
おかげで、一曲が終わる頃には別の意味で疲れ切っていた。
レオンハルトは形式どおり一礼すると、
「では失礼する」
それだけ言い残し、さっさと他の令嬢たちの輪へ向かっていく。
楽しそうに話しかけられ、満足げに微笑む姿は、さきほどまで僕と踊っていた人物と同じとは思えなかった。
相手の多くは男爵家や子爵家の令嬢である。
公爵家三男という肩書きは、それだけ魅力的なのだろう。
僕はようやく壁際へ移り、小さく息をついた。
「お疲れさまです」
柔らかな声に振り向くと、一人の令嬢が穏やかな笑みを浮かべていた。
栗色の髪を上品にまとめ、落ち着いた物腰が印象的な少女である。
どこか見覚えがあった。
――そうだ。
姉さんの友人、アイリス・ハーブランド侯爵令嬢だ。
淑女科で何度か見かけたことがある。
「ごきげんよう、クラリス様」
挨拶を交わしたあと、アイリスはレオンハルトの方へ一瞬だけ視線を向けた。
「……よろしいのですか?」
何を尋ねているのかは、説明されなくても分かった。
婚約者が他の令嬢たちに囲まれている。
普通なら、穏やかな気持ちではいられない光景だ。
「構いませんわ」
僕は静かに答えた。
「そうですか……」
アイリスはそれ以上何も聞かなかった。
慰めることも、詮索することもなく、ごく自然に僕の隣へ立つ。
「庭園の薔薇はご覧になりましたか。今年は例年より花付きが良いそうですよ」
そんな他愛ない話から始まり、好きな本や学園で評判のお菓子の話へと移っていく。
気がつけば、楽団は最後の曲を奏で始めていた。
レオンハルトが戻ってきたのは、その頃だった。
「帰るぞ」
その一言だけである。
僕はアイリスへ一礼した。
「それでは失礼します」
「はい。また学園で」
穏やかな笑みを交わし、僕はレオンハルトの後ろについて歩き出す。
何気なく振り返ると、アイリスはまだこちらを見送っていた。
その視線が僕へ向けられたものだったと知るのは、もう少し先のことである。
◇
舞踏会以来、アイリスは学園でレオンハルトと交流会が始まると、四半時もすれば見計らったように現れ、声を掛けてくれるようになった。
もちろん、相手は"クラリス姉さん"である僕だ。
今日も女装姿で、レオンハルトとの交流をしていると、
「クラリス様――」
聞き慣れた声に振り向く。
アイリスが柔らかな笑みを浮かべて立っていた。
「ごめんなさい、お邪魔かしら?」
レオンハルトにも向けてそう問いかける。
「いや、ちょうど終わったところですよ」
いつものように外面だけはよいこの男は、しばらく三人で会話したあと、
「じゃあ、僕はこの辺で失礼するよ」
と去っていった。
ぼくたち二人は場を変えて、中庭へ向かう。
木陰のベンチへ腰を下ろすと、風が木々を揺らし、葉擦れの音が静かに響いた。
「クラリス様は本がお好きなんですね」
僕の手元にある詩集に目をやってアイリスが尋ねる。
「ええ、分野は問わず本を読むことは好きですわ」
「私も好きなんです」
自然と本の話になる。
話題は最近読んだ本へ移り、歴史書の面白さや旅行記で訪れてみたい土地の話で盛り上がった。
気づけば騎士物語や流行の恋愛小説まで話題は広がり、お互いに好きな作家を紹介し合っていた。
「クラリス様は、本当に聞き上手ですね」
「そうでしょうか?」
「ええ。私、つい話し過ぎてしまいます。
クラリス様が、いつも気持ちよく聞いてくださるものですから」
アイリスは、そこで小さく笑った。
「もっとも、話す方ばかりが気持ちよくなってしまうのも、考えものですね。
お相手の方が、どんなお気持ちで聞いていらっしゃるのかも大切ですから」
「……そうですね」
思わず返事に詰まった僕を見て、アイリスは何事もなかったように話を続けた。
「ヴァルディス公爵家の令息も、ずいぶんお話がお好きなようですけれど……あの方は、聞き手のことまで気にかけていらっしゃるのでしょうか」
「……どうなのでしょう?」
僕が曖昧に答えると、アイリスは少しだけ首を傾げた。
けれど、その表情には咎めるようなところはない。むしろ、こちらの返事を待ってくれているようだった。
もしかして、今の言葉は……
そんな考えが頭をよぎったものの、確かめる勇気はなかった。
その笑顔につられて、僕も笑ってしまう。
姉さんはよく言っていた。
「人と話す時は、自分が話すより相手に話してもらう方がいい」
アイリスと話していると、不思議と肩の力が抜けた。
沈黙が気まずくならない。無理に話題を探さなくても会話が続く。
そんな相手だった。
「クラリス様のお家は、婚約について厳しいのですか?」
少しだけ答えに迷う。
「良くは分からないですけど、多分普通だと思います」
「そうでなんですね……」
アイリスは空を見上げた。
「――うちは少し変わっているんです」
「変わっている?」
「そうなんですの」
少し照れたように笑う。
「恋愛結婚を勧める家なんですよ」
確かに、貴族家としては珍しい。
僕も思わず聞き返した。
「ご両親がそうだったの?」
「はい……というよりは、代々そうなのです」
アイリスは嬉しそうに頷く。
「少なくとも、十代前くらいから続く家風なんです。
もちろん家同士の事情を全く考えないわけではないのですが……でも、それだけで相手を決めてほしくない、と――」
その言葉が妙に印象へ残った。
「だから、小さい頃から言われてきたんです」
アイリスは少しだけ頬を赤くする。
「好きな人を見つけなさいって」
「……素敵なお話ですね」
「クラリス様は?」
「え?」
「どんな方がお好みですか?」
思わず固まる。
僕は男だ――答えられるはずがない。
何とか笑顔だけは崩さず返す。
「考えたことがありません」
「そうなんですか?」
「ええ――」
「私はあります」
アイリスは迷わず答えた。
「家族を大切にする人、誠実な人。
そして、困っている人を放っておけない人」
少しだけ笑う。
「少しくらい不器用でも構いません」
その笑顔が、とても自然だった。
僕は心のどこかで思う。
この人と結婚する人は幸せだろうな、と。
◇
帰宅後、姉さんが聞いてきた。
「今日はアイリスと何を話していたの?」
最近は交流会の様子を姉さんも心得ていて、レオンハルトのことなど一切聞かず、そのあとのアイリスとのことを聞いてくる。
「本の話を少々…かな」
「それだけ?」
「……恋愛の話も少し」
クラリス姉さんがにやりと笑う。
「ふーん」
「何だよ?」
「別に?」
絶対に何か企んでいる顔だった。
僕は嫌な予感しかしなかった。
◇
学園では、新たな噂が広がっていた。
公爵家三男レオンハルト・ヴァルディス、そして男爵家庶子、マリア・アシストの不適切な交際について――
レオンハルトは周囲へ隠すことなく彼女を伴い、学園内を歩いていた。昼食もマリアと共にし、休み時間になれば当然のように隣へ向かう。
放課後になると、そのまま二人で校舎を後にする姿も珍しくなかった
「身分の低い者へ貴族社会のあり方を教え導いているだけだ」
レオンハルトはそう説明していた。
「それが上に立つ高貴なる者の務めだ」
なるほど、と納得する者もわずかにはいた。
だが、学園に通う令息令嬢たちは、そこまで世間知らずではない。
レオンハルトは、指導を口実にマリアと二人きりで庭園を歩き、昼食を共にしている。
休暇の日にも街へ出掛けるようになれば、周囲がその関係を額面どおりに受け取らなくなるのも当然だった。
もっとも、相手は公爵家の令息である。立場を慮って公然と批判する者はいなかったが、内心では誰もが事情を察していた。
もちろん、その話は姉さんの耳にも入る。
けれど姉さんは、以前のように婚約解消を訴えることはなかった。
すでに半年後の解消が決まっている。
今さら感情を乱される理由もないのだろう。
それでも学園では、
「クラリス様がお気の毒――」
そんな声が少しずつ増えていった。
◇
交流会の日。
レオンハルトは、その日の出来事を誇らしげに語っていた。
「マリアは飲み込みが早い。
私が導いてやれば、一人前の貴族令嬢になれるだろう」
僕は返事をしない。
返事をしたところで、会話になることはない。
不毛な暴言を聞き続けるよりは、自覚のない不貞自慢を聞いてるほうが、いくらかマシでもあった。
その日も、話が長引いているのを見かねたアイリスが、いつものように声をかけてきた。
けれど、レオンハルトは彼女まで会話に引き込み、マリアの話を続けた。
アイリスは穏やかに相槌を打ちながら、僕にも話を振ってくれた。
おかげで、ようやくレオンハルトの一方的な話から抜け出すことができた。
第四話は、一時間後にアップしてまいります




