第二話 僕が女装することによって分かったこと
こちらは第ニ話になります。
第一話からご覧いただけたら幸いです。
僕は今までの人生で一番緊張しながら庭園のオープンテラスへ向かった。
白いクロスが掛けられたテーブルには紅茶が用意され、初夏の風が庭木を揺らしている。その席には、すでにレオンハルトが当然のような顔で腰を下ろしていた。
僕は慎重に一礼した。楚々とした令嬢たることを意識して、少し取り澄ました表情を浮かべる。
「お待たせしました」
少しだけ声が上ずったかもしれない。
その瞬間、レオンハルトは小さくため息をついた。
「今日もいつも通り愛想の欠片もないな」
ハァッ?……僕は固まった。
今の一言は、僕が男かどうか以前の問題ではないか。
断じて、婚約者に掛ける言葉ではないだろう。
レオンハルトは気にした様子もなく続ける。
「わざわざ来てやった私に、少しは感謝の気持ちはないのか」
呆気にとられて、返事ができない。あまりにも驚きすぎて言葉が出なかった。
その後の三十分間、彼はほとんど一人で話し続けた。
「わざわざ来てやった私に、少しは感謝の気持ちはないのか」
「もっと華やかに笑え」
「私を求める令嬢は幾らでもいる」
「私を支える努力が足りない」
「婚約者の立場に執着しているなら、それを態度にして表したまえ」
僕は途中から、これは会話ではなく彼の偏見に満ちた独演会なのだと理解した。
やがて彼は紅茶を飲み終え、立ち上がった。 お茶菓子まで一欠片残さず平らげている。
あれだけ喋りまくって、いつそんな暇があったのだろう。
「今日は帰る」
そう言って踵を返すと、侍女には穏やかな笑みを向け、通りかかった母には完璧な礼をして去っていった。
馬車の音が完全に聞こえなくなった。
僕は大きく息を吐き、思わず天を仰いだ。
「…………いや、あいつ、おかしいだろ」
ようやく姉が婚約解消を願い続けていた理由を、僕は身をもって理解したのだった。
◇
翌月の交流会は、公爵家で開かれた。
侯爵家とは違い、広い庭園の奥に設けられた東屋まで歩くだけでもかなりの距離がある。
その間レオンハルトは、屋敷の使用人たちが見ている間だけは、完璧な公爵令息だった。
だからこそ、姉が婚約解消を望む理由を、誰も理解できなかったのだろう。
東屋へ着き、使用人たちが適切な距離を取って控える。
レオンハルトはそれを見届けると、小さく息を吐いた。
「今日は歩くのが遅かったな」
穏やかな笑みは消えていた。
「婚約者として、もう少し相手に合わせる努力をしたまえ」
ノアは黙って席へ着く。
姉さんの話は、一つも誇張ではなかった。
人払いが済んだ瞬間から、彼の真の顔が現れる。
言葉を返そうとしても聞いていない。
返事を求めているように見えて、求めてはいない。
彼に必要なのは会話ではなく、自分の言葉に黙って殴られ続ける相手だけだった。
時間だけが過ぎていく――
侯爵家では三十分ほどだった。
だが、公爵家では違った。
昼下がりに始まった交流は、紅茶が差し替えられ、茶菓子が運ばれ、それでも終わらない。
ようやく席を立った時には、時計の針は二時間近く進んでいた。
屋敷へ戻る馬車の中で、ノアは深いため息をつく。
「どうだった?ノア。交流会フルコースのご感想は?」
万一正体がバレた時のために、今日は姉も同乗して、交流会が終わるまで馬車のなかで控えていた。
「――姉さん」
「ふふっ、何かしら?」
必要以上にニッコリと微笑んで姉が応えた。
「アレは確かに常軌を逸している」
クラリスは窓の外を見たまま、小さく笑った。
「でしょう?」
姉さんは、それ以上何も言わなかった。
けれど、その笑顔には以前より肩の力が抜けていた。
二時間に及ぶフルコースの苦行。その対価としては、僕にはそれで十分だった。
◇
交流会を終えて屋敷へ戻ると、祖母から応接室へ来るよう声を掛けられた。
部屋には祖母と母が揃っていた。
けれど、いつものような笑顔は誰の顔にもなかった。
「ノア、ご苦労さま」
「いえ――」
姉と二人で席に着くと、祖母は一口だけ紅茶を含み、静かにカップを置いた。
「それで、今日はどうだったの?」
「今日は……」
僕は、交流会でのレオンハルトの言動を、覚えている限り二人に報告した。
僕は、交流会でのレオンハルトの言動を祖母たちに報告した。
人目のあるところでは礼儀正しく振る舞っていたものの、二人きりになると姉の話を聞こうともせず、一方的に自分の考えを押しつけて暴言を吐き続けたこと。
そして、姉が何を言っても、まるで聞く耳を持たなかったことを。
報告を終えると、祖母はしばらく黙っていた。
やがて、もう一口紅茶を含み、静かにカップを置いた。
「……もう、いいでしょう」
その言葉に、母も小さく頷く。
「私も同じ考えです」
最初の目的は、入れ替わりが本当に通用するのかを確かめることだった。
だが、一度も見破られなかった。
それどころか、レオンハルトは相手が姉さんかどうかすら見分けようとしなかった。
あの男が見ているのは、目の前にいる婚約者ではない。自分の中で勝手に作り上げた理想の婚約者なのだろう。
そして、その理想像と姉を勝手に比較し、忠告しているつもりで、実際には上から目線の暴言を一方的に浴びせ続けているだけだった。
その事実を知った今、父を除く家族の考えは一つにまとまっていた。
婚約は解消する――
そのためには、誰にも覆せない証拠が必要だった。
だから、入れ替わりはその後も続けることになった。
もう、姉さんの代役を務めるためだけではない。
婚約解消に向けて証拠を積み上げる。それが、入れ替わりを続ける主な目的だった。
そして僕には、もう一つ確かめてみたいことがあった。
どこまで姉さんと違う振る舞いをしても、あの男は気づかないのだろうか。
そんな好奇心も、少なからずあった。
その次の交流会では、姉さんなら選ばない色のドレスを着てみた。化粧を少し控えめにし、髪型も変える。歩く速さや座る姿勢、本を開くタイミングまで意識して変えてみた。
それでも、レオンハルトはまるで気づかなかった。
僕がどれだけ姉さんと違う振る舞いをしても、あの男は目の前の相手を疑おうともしない。
その様子を確かめる一方で、祖母たちは交流会での言動を記録に残すため、準備を進めていた。
侍女や執事たちに普段より近くで控え、会話へ耳を澄ませるよう指示を出した。
さらに王宮で使用される集音器も用意し、祖母たちは隣室から一部始終を聞き取る。
そのやり取りは、公式の記録官によって正式な記録として残される手筈まで整えられていた。
「そこまでするの?」
思わず尋ねると、祖母は迷うことなく頷いた。
「ええ。後になって『そんなことは言っていない』などと、言い逃れはさせません」
◇
すべての準備が整い、次の交流会当日を迎えた。
もちろん、レオンハルトは何も知らない。
人払いが終わると、いつものように僕への説教が始まった。
東屋の外では護衛や侍女が耳を澄ませ、隣室では祖母たちとともに記録官が待機している。
王宮から借り受けた集音器を通して交わされた言葉は、一言一句漏らさぬよう、その場で公式記録として書き留められていった。
やはりレオンハルトは、最後まで何一つ気付かなかった。
交流会が終わると、祖母は静かに目を閉じる。
「……これで十分です」
記録官は筆を置き、作成した記録を祖母へ差し出した。
「確認いたしました。本日のやり取りは、すべて記録しております」
祖母は静かに頷く。
「ご苦労さまでした
……これだけ揃えば、もうバカ息子たちも目が覚めるでしょう」
◇
数日後、アルヴィン侯爵家とヴァルディス公爵家、両家による話し合いが開かれた。
僕も経緯を説明するため、その場へ同席する。
集音器に残された記録。
護衛や侍女、執事たちの証言。
そして、半年近く姉さんの代わりを務め続けた僕自身の報告。
一つずつ積み重ねられた事実を前に、部屋は重苦しい沈黙に包まれた。
父は苦しそうに目を伏せていた。
ヴァルディス公爵とは学生時代からの親友である。だからこそ、婚約を解消すると決断をくだすには相応の葛藤があったのだろう。
ヴァルディス公爵もまた厳しい表情のまま俯き、反論の言葉を見つけられずにいた。
長い話し合いの末、一つの結論が下される。
婚約は解消する――
ただし、即日ではない。
猶予は半年。
その間にレオンハルトが自ら過ちに気付き、態度を改めるのであれば、その時点でもう一度だけ判断する。
これは、なおも息子に更生の機会を与えたいと願う両家の父親たち、最後の願いを汲んだ決定だった。
もっとも、その半年は猶予ではあっても、救済ではない。
婚約が解消されることも、その結論に至るだけの証拠が揃っていることも、レオンハルトには一切知らせない。
誰かに諭されて改めるのでは意味がない。
自ら誤りに気付き、自ら変わらない限り、婚約解消という結末は、もはや覆ることはなかった。
決定事項は記録官によって正式な文書へまとめられ、両家はこれに署名した。
こうして、半年後に婚約を解消すること、そしてレオンハルト本人には一切知らせないことが正式な合意として文書にまとめられた。
その文書は祖母を通じて王家へ提出され、王家もまた、この取り決めを正式に了承した。
そして、その半年間の交流は、必要最低限にとどめられることになった。
場所は学園のサロンへ移され、両家への訪問は取りやめとなった。
誰が行くのかと言えば、答えは決まっている。姉さんの代わりに向かうのは、僕だった。
帰り際、祖母が僕の肩へそっと手を置く。
「もう少しだけ、頼めるかしら」
僕は苦笑しながら頷いた。
「姉さんのためですから」
その時の僕は、まだ知らなかった。
その半年が、姉さんだけではなく、僕の人生まで変えてしまうことになるとは。
第三話〜第四話まで、一時間置きにアップしてまいります。




