第5章・第4話:閉ざされた北の道と、冷めたシチュー
地吹雪の中を戻る過酷な道程を経て、シエルたちは再び第一の町『スノウゲート』の防壁内へと帰還した。
「マスター、空き部屋はあるか? こいつを寝かせてやってくれ。ひどく冷え切っている」
「お、おい……こいつはフロストフォールの道具屋じゃねえか! いったい何があったんだ!?」
宿屋の主人に行商人を引き渡すと、酒場にいた町民たちの視線が一斉にシエルたちに集まった。
バルドが重い声で「フロストフォールは全滅だ。街は黒い焔に焼かれ、生き物はすべて石に変えられていた」と告げると、酒場の中は水を打ったように静まり返り、直後に悲鳴にも似たざわめきが爆発した。
事態の深刻さを受け、スノウゲートの自警団は即座に動き出した。
数十分後には、宿の扉や町の掲示板に『北の街道・全面封鎖』の張り紙が打ち付けられ、酒場は町民たちの不安に満ちた声で溢れかえっていた。
「おい、聞いたか……黒い鎧の軍隊が街を焼いたって……」
「いや、白い騎士が石化の呪いを撒き散らしたらしいぞ!」
「どっちにしろ終わりだ! 次はこの町に来るかもしれねえ……!」
恐怖に青ざめ、声を荒げる者。荷物をまとめて南へ逃げようと相談する者。
喧騒が渦巻く酒場の片隅のテーブルで、シエルたち三人は昼食を取ることにした。
テーブルの上に並べられたのは、本来なら冷えた体に染み渡るはずの、湯気を立てる鹿肉のシチューと堅焼きパン。しかし、三人の間に漂う空気は、外の吹雪よりも重く冷たかった。
バルドは木製のスプーンを握ったまま、一口もシチューに手をつけていなかった。
彼の脳裏には、黒い焔に焼かれながら石化した男の凄惨な顔が焼き付いている。これまで幾多の機械や兵器の構造を熟知し、時にはそれを解体し、時には命を繋ぐために腕を振るってきた『マスターエンジニア』であるバルドにとっても、あれは単なる破壊ではなく、命への冒涜とも言える理不尽な「蹂躙」だった。
(……イグノタフの特務部隊も、あの白い騎士って男も……命をなんだと思ってやがる)
苛立ちと己の無力感から、バルドの無意識の内に力がこもった銀色の義手が、ギシ……ギシ……と鈍い軋み音を立てた。
その対面で、ティオもまた、シチューを見つめたまま俯いていた。
いつもなら誰よりも早く平らげ、「おかわり!」と元気に叫ぶ彼女の琥珀色の瞳は、ひどく沈んでいる。
視界を塞がれる直前に見てしまった、あの親子の石像。自分と同じくらいの小さな子どもを庇うようにして固まっていた母親の姿が、どうしても自分の母親の姿と重なってしまうのだ。
(……どうして。どうしてあんなひどいことができるの)
胸の奥がギュッと締め付けられ、食欲など到底湧いてこない。
しかし、ティオは両手で自分の頬を「パンッ!」と強く叩いた。
「……食べなきゃ。お母さんに、よく食べてよく寝るのが一番の薬だって言われたもん。しっかり食べて、あの石になった人たちを元に戻すんだ……!」
ティオは無理やり自分を奮い立たせると、大きな堅焼きパンをちぎり、シチューに浸して口に運んだ。その目は微かに潤んでいたが、強い意志の光が宿っていた。
一方、シエルは手元のハーブティーの表面に映る自分の顔を見つめながら、深く、果てしない思考の海に沈み込んでいた。
白い騎士、カイル・イグノタフ。
彼に関する情報は、王都にいるレインからの通信で事前に聞かされていた。
幼少期の頃にイグノタフ侯爵家による非道な洗脳を受け、自らの手で実の父親を殺害させられたという、あまりにも呪われた生い立ち。
そしてごく最近、王都の『時計台の書館・第3階層』にて、レインとエレナ、そしてカイル自身の死闘の末に、ようやくその忌まわしい洗脳が解かれたばかりだということも。
(洗脳は解けたはずなのに……。どうして?)
シエルの脳内で、無数の推論が展開されては棄却されていく。
自由な意志を取り戻したはずの彼が、無関係な市民の命まで、あそこまで徹底的に、まるで「不要なデータ」を削除するかのように石化していく姿。
今の彼は、洗脳されていた頃以上に感情を失い、システムをただ物理的に浄化する『修羅』と化しているように見える。それはシエルの計算式から完全に逸脱していた。
(物理的な石化バグ。そして、特務部隊が放っていた禍々しい黒い焔……。あの黒焔も通常の魔術じゃない。システムに介入して物質を強制燃焼させる、チート級の違法プログラムみたいなものだわ)
イグノタフ侯爵家の特務部隊は、何を隠滅するためにあの街を焼いたのか。
洗脳の解けたカイルは、なぜ黒焔ごとすべてを石化させたのか。
そして、この世界のシステムを狂わせている「根源」は、特異点クリスタル・フォールで彼らに何をさせようとしているのか。
「……シチュー、冷めてしまうわよ」
不意にシエルが顔を上げ、静かな声で沈黙を破った。
「え?」
ティオが顔を上げる。
「バルド、義手を軋ませている暇があったら食べなさい。これからの道程は、今までよりもずっと過酷になるわ」
シエルはハーブティーを一口飲むと、毅然とした態度で二人を見据えた。
「シエル……お前、この状況で……」
「自警団が北への街道を封鎖したわね。当然の処置だけれど、私たちはあそこに留まるわけにはいかない」
シエルのアメジストの瞳には、恐怖も絶望もない。ただ、天才ハッカーとしての氷のように冷たく、研ぎ澄まされた理性が光っていた。
「フロストフォールを抜ける正規ルートは完全に使えなくなったけれど、クリスタル・フォールへ向かう『獣道』なら、まだ存在するはずよ。ティオ、あなたなら案内できるわよね?」
その問いかけに、ティオはハッとして、すぐに強く頷いた。
「……うん! 街を通るより険しくて魔獣も多いルートになるけど、アタシなら絶対におじさんたちを導けるよ!」
「上等だ。……こんな胸糞悪い真似をした奴らを、これ以上好き勝手させてたまるかよ。腕鳴らしにはちょうどいい」
バルドも吹っ切れたように荒々しくスプーンを手に取り、冷めかけた鹿肉のシチューを豪快に口に放り込んだ。
ザワザワと恐れおののく市民たちの喧騒の中で。
冷たい絶望に一度は足を止めかけた三人のプロウォーカーは、それぞれが内に秘めた怒りと決意を胸に、閉ざされた雪山の向こう側――世界の真実が眠る場所へと、再び牙を剥き始めていた。




