第5章・第3話:失意の騎士
翌朝。シエルたちは猛烈な地吹雪を真っ向から受けながら、さらに北へと歩みを進め、ついに第二の街――交易街『フロストフォール』へと辿り着いた。
だが、かつて活気に満ちていたはずのその街を囲む巨大な防壁は、内側からの爆発によって無惨に吹き飛び、半ば崩壊していた。
門をくぐった三人を待ち受けていたのは、重く、ひどく冷たい『完全な死の静寂』だった。
「……嘘でしょ」
ティオが絶句し、凍えるような風の中で琥珀色の瞳を大きく見開く。
街は完全に破壊され尽くしていた。
あちこちの木造建築や石造りの塔が、禍々しい**『黒い焔』**によって無惨に焼き尽くされ、炭化した柱が雪の中に墓標のように林立している。雪の冷気と、強烈な魔力を帯びた黒焦げの匂いが混ざり合い、息をするだけで肺の奥が凍りつきそうだった。
だが、シエルたちを何よりも戦慄させたのは、破壊の痕跡そのものではなかった。
「おい、シエル……こいつら、死体じゃねえぞ」
バルドが、雪に半ば埋もれかけていた『人影』に近づき、表面の雪を払い落とした。その瞬間、歴戦の傭兵であるバルドの顔色が一瞬にして蒼白になった。
そこにあったのは、逃げ惑う姿勢のまま固まった町民の姿だった。
だが、その皮膚は血の気を失い、衣服から髪の毛一本に至るまで、すべてが硬く冷たい『灰色の石』へと変貌していたのだ。
しかも、その男は背中を禍々しい黒い焔に焼かれながら、あまりの激痛と恐怖に顔を醜く歪め、絶叫を上げる瞬間の最も凄惨な姿のまま、永遠の石像と化していた。
「……ッ!」
バルドは咄嗟に振り返り、後ろを歩いていたティオの顔に自らの巨大な左手を押し当て、その視界を完全に塞いだ。
「わっ!? お、おじさん? 急にどうしたの、前が見えないよ」
「……ティオ。お前は俺の背中だけを見て、少し下を向いて歩け。いいか、絶対に周りを見るなよ」
「え、でも……何があったの?」
「いいから、俺の言うことを聞け」
バルドの低く、ひどく強張った声。その中に含まれる切実な響きに、ティオはビクッと肩を震わせ、小さな両手でバルドの左手首を掴みながら、大人しく頷いた。
猟兵として死線は潜り抜けてきたとはいえ、彼女はまだ幼い少女だ。この絶望の極致とも言える、あまりにも凄惨で冒涜的な光景を、その目に焼き付けさせるわけにはいかなかった。
シエルは周囲を見渡した。
広場にも、路地裏にも、焼け落ちた家屋の中にも。剣を構えたままの自警団や、街を襲撃したであろう黒い重甲冑の特務兵までもが、等しく灰色の石像へと変えられている。
さらには、家々を焼き尽くそうと燃え盛っていたはずの『黒い焔』までもが、炎の形と熱量を保ったまま石化し、黒曜石の鋭いオブジェとなってそこら中に点在していた。
黒焔による理不尽な蹂躙と、すべてを停止させる石化の呪い。
相反する二つの現象が入り混じった光景は、あまりにも異様で、狂気じみていた。
「……っ、おじさん、シエル! あっち!」
不意に、視界を塞がれたままのティオが、獣特有の鋭い聴覚をそばだてて叫んだ。
「微かにだけど、心音が聞こえる! 崩れた建物の下からだ!」
「バルド!」
「おう!」
バルドはティオの目を覆っていた手を離すと、「ここから動くなよ」と言い残し、ティオが指差した酒場の瓦礫の山へと駆け出した。
赤熱させた義手を瓦礫に突き立て、巨大な梁を豪快に撥ね退ける。その下にあった地下貯蔵庫の隙間で、毛布にくるまり、ガチガチと歯を鳴らして震えている中年の行商人を発見した。
「ひっ……! くるな、あっちへ行け……化け物ォッ!」
「落ち着いて! 私たちは敵じゃないわ。スノウゲートから来たプロウォーカーよ」
シエルがなだめ、ティオが慌ててマーサから持たされた温かいハーブの入った水筒を男の口元に運ぶ。
数口飲んでようやく正気を取り戻した行商人は、バルドとシエルの顔を交互に見て、ボロボロと涙を流し始めた。
「……あ、あんたら……助けてくれ……街が、みんな石になっちまった……!」
「落ち着いて話してくれ。一体何があったんだ? 特務部隊がこの黒い焔を放ったのか?」
バルドが屈み込み、低い声で問う。
「あ、ああ……二日前の昼間、王都の黒い鎧の連中がやってきた。奴ら、要求も理由も一切口にせず、唐突に街を襲撃しやがったんだ。手当たり次第に、この禍々しい『黒い焔』を街中に放ちながら……! 俺たちは訳も分からないまま、地下に逃げ込んで、ただ震えていることしかできなかった」
行商人は自らの両腕を抱きしめ、恐怖に瞳をひどく濁らせた。
「だが、その直後だった。……黒い焔に包まれた吹雪の中から、『白い騎士』が現れたんだ」
(白い、騎士……)
シエルの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
「背後に白と黒の装備の部隊を連れていたが、前に出たのはその騎士一人だった。右手には白銀の聖剣、左手には漆黒の魔剣……。黒い鎧の連中が騎士に一斉に襲いかかったが、奴は一切の表情を変えず、無言のまま左手の魔剣を地面に突き立てたんだ」
行商人の声が、カタカタと震える。
「途端に、灰色の波動が街全体を飲み込んだ。……騎士に襲いかかった兵士も、逃げ惑っていた俺の仲間たちも、そして家々を燃やしていたあの黒い焔でさえも……波動に触れた瞬間に、すべてが『石』になっちまった。……あれは人間じゃない。息をするようにすべてを奪っていく、ただの悪魔だ……!」
「…………ッ」
バルドがギリッと強く歯を食いしばり、傍らにあった瓦礫を義手で粉砕した。
「理由もなく街を焼いた特務部隊もクソだが……その巻き添えにして、何の罪もねえ町民まで無差別に石にしやがったのか……!」
ティオは、バルドに塞がれていない視界の端で、一つの石像を見つけてしまっていた。
それは、迫り来る黒焔と灰色の波動から我が子を守ろうと、小さな体を覆い隠すように抱きしめたまま石化した、母親の姿だった。
ティオは悲痛な顔でその親子の石像を見つめ、ギュッとサバイバルナイフの柄を握りしめると、ボロボロと大粒の涙をこぼした。
シエルは無言のまま、その親子の石像の前に歩み寄り、そっと冷たい石の頬に手を触れた。
『銀色の魔導鍵』を起動し、アメジストの瞳に青白い演算の光を宿す。
(……お願い、解けて。ただのバステ(状態異常)のログなら、私のアカウント権限で上書きできるはず……!)
シエルの周囲に無数のホログラム・スクリーンが展開され、すさまじい速度で文字列が流れていく。彼女のタイピングする指先が、見えないキーボードを弾くように虚空を叩いた。
しかし数秒後。画面は一斉に不吉な赤い光を放ち、『Error(アクセス拒否)』の文字を無数に並べたてた。
「……ダメだわ」
シエルは力なく手を下ろし、悔しげに唇を噛んだ。
「シエル! なんとかならないの!? アタシたちが持ってる金の鍵を使えば……!」
ティオがすがりつくように、涙声で問いかける。
「……これは魔術によるただの状態異常じゃないのよ。対象の生体データを、根底から無機物(石)のデータへと強制的に書き換える『不可逆の物理バグ』だわ。今の私の権限じゃ、どう逆算しても元には戻せない」
「そんな……っ」
ティオが崩れ落ちるように雪の上に膝をつき、親子の石像の前で泣き崩れた。
バルドも沈痛な面持ちで、何も言えずに灰色の空を仰ぐ。
感情を失い、システムをただ物理的に「浄化」する存在と化したカイル。
今の彼は、己の目的のためならば、敵も味方も無関係な民衆の命すら一切意に介さない、完全な『修羅』になり果ててしまっている。
「……カイル。貴方は一体、何になろうとしているの……」
シエルは冷たい石像から手を離し、静かに目を閉じた。
自分の中にある微かな罪悪感や、かつての生真面目だった彼の記憶が、氷のように冷たく砕け散っていくのを感じる。
今の自分たちには、この街の悲劇を救う力はない。
圧倒的な無力感が、シエルの胸を重く押し潰した。
「……バルド。ティオ。この人を連れて、スノウゲートまで一度戻るわよ。このまま放っておけば、この人は凍死してしまうわ」
シエルは振り返り、努めて冷静な、いつもの冷徹なハッカーとしての声を作った。
「シエル、でも……! この人たち、このまま放っておくの!?」
「ティオ。今の私たちにできることは何もないの。でも……」
シエルは銀の鍵と、それに繋がれた四つの金の鍵を強く握りしめた。
アメジストの瞳には、かつてないほど強い、怒りと決意の光が宿っている。
「この石化のバグを解くには、この世界のシステムそのものを管理している大元――特異点の最高管理者権限を奪取するしかないわ。……必ず、クリスタル・フォールで真実を暴いて、すべてを元に戻す」
その真っ直ぐな言葉に、ティオはゴシゴシと乱暴に涙を拭い、力強く頷いた。
バルドも無言で石像たちに一瞥をくれると、力尽きかけている行商人を軽々と肩に担ぎ上げた。
「……ああ、その通りだ。ここで立ち止まって泣いてても、何も解決しねえ。行くぞ、シエル、ティオ」
凍てつく地吹雪が、黒焔の跡と灰色の石像が並ぶ街を容赦なく吹き抜けていく。
救えなかった命と、かつての友が残した凄惨な爪痕を背に、シエルたちは決意を新たに、絶対零度の死地『クリスタル・フォール』への過酷な道のりへと再び足を踏み出した。




