第5章・第2話:白銀の牙と、凍てつく義手
温暖で活気に満ちた樹層街ウッド・ベースを後にしてから数日。
シエルたち一行を取り囲む景色は、青々とした密林から、どこまでも白く冷たい雪と氷の荒野へと変貌していた。
「……バルド、義手の調子はどう?」
吹き荒れる猛吹雪の中、シエルが声をかけると、雪をかき分けて歩く大男は顔をしかめながら、鈍い金属音を立てる右腕を左手でさすった。
「ダメだ……。気温が氷点下を大きく下回ってから、関節のオイルが固まり始めてやがる。何より、真鍮のフレームが冷え込みすぎて、生身と繋がってる肩の接合部まで冷気が伝わってきやがるんだ。感覚が麻痺しちまって、上手く力が入らねえ」
バルドの防寒着の隙間から覗く右肩付近――義手と生身の肉体が連結している箇所が、極寒の空気に晒されて赤黒く変色していた。金属の容赦ない冷たさが神経を直接刺激し、鋭い痛みが走っているのがシエルにもはっきりと分かった。
「……放っておいたら、そこから肉が壊死して凍傷が進行するわ。少し休むわよ」
シエルは即座に歩を止め、吹き付ける雪を避けるように、巨大な岩陰へと一行を誘導した。リュックを下ろし、小さな魔導ヒーターを起動させると、マーサから無理やり押し付けられた『火トカゲの油脂』の小瓶を取り出す。
「バルド、服を少しだけ下げて」
シエルは手袋を外し、冷たい風にわずかに身を震わせながらも、琥珀色の油脂を指先にたっぷりと取り、バルドの肩の接合部へ丁寧に塗り込んだ。火トカゲの油脂が浸透するにつれ、肌がじんわりと赤く熱を帯びていく。
同時に、シエルは『銀色の魔導鍵』を義手のフレームに直接押し当てた。
「少し痺れるわよ。……駆動回路、強制オーバークロック」
バチッ! と微弱な電磁パルスが義手に流れ込み、内部の魔力シリンダーが強制的に過負荷状態となって激しい摩擦熱を生み出す。金属の表面が、まるでストーブのように熱を持ち始めた。
「ぬぉっ……! ……ああ、これだ。肉と金属の境目がやっと温まってきた。これなら動かせるぜ。サンキュ、シエル」
「礼ならマーサさんに言いなさいよ。あと、あんまり無理をさせないで。前衛のあんたが動けなくなったら、私が一番困るんだからね」
「おじさん、大丈夫? アタシが荷物、少し持とうか?」
心配そうに見上げるティオの頭を、バルドは熱を取り戻した義手でポンと撫でた。
「へっ、気にするな。これくらい、どうってことねえよ」
その時だった。
凍てついた雪原を切り裂くような、獰猛な獣の遠吠えが吹雪の向こうから響き渡った。
「……来るぞ! この冷気の中でこれだけの肺活量を持ちやがる……並の魔獣じゃねえ!」
バルドが義手の拳を握り込むと、熱を帯びた関節からシュウゥと白い蒸気が上がった。
雪面が不自然に盛り上がり、体長5メートルはあろうかという『白銀狼』の群れが姿を現した。その毛皮は氷柱のように鋭く逆立ち、剥き出しの牙からは絶対零度の冷気が漏れ出している。
「わっ、すっごい数!」
ティオが反射的に、出立の時に兄・ジンから借り受けたサバイバルナイフを抜き放つ。
「ジン兄ちゃんに教わった通り、雪の照り返しを利用して死角から突っ込むよ!」
ティオが雪原を蹴り、小動物のような驚異的な跳躍で狼の頭上へ飛び上がった。空中で体を回転させ、上段から一撃で狼の眼窩を切り裂こうとする。
しかし、狼の毛皮は凍てつく鎧のように硬く、鋭いナイフの刃がガィンと甲高い音を立てて弾かれた。
「硬ってぇ!?」
「ティオ、甘い! 狼の弱点は喉元、その氷の毛が薄くなってる下だ!」
ジンから受け継いだ知識を活かし、バルドが熱を帯びた義手を雪面に叩きつけ、氷を粉砕しながら突進する。
「喰らえ、パイルバンカー!」
義手のシリンダーが轟音を上げ、狼の喉元へ向かって極太の杭が打ち込まれる。凄まじい衝撃と摩擦熱が氷の鎧を貫通し、白銀狼の巨体が雪煙の中へと吹き飛ばされた。
「……演算完了。出力、全開。二人とも、左サイドは私が抑えるわ!」
シエルが銀の鍵を空中に掲げ、青白い魔力の網(防壁)を展開する。狼たちが一斉に放った氷のブレスが防壁に直撃するが、シエルの高度な演算がそれを完璧に弾き返す。
その隙を突き、バルドが重い一撃を次々と叩き込み、ティオが上空からナイフで的確に弱点を穿っていく。
完璧な連携で群れを掃討し終えた頃、吹雪の向こうに、ぼんやりと温かなオレンジ色の灯りが見えてきた。
「……見えたわ。第一の町、辺境の宿場町『スノウゲート』よ」
*
スノウゲートは、永久凍土へ挑む旅人たちが最後に立ち寄る、高く分厚い防壁に囲まれた小さな町だった。
魔獣戦の疲労と寒さで骨の髄まで冷え切った三人は、町の中心にある酒場付きの宿屋へと転がり込んだ。
「ぷはぁーっ! 暖炉の火と熱い木の実のスープ……生き返るぜぇ!」
バルドが巨大な器を飲み干し、豪快に息を吐く。ティオも暖炉の真ん前に陣取り、冷えた手足を擦り合わせながら幸せそうに目を細めていた。
シエルは温かいハーブティーの入ったマグカップで指先を温めながら、カウンターで無言でグラスを磨いていた宿の主人に声をかけた。
「ねえ、マスター。ここから北にある第二の街……交易街『フロストフォール』へ向かう道は、今どうなっているの?」
彼らがクリスタル・フォールへ向かうための中継地点として、次に目指すべき街だ。
その名前を出した瞬間、酒場の中の空気がピタリと凍りついた。
賑やかに飲んでいた他の客たちも、暖炉の薪が爆ぜる音さえうるさく感じるほど一斉に押し黙り、不安げな視線をシエルたちに向ける。
「……あんたたち、北へ行くのか。悪いことは言わねえ、今はやめておきな」
宿の主人が、周囲を気にするように声をひそめて答えた。
「やめておけって……何かあったの?」
「ここ数日、隣のフロストフォールからの行商人が、ぱったりと来なくなっちまったんだ。それだけじゃねえ。二日前の夜……吹雪の向こうのフロストフォールの方角から、空を焦がすような真っ赤な『炎』が上がっているのを、見張りの若い衆が見たんだ」
「炎……?」
バルドが眉をひそめる。
「こんな猛吹雪の中で、空を焦がすほどの火事なんてあり得るのか?」
「だから不気味なんだよ。……それに、その火の手が上がる少し前の昼間、王都から来た『見慣れない軍隊』が、フロストフォールへ向かっていくのを見たって奴がいるんだ」
「王都の軍隊……? イグノタフ侯爵家の特務部隊のことか?」
バルドが身を乗り出して聞くが、主人は首を横に振った。
「いや、それが違うんだ。侯爵家の紋章は掲げていたが、いつもの真っ黒な鎧の連中じゃなかった。白と黒の装備が入り混じった、少数だが妙に凄みのある統制された部隊でな……。いずれにせよ、あっちへ偵察に行った自警団の連中も、誰一人として帰ってこねえんだ。あの街で、とんでもないことが起きてるに違いねえ」
主人は恐怖を振り払うように首を振り、グラスを強く磨いた。
「見慣れない、白と黒の軍隊……」
シエルの脳裏に、ウッド・ベースでレインから聞いた情報がフラッシュバックした。
『あいつは……正しい血統とノブリスオブリージュを胸にイグノタフ侯爵を打倒すべく、現在は一族の追手から逃走し、独立部隊を率いて行方をくらませているはずだ』
(黒い鎧の特務部隊じゃない……カイルが率いる『独立部隊』が、あそこにいるの?)
シエルはハッとして、バルドと無言で視線を交わした。
バルドも同じ推測に至ったのか、表情を険しくして義手の拳を硬く握りしめる。
「……シエル」
ティオが暖炉の前から不安そうに振り返る。
「ええ。何が起きているにせよ、クリスタル・フォールへ向かうにはあの街を通るしかないわ」
シエルは冷めたお茶を飲み干し、窓の外で吹き荒れる真っ白な猛吹雪へと鋭い視線を向けた。
「明日の朝一番で、第二の街へ向かうわよ」
酒場の暖かい空気とは裏腹に、シエルの胸の奥には、これから相対するであろうかつての仲間の姿と、氷のように冷たく嫌な予感が静かに渦巻いていた。




