第5章・第1話:風見鶏亭からの旅立ち
翌朝。樹層街ウッド・ベースは、昨日の特務部隊襲撃の余韻を感じさせないほど、いつもの活気と木の香りに満ちていた。
シエルたちの見事な制圧と、激怒した飛空猟兵たちとの連携によって捕縛された黒い重甲冑の兵士たちは、武器を完全に剥奪された上で街の自警団の牢に放り込まれている。指揮官であるヴェインが敗北し、作戦の要であったシステムハッキングも完全に失敗したことで、イグノタフ侯爵家の部隊はこれ以上強硬な手段に出ることを諦め、逃げるように撤退を始めているという情報も入っていた。
宿屋『風見鶏亭』のシエルの自室。
分厚いカーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で、シエルはベッドの上に胡坐をかき、目の前に展開された無数のホログラム・スクリーンと向き合っていた。
「……シエル、そっちのパスはどうだ? 階層15のプロトコルに、ミクロレベルの暗号化が施されてる。世界樹のデータ量が多すぎて、うちのメインサーバーでも処理が追いつかねえ」
王都から繋がれた通信機越しに、徹夜明けのレインの疲労困憊した声が響く。
「今、最終防壁を解除したわ。……やっぱり、この『金の鍵』はただのアクセス権限じゃない。これまで私たちが集めてきた他の三つの鍵と、根幹の構造が完全にリンクしている」
シエルは手元にある四つの『金色の鍵』――蒸気と歯車の町レイト・グリッド、水上都市アクア・ラビリンス、砂漠の町アイアン・サント、そしてここウッド・ベースで手に入れた鍵を、自らの『銀色の魔導鍵』のリングにカチャリと接続した。
キィン……!
澄んだ、ひときわ高い金属音が鳴り響く。
直後、四つの鍵がそれぞれ固有の光を放ち始めた。蒸気を思わせる白、清らかな水底の青、熱砂を和らげるアクアマリンの淡い青、そして大樹の生命力を宿した黄金。それらの光が激しく共鳴し合い、シエルの瞳を青白く照らし出す。
ホログラム・スクリーンに流れていた膨大な文字列が、一瞬にして形を変えた。
数字と記号の羅列が立体的な『ホログラム・マップ(世界地図)』へと再構築され、世界大陸を貫く巨大な「魔力の脈(地脈)」のネットワークが、血流のように脈打ちながら浮かび上がった。
「これは……世界の魔力網の完全な観測データ……?」
シエルがアメジストの瞳を見開く。
『すげえ……!』
王都の地下で同じ画面を共有しているレインも、息を呑む気配が伝わってきた。
『見ろよシエル、四つの街の鍵が管理していたエネルギーの奔流が、すべて一箇所に集束している。……世界中の天候や地脈、そのすべてのエネルギーを無理やり吸い上げている「特異点」があるぞ』
マップの中心。
すべての光の線が向かっている先は、大陸の最北端に位置する、一年中猛吹雪に閉ざされた絶対零度の領域だった。
「ここは……『永久凍土』ね」
「ああ。だが、ただの氷の荒野じゃない。ここには、かつて古代魔導文明が遺したとされる、巨大な防壁に覆われた秘密の街があるって噂だ。……氷雪都市『クリスタル・フォール』」
レインの素早いタイピング音が響き、その地点の詳細な座標がシエルの端末に転送されてきた。
『イグノタフ侯爵の野望……いや、この狂った世界のバグの根源は、間違いなくここにある。俺たちが求める「真実」もな。……だがシエル、そこは文字通りの死地だ。今までのお遊びとは次元が違うぞ』
「わかっているわ。氷雪都市クリスタル・フォール……。次の目的地は、そこで決まりね」
シエルはホログラムを閉じ、五つの鍵が連なった重みのあるリングをしっかりと握りしめ、立ち上がった。
数時間後。
『風見鶏亭』の1階にある食堂は、いつにも増して騒がしかった。
「ティオ! 防寒具はちゃんと予備も入れたのかい!? 北の果てはここみたいに暖かくないんだよ! あと、この『火トカゲの干物』と『解毒草の軟膏』も持っていきな! もし凍傷になったらすぐにこれを塗り込んで……!」
「お、お母さん、待って! もうリュックがパンパンで入らないよぉ!」
入り口付近で、旅支度を整えたティオが、母親のマーサから怒涛の勢いで荷物を押し付けられていた。
ティオの背丈ほどもあるリュックはすでにはち切れんばかりに膨らんでいるが、マーサは心配でたまらないといった様子で、次から次へと密林の秘薬や保存食を詰め込もうとしている。
「入らないじゃないよ! いいかい、あんたはすぐお腹を空かせるんだから、食料はいくらあっても足りないんだ! それに怪我でもしたらどうするのさ! 遠い雪国じゃ、お母さんが手当てしてあげることもできないんだから……ッ!」
マーサのふくよかな顔が、ふいにクシャリと歪んだ。
いつも豪快に笑い、プロウォーカーたちを大声でもてなしていた恰幅の良い女将の目から、ポロポロと大粒の涙が溢れ落ちる。
「……お母さん……」
「……まったく、親より先に危険な場所に飛び込んでいくなんて、親不孝な娘だよ。……死ぬんじゃないよ、ティオ。絶対に、元気な顔で帰ってくるんだよ」
マーサはティオを力強く抱きしめ、その小さな背中をさすって泣きじゃくった。ティオも目を潤ませながら、母親の広い背中に腕を回す。
「うん……ごめんね、お母さん。でもアタシ、シエルたちと最後まで一緒に行きたいの。……絶対に、胸を張って帰ってくるから!」
そんな親子の別れを、店の片隅で腕を組んで見つめている男がいた。
ティオの兄、ジンである。
彼は大きなため息をつくと、壁に立てかけてあった巨大な刃を背負い、ティオたちの元へ歩み寄った。
「……おい馬鹿妹。そんなに荷物を詰め込んだら、いざって時に立体機動のワイヤーが巻き取れなくて死ぬぞ。貸せ」
ジンはティオのリュックを乱暴に奪い取ると、中から過剰な重りとなるものをいくつか抜き出し、代わりに自分の腰に下げていた小ぶりだが鋭い輝きを放つ『サバイバルナイフ』を、ティオの革ベルトにカチャリと取り付けた。
「お兄ちゃん、これ……ジン兄ちゃんのお気に入りのナイフ……」
「……北の雪原じゃ、魔獣の皮も分厚くなる。お前のなまくらナイフじゃ刃が立たねえからな。貸してやるだけだ、無くしたら承知しねえぞ」
ジンはわざとらしく顔を背け、ぶっきらぼうに言い放った。
「ジン兄ちゃん……」
「……いいかティオ。外の世界は、この樹層街みたいに甘かぁねえ。自分の身は自分で守れ。……でもな」
ジンは、ティオの頭に大きな手をポンと乗せ、そのまま少しだけ乱暴に撫で回した。
「……どうしても辛くなったら、いつでも逃げて帰ってこい。お前の帰る場所は、いつだってここにあるんだからな。……寂しくなったら、我慢すんじゃねえぞ」
その声は、いつもの意地悪な兄貴のそれではなかった。
妹を遠く危険な旅へと送り出す、どうしようもない寂しさと愛情に震えていた。ティオはボロボロと涙をこぼしながら、ジンの腰にギュッと抱きついた。
「……うんっ……お兄ちゃん、ありがとう……!」
ジンは少し照れくさそうにティオの頭を軽く小突くと、今度は真剣な、獲物を狙う猟兵のような鋭い目で、傍らに立っていたバルドを見据えた。
「……おい、おっさん」
「なんだ」
バルドが一歩前に出る。
ジンはバルドの胸ぐらを掴むほどの距離に歩み寄り、その真新しい銀色の義手をガシッと強く握りしめた。
「……妹の背中は、あんたに預ける。これは俺たち家族の『宝』だ。……もしこいつに傷一つでもつけたら、地の果てまで追いかけて、その自慢の腕ごと首を叩き斬ってやるからな。……頼んだぞ、バルド」
それは、ただの脅しではなかった。
大切な家族を託す、一人の男としての切実な願いだった。
バルドはジンの目を真っ直ぐに見返し、ニヤリと豪快で頼もしい笑みを浮かべた。
「ああ、任せとけ! 傷一つつけさせねえよ。この頑丈な盾と、新調した右腕に懸けてな。お前の可愛い妹は、俺とシエルが必ず守り抜く」
その力強い言葉に、ジンは小さく息を吐き、ようやく少しだけ安心したように口元を緩めた。
「……さあ、行くわよ二人とも」
階段から降りてきたシエルが、愛用のトランクを持ち上げ、静かに声をかけた。
そのアメジストの瞳は、これからの過酷な旅路を見据え、静かな決意に満ちている。
「おう!」
「うんっ! 行ってきます!!」
ティオが両親と兄に向かって大きく千切れんばかりに手を振り、バルドが頼もしい背中を向けて宿の扉を押し開ける。
世界樹の巨大な根の合間から差し込む眩い朝の光が、三人の足元を真っ直ぐに照らし出していた。
温かく、少しだけお節介で、愛情深い『家族』のいる街を背に、プロウォーカーたちは新たな一歩を踏み出す。
次の目的地は、世界の魔力が集束する絶対零度の地――氷雪都市『クリスタル・フォール』。
新たな鍵が示す「真実」と、王都の暗部で動き続けるイグノタフ家の影。そして、すべてを失い修羅と化したカイルの行方。
世界のバグを解き明かすプロウォーカーたちの旅は、いよいよ最も冷酷で激しい、核心の領域へと迫ろうとしていた。




