第4章・第35話:安息の街と、相棒への報告(第4章 完)
世界樹の根本深く。途方もなく巨大な大樹の根と根の間に、無数の木造建築が何層にも重なり合うようにして作られた立体都市――『樹層街ウッド・ベース』。
神鳥の巣での死闘を終えたシエルたちプロウォーカーは、下層へと帰還し、ティオの実家である宿に身を寄せていた。
部屋の窓からは、ランタンの灯りに照らされたウッド・ベースの複雑な街並みが見下ろせる。深く吸い込めば、樹木の心地よい香りと、屋台から漂う香辛料の匂いが混ざり合った、活気に満ちた風が肺を満たした。
シエルは窓辺の古びた木の椅子に深く腰を下ろし、包帯の巻かれた痛む肩から小さく息を吐き出した。
机の上には、静かに魔力光を脈打たせる『銀色の魔導鍵』が置かれている。彼女が指先で柄の魔石を弾くと、遠く離れた王都の回線と繋がり、微かなノイズの後に聞き慣れた男の声が響いた。
『……繋がったか。まったく、定期連絡の時間を半日も過ぎやがって。王都の通信衛星(観測機)から無理やり波形を拾うまで、生きた心地がしなかったぜ』
スピーカー越しに聞こえる相棒・レインの声には、いつもの軽薄で飄々とした響きはなく、珍しく張り詰めた焦燥感が滲んでいた。
「……ごめんなさい。色々あったのよ。でも、なんとか生きているわ」
シエルは少しだけ口元を緩め、短く報告を始めた。
「イグノタフの魔導技師、ヴェインの暴走は止めたわ。神樹のシステムは完全に正常化された。……そして、約束通り世界樹の最高管理者アクセス権限、『金の鍵』も手に入れたわ」
『マジか……! 上層でとんでもねえスパゲティコードが垂れ流しになってた時は、お前らが全滅したかと思ったが……よくやったな、シエル。さすがは俺の相棒だ』
レインの安堵と興奮の入り混じった息遣いが聞こえる。
「……でも、一つ重大な報告があるの。ヴェインは無力化されたけれど、それは私たちの手によるものじゃない。現場に『第三者』が介入したわ」
シエルは一呼吸置き、静かにその名を告げた。
「カイルが現れたの」
ピタリ、と。通信の向こう側で、キーボードを叩く音も、レインの息遣いすらも完全に止まった。
重い沈黙が、数十秒ほど流れた。
『……カイル、だと?』
「ええ、そうよ。でも、私たちが知っている彼とは完全に別人だったわ」
バルド達の説明をたどりシエルの脳裏に、玉座の間に現れた純白の修羅の姿がフラッシュバックする。
「純白の聖騎士服は薄汚れ、目には一切の感情がなかった。右手には白銀の聖剣、左手には漆黒の魔剣。……彼は防壁ごとヴェインをただの一撃で沈め、無言でシステムのバグを物理的に『浄化』して去っていった。あの時の彼からは、学園時代のような甘さや戸惑いは、微塵も感じられなかったわ」
『…………信じられねえな』
レインは苛立たしげに何かを書き殴る音をさせ、低い声で言葉を継いだ。
『シエル。情報ギルドにもカイルの噂は流れてきてる。あいつは数ヶ月前、俺たちと共にイグノタフ家の恐るべき闇に触れ、正しい血統とノブリスオブリージュを胸にイグノタフ侯爵を打倒すべく、現在は一族の追手から逃走し独立部隊を率いて行方をくらませているはずだ。……父親の死と家の呪縛で、完全に心が壊れたはずの男が、なぜわざわざ世界樹を救いに来た?』
「分からないわ。彼は一言も発さなかったもの」
『シエル、よく聞け』
レインの声が、かつてないほど真剣な響きを帯びた。
『あいつはもう、俺たちの知る生真面目でからかい甲斐のあるカイルじゃないのかもしれない。深入りするな。イグノタフ家の「呪い」は、俺たちが想像する以上に根深い。あの聖剣と魔剣の二刀流……敵であるか味方であるか、貴族の誇りを元に行動していると思う。俺はそんなカイルを助けてやりたい』
「……分かっているわ。報告は以上よ。金の鍵のデータ解析が終わったら、また連絡する」
通信を切り、シエルは窓枠に寄りかかった。
眼下では、樹層街ウッド・ベースの夜が始まろうとしていた。輝く苔のランタンに火が灯り、木の吊り橋を多くの人々が笑い合いながら行き交っている。
穏やかな景色を見つめながら、シエルは小さくため息をついた。
*
それから数日間、三人はこの活気に満ちた樹層街で、戦いの傷を癒やすための休息を取った。
バルドは街の最下層にある、機械油の匂いが立ち込めるドワーフ族の鍛冶屋に入り浸っていた。
「いやぁ、こいつはひでえ有様だ! 大質量を無理やり受け止めた上に、規格外の魔力をシリンダーの中で爆発させただろう。中の回路が完全に黒焦げじゃねえか」
「へへっ、違いねえ。だが、あの限界駆動がなきゃ、今頃俺らは全員大樹の養分だったぜ」
バルドはビールジョッキを片手に、バラバラに解体された自分の真鍮の義手を愛おしそうに眺めていた。
「親方、金ならある。今度はもう二、三発パイルバンカーを撃ち込んでも焼き切れないくらい、とびきり頑丈な耐熱フレームを組んでくれや。次もまた、とんでもねえ化け物と殴り合うことになりそうだからな」
彼は折れた肋骨の痛みに顔をしかめながらも、豪快に笑い飛ばした。
一方、ティオはウッド・ベースの中層に広がる巨大な市場を、水を得た魚のように駆け回っていた。
「おじさん! 見てみて、この街の名産の『蜜林檎』、すっごく甘くて美味しいんだよ! カゴいっぱい買っちゃった!」
「おいおいティオ、そんなに食ったら腹壊すぞ。ほら、こっちの串焼きも食うか?」
彼女の琥珀色の瞳からは、あの神鳥の巣での切迫した死闘の影は消え去り、本来の無邪気で底抜けに明るい空気が戻っていた。
ティオは両手に抱えきれないほどの果物や屋台の料理を買い込みながら、ふと視線を上層へと向けた。
(シエル、また一人で難しい顔して考えてるんだろうな……よし、これで元気出してもらおうっと!)
世界樹の恩恵を受けるこの街の空気は、死線を潜り抜けたプロウォーカーたちの張り詰めた神経を解きほぐすには、十分すぎるほど穏やかで温かかった。
*
シエルは街の片隅、世界樹の太い枝の上に作られた見晴らしの良いオープンカフェにいた。
手元のテーブルには、湯気を立てる甘いミルクティー。そして彼女の白い掌の上には、世界樹の最奥で手に入れた『金の鍵』と、それが変化した黄金のブローチが静かに輝いている。
(物理的な重さは何もない。でも、この中には……大自然が数千年かけて蓄積した、天候、地脈、生命の理、そのすべてのデータ(アクセス権限)が眠っているのね)
シエルはブローチを銀の魔導鍵の束へとカチャリとしまい込み、カップを手に取った。
戦いが終わり、日常が戻ってきた。しかし、シエルの胸の奥には、どうしても割り切れないノイズのような感情が居座り続けていた。
(カイル……貴方は今、どこで何をしているの?)
かつて自分たちが囮にして見捨てた、融通の利かない生真面目な青年。
彼が父親殺しの大罪を背負い、感情を失い、あれほどの力を持つ修羅へと変貌してしまったことに、シエルはどこか、ほんの僅かな『罪悪感』のようなものを感じていた。
もしあの時、学園で自分たちが彼をからかわず、少しでも向き合っていれば、彼の運命は違っていたのだろうか。いや、そんな感傷はプロウォーカーには不要だ。
「……私たちの仕事は、依頼をこなして報酬をもらうこと。それ以上のバグ(厄介事)に、自ら足を踏み入れる必要はないわ」
自分自身に言い聞かせるように呟き、ミルクティーを口に運んだ、その時だった。
「みーっけ! シエル、こんなとこで油売ってたの!」
「おうお嬢、探したぜ。しけた顔してどうした、傷が痛むのか?」
元気な足音と共に、両手に大量の食べ物を抱えたティオと、新しく銀色の強化フレームが施されたピカピカの義手を振り回すバルドが現れた。
「ティオ、バルド……」
シエルはふっと肩の力を抜き、いつもの冷静だがどこか優しい微笑みを浮かべた。
「いいえ、なんでもないわ。……ティオ、その林檎、私にも一つもらえるかしら」
「うんっ! 特別甘いやつをあげる!」
樹層街ウッド・ベースに、穏やかな夜が降りてくる。
遠くで鳴るドワーフたちの槌の音と、人々のざわめきに包まれながら、三人はテーブルを囲んだ。
ひとまず、最悪の危機は回避された。
しかし、黄金の鍵を手に入れたことで、彼らは世界を揺るがすより大きな渦の中へと足を踏み入れてしまった。
シエルが夜空の星々を見上げる時、その瞳の奥には、いつか必ず再び交差するであろう、あの漆黒と白銀の双刃の騎士の後ろ姿が、消えないログのように鮮明に焼き付いていた。




