第4章・第33話:沈黙の双刃
マナ・チャフの銀色の粉煙が晴れると同時、シエルはすでに空中で『銀色の魔導鍵』を構え、恐るべき速度でタイピング(演算)を開始していた。
「……私の思考についてこれるかしら!」
シエルが銀の鍵を虚空に突き立てる。
「――事象展開! 『空間座標の強制結合』!」
ヴェインの周囲の空間そのものが歪み、彼を上下左右から万力のようにおし潰そうと迫る。物理的な防御を無視した、空間そのものへのハッキング。
しかし、ヴェインは余裕の笑みを崩さなかった。
「遅い! 構文が長すぎるぞ、小娘! 【空間固定・絶対防盾】!」
ヴェインが指を鳴らした瞬間、シエルが歪ませたはずの空間が、強固な魔力のフレームによって瞬時に「固定」され、無効化されてしまった。
「くっ……なら、これならどう! 事象展開! 『仮想熱量の暴走』!」
シエルは即座にコードを書き換え、ヴェインの周囲の酸素を強制的に発火点まで引き上げる。
「無駄だと言っている! 【絶対零度・熱量凍結】!」
ヴェインの魔導リングから放たれた極寒の冷気が、発火する前に熱を根こそぎ奪い去る。
シエルの放つ高度な事象展開を、ヴェインは息を吐くように、あらかじめ構築された『最適化済みの戦闘魔法』で片端から無効化していく。
「ハァッハッハ!! どうした、その程度か! システムの裏口を突くハッキングと、純粋な殺し合い(戦闘魔法)のプログラミングでは、求められる処理速度が違うのだよ!」
ヴェインが両手を広げ、周囲に無数の攻撃魔法陣を展開する。
「私を誰だと思っている! イグノタフ侯爵家が誇る筆頭魔導技師だぞ! 私の構築した戦闘用コードに、アドリブで勝てるわけがなかろう!!」
シエルは歯を食いしばりながら、黄金の根から根へと立体的な軌道で跳躍し、雨あられと降り注ぐ魔法の弾幕を躱し続ける。
しかし、ヴェインの言う通りだった。シエルが一つハッキングコードを組み上げる間に、ヴェインは指先一つで三つの魔法を展開してくる。演算の速度と手数の差が、徐々にシエルを追い詰めていく。
「はぁっ……はぁっ……!」
シエルの息が上がり、ステップがほんのわずかに遅れた。
「――そこだ。チェックメイトだ、ハッカー風情」
ヴェインのモノクルが不気味に赤く光る。
シエルの逃げ道を完全に塞ぐように、彼女の頭上、足元、そして背後に、巨大な雷撃の魔法陣が同時に展開された。
「しまっ……! 事象展開――」
「遅いッ!! 【超高位・雷鳴圧縮】!!」
シエルが鍵を突き立てるより早く、三方向からの極太の雷撃が、逃げ場のない空中で彼女に直撃した。
「――ッッ!!??」
悲鳴すら上げる余裕はなかった。
防御のために展開したシエルの魔力障壁がガラスのように砕け散り、凄まじい高圧電流が彼女の華奢な体を容赦なく貫く。
「シエルッ!!!」
ティオの絶叫が響く。
雷撃によって完全に意識を刈り取られたシエルは、糸が切れた人形のように空中で力なく投げ出され、黄金の根の上に重い音を立てて落下した。
銀色の魔導鍵が彼女の手からこぼれ落ち、カラン、と虚しい音を立てて転がる。
「シエル! シエル、しっかりして!!」
ティオが駆け寄り、シエルの体を抱き起こすが、彼女は目を閉じたままピクリとも動かない。
「……おのれ、よくもお嬢を……!」
満身創痍のバルドが、折れた肋骨の痛みに血を吐きながらも、残された左腕一本で巨大なスパナを構え、シエルとティオを庇うように立ち塞がった。
「ハァッハッハッハ!! 素晴らしい! やはり最後に頼るべきは、鍛え上げられた個人の暴力よ! さあ、ハッカーの小娘は死んだ! 残るゴミ共も、大樹の養分にしてくれる!」
ヴェインが狂喜の笑い声を上げ、バルドとティオを完全に消し炭にするべく、両手にありったけの魔力を集中させた。特大の火炎球が膨張し、絶望的な熱波が空間を焦がす。
「おじさん……!」
ティオがシエルを抱きしめ、ギュッと目を閉じた。
バルドが死を覚悟し、一歩前に出ようとした――その瞬間だった。
――ピシィッ!!
空間を切り裂くような、甲高い音が響いた。
ヴェインの頭上に展開されていた巨大な火炎球が、何の前触れもなく「純白の光」と「漆黒の闇」が交差する十字の斬撃によって、真っ二つに両断されたのだ。
「な、なんだと……!? 私の魔法を、一撃で……!?」
驚愕するヴェイン。
無重力の暗闇に、静かな足音が響く。
光の橋の彼方から、一人の男がゆっくりと歩み出てきた。
その身を包むのは、イグノタフ家の正規軍とは異なる、漆黒と銀を基調とした『独立部隊』の特注軍服。しかし、その裾や袖口は長旅を物語るように薄汚れ、擦り切れている。
彼の右手には、神々しい光を放つ『白銀の聖剣』。
そして左手には、周囲の光を飲み込むような禍々しい『漆黒の魔剣』が握られていた。
「な……貴様は……! 本邸で、何度か見かけたことがあるぞ……!」
ヴェインの顔から、一瞬にして血の気が引いた。その声は、先ほどの傲慢さが嘘のように、驚愕と混乱で震えている。
「イグノタフ家の独立部隊を率いる男……カイル・イグノタフ! なぜここにいる!? 貴様は侯爵閣下に反旗を翻し、一族から逃走中のはず……ひぃっ!!」
カイルはヴェインの言葉に、一切の表情を動かさなかった。
ただ、氷のように冷たく、感情の抜け落ちた双眸で、震える魔導技師を見下ろしている。そして――動いた。
瞬きをする隙すら与えない、神速の踏み込み。
「【全方位・絶対防――】」
ヴェインが防御魔法を展開しようとしたが、それよりもカイルの双刃が振るわれる方が遥かに早かった。
右手の『聖剣』が一閃し、ヴェインの張った何重もの防壁を紙切れのように切り裂く。
そして左手の『魔剣』が翻り、ヴェインの十本の指に嵌められていた魔導リングごと、彼の両腕の魔力回路を完全に断ち切った。
「ガァァァァァァッ!!?」
魔法を封じられ、無防備になったヴェインの腹部に、カイルの容赦のない前蹴りが突き刺さる。
ヴェインはボールのように吹き飛ばされ、黄金の根に激突して白目を剥き、完全に気絶した。
あっという間の出来事だった。
何重もの魔法を操り、シエルを打ち倒したあのヴェインが、手も足も出ずにただの一撃で沈められたのだ。
「……な、なんなんだ、あいつは……」
バルドが冷や汗を流し、スパナを握る手に力が入る。
もしこの得体の知れない二刀流の剣士がこちらに襲いかかってくれば、満身創痍の自分たちに防ぐ手立ては万に一つもない。
しかし、カイルはバルドやティオには一瞥もくれなかった。倒れ伏すシエルにすら目も向けない。
彼はただ無言のまま、ヴェインが操作していた『黄金の玉座』のメインコンソールへと歩み寄った。
カイルは右手の『聖剣』を静かに持ち上げると、その刃を、赤黒いエラーに侵食されているコンソールの中心へと真っ直ぐに突き立てた。
――カアァァァァァッ……!
聖剣から溢れ出した純白の光が、メインコアのシステムへと直接流れ込んでいく。
それはハッキングでも、魔術でもない。ただ絶対的な「浄化の力」だった。
ヴェインの残した汚いスパゲティコードも、外部からの不正アクセスの痕跡も、すべてが純白の光に洗い流されていく。
数秒後。
剣を引き抜くと、黄金の玉座は赤黒いノイズを完全に消し去り、大自然本来の、穏やかで美しい青白い輝きを取り戻していた。
暴走していた世界樹のコードが、正常化されたのだ。
カイルはそれを見届けると、聖剣と魔剣を同時に鞘へと納めた。
チャキッ、という冷たい金属音だけが、静寂を取り戻した空間に響く。
彼は気絶したヴェインにも、警戒を解けないバルドやティオにも、一言も発することはなかった。逃走中の身である彼が何を思ってこの場に現れ、神樹を救ったのか。
その理由は一切語られることなく、カイルは現れた時と同じように無言のまま踵を返し、宇宙空間のような星空の彼方へと続く光の橋を渡って、静かにその姿を消していった。
圧倒的な嵐が過ぎ去った後のような静寂の中。
バルドとティオは、ただ呆然と、その背中を見送ることしかできなかった。




