第9話:記憶を刻む刃
キシャァァァァァッ!!!
耳を聾する咆哮とともに、天井から灰色の質量が降ってきた。
咄嗟に身をよじった俺の鼻先を、風を切り裂く冷たい金属光沢がかすめていく。【追跡者】の振るったダガーが、床の水面を浅く切り裂いた。
「くそっ、なんだよあいつ! 目もないくせに、なんで寸分の狂いもなく俺の急所を狙ってこれるんだ!?」
俺は無音の靴底を利かせ、焦燥のままに黒焦げの本棚の影へと飛び込んだ。だが、まるで無意味だった。灰色の人形は、俺が移動した先へ向けて、すでに天井を蜘蛛のように這いながら正確に追尾してきている。
「レイン、落ち着きなさい。パニックになって動けば動くほど、あいつにとっては格好の標的よ」
本棚の反対側で、シエルは短剣を構えたまま、平然とした声で俺に告げた。そのアメジスト色の瞳には、冷徹なまでの観察眼が宿っている。
「あいつの顔をよく見て。目がない代わりに、異様に長いあの赤黒い『舌』が動いているでしょう。あれは蛇のピット器官と同じ――空気中のわずかな『熱(体温)』を感知して、あなたの位置を完全に補足しているのよ」
「熱感知……!? じゃあ、隠れたって無駄ってことかよ!」
「ええ。そして、ちょうどいい機会だわ」
シエルはフッと、悪戯っぽく、しかし冷酷な笑みをその薄い唇に浮かべた。彼女は構えていた短剣を、するりと腰の鞘へと戻してしまう。
「シエル……? 何やってるんだ、おい!」
「これはあなたの試練よ、レイン。その追跡者は、あなた一人の力で倒しなさい。2階から先は、誰かの後ろにくっついているだけの素人が生き残れるほど甘くないわ。手持ちの道具が尽きたのなら、この『環境』を使いなさい。ウォーカーなら、知恵を絞って地の利を盗むのよ」
「正気かよ……っ!」
突き放すようなシエルの言葉。だが、彼女の言う通りだ。ここで彼女の足を引っ張るだけの存在なら、この先にある「館長室」に辿り着く前に死ぬ。
キシャァァァッ!
追跡者が天井を蹴り、弾丸のような速度で俺の頭上へと襲いかかってきた。手元に武器はない。ポケットの直線感知器もデコイも、さっきの1階の戦闘ですべて使い果たして空っぽだ。
(熱を感知している……道具はない……環境を使え……!)
俺は紫色の灯火に照らされた回廊を狂ったように走りながら、必死に脳細胞を回転させた。
壁には脈打つレンガ。黒焦げの本棚。そして――通路のあちこちを怪しく照らしている、『精神を蝕む紫の灯火』の蝋燭。
(あれだ……!!)
迫り来るダガーの風圧を背中に感じながら、俺は通路の壁に備え付けられた巨大なアイアン製の燭台へと突っ込んだ。
蝋燭から立ち上る紫の炎。それは精神を蝕む呪いの火だが、同時に――**「激しい熱」**を放っている!
「おおおおおっ!」
俺は全力で燭台を薙ぎ倒し、背後の本棚へと押し倒した。
ただでさえ焼けただれていた黒焦げの本棚に、紫の炎が一瞬で燃え移る。ゴオォッ!と、一際激しい熱波が周囲の空気を爆発的に満たした。
キシャ!?
直後、俺の頭上へ飛びかかろうとしていた追跡者が、空中で不自然に体勢を崩した。
周囲一帯が本棚の炎によって凄まじい高温に包まれたことで、あいつの『熱感知の舌』が完全に飽和し、俺の体温を見失ったのだ。
「ビンゴだ……! 目隠し完了だ、この野郎!」
俺は炎の熱に顔をしかめながら、目測を誤って床へ着地した追跡者の死角へと回り込んだ。あいつは長い舌を左右に激しく振り乱し、完全に混乱している。
手元に武器はない。だが、この2階の『環境ルール』なら、さっき身をもって体験したばかりだ!
俺は追跡者の背後にある、まだ開けられていない重厚な「木製の扉」へと全力で体当たりをかました。
2階の扉を開けるときの鉄則。それを、あえて今、利用する。
取っ手を掴み、手前に思い切り――引き開ける!
ゴオォォォォン!!!
扉を開けた瞬間、左右の壁(本棚)が、猛烈なスピードで中央に向かってハエ叩きのように倒れ込んできた。
俺は開けた瞬間に、シエルの言葉通り「一歩後ろへ」全力で飛び退いていた。
だが、俺の目の前で、熱を失って右往左往していた追跡者は逃げられなかった。
バァァァン!!!
凄まじい破壊音とともに、左右の本棚が灰色の人形を完全にサンドイッチする。
1階の突進にも耐えうる頑丈な本棚の質量プレスだ。いくら機動力が自慢の亡霊とはいえ、直撃すればひとたまりもない。
ミジ、ジジ……と不気味な音が響き、本棚の隙間から、追跡者の身体が黒い霧となって消散していく。
その霧の跡に、カラン……と、一振りの小ぶりな銀のダガーが残された。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ! やった、か……?」
「お見事。2階の『初見殺し』をそのまま攻撃に転用するなんて、合格点以上の機転ね」
シエルがパチパチと小さく拍手をしながら歩み寄ってくる。俺は床に落ちたダガー――追跡者の遺留品を拾い上げた。これが、記憶を切り裂くドロップアイテムか。
辛くも手に入れた勝利。だが、安堵して立ち上がろうとしたその時、強烈な違和感が右腕を襲った。
「……あ」
見ると、俺の右腕の夜着がわずかに裂け、そこから一筋の赤い血が流れていた。さっき、最初の猛攻を避けたときに、追跡者のダガーの先端がかすっていたのだ。
「レイン、あなた……斬られたの!?」
シエルの顔から一瞬で余裕が消え去り、青ざめた表情で俺の腕を掴んできた。
あの刃に傷つけられた者は、大切な記憶をランダムで失う。
俺とシエルの間に、冷たい、凍りつくような沈黙が流れた。
「……レイン。何か、忘れた感覚はある? 自分の名前は? 私の名前は……覚えている?」
シエルのアメジスト色の瞳が、かつてないほどの恐怖に揺れている。自分のせいで、この少年の大切な何かを奪ってしまったかもしれないという、明確な動揺。
俺は必死に頭の中を整理した。自分の名前はレイン。この少女はシエル。時計塔の地下。明日はテスト。退学の危機。……大丈夫だ、全部覚えている。
「……いや、大丈夫みたいだ。大事なことは全部覚えてる」
「本当に……? 良かった……」
シエルが細い胸をなでおろし、深く安堵の息を吐いた。
だが、俺は、嘘をついていた。
確かに、学園や、シエルや、自分の名前に繋がる記憶は無事だった。
けれど。俺の頭の中から、**「ある特定のピース」**だけが、綺麗さっぱり消滅していることに気づいてしまったのだ。
(……待てよ。俺の、家族の顔は? 俺をここまで育ててくれた、親の名前はなんだっけ……?)
思い出そうとしても、そこには霧がかかったような空白しかない。
俺の、家系。俺の、血筋。根源的な記憶。
一太刀浴びた傷が消し去った、そのあまりにも不穏な記憶の欠落に、俺は背筋が凍りつくのを感じていた。
だが、ここで立ち止まっているわけにはいかない。
俺は恐怖を押し殺し、ダガーを懐に深くしまい込むと、シエルに向けて無理に笑みを作ってみせた。
「さぁ、先へ進もう。……次は、ちゃんと扉を開けたら一歩下がるよ」
「ええ。2階の扉を開けるときのルールは、今ので嫌というほど学んだでしょうしね」
シエルが少し微笑み、再び歩き出す。
俺は今度こそ慎重に、次のエリアへと続く重厚な扉の取っ手を掴んだ。よし、開けたらすぐに一歩下がる。頭の中で完璧にシミュレーションを繰り返す。
いくぞ。俺は意を決して、扉を手前に力任せに引き開けた。
――そして、完璧なタイミングで、後ろへと一歩、大きく飛び退いた。
ゴオォォォォン!!!
扉を開けた瞬間、左右の壁(本棚)が、猛烈なスピードで中央に向かって倒れ込んでくる。
よし、避けた! 俺の目の前で、本棚同士が激しく激突する――
――と、思った瞬間。
今度は**「天井」**から、巨大な鉄板がもの凄い勢いでドスン!!!と垂直に落下してきた。
「ぶふぇっ!?」
後ろに下がったまさにその位置に降ってきた鉄板に、俺は頭から真下に押し潰され、床の水面にカエルのようにペシャンコに張り付けにされた。
「……言い忘れていたわ。2階の扉のルール。本棚プレスを避けた後は、さらに『もう一歩』下がって天井を警戒するのが、真の基本中の基本よ」
床にへたり込み、ペシャンコになってピクピクと痙攣している俺の頭上で、シエルはクスクスと楽しそうに鈴の音のような声を響かせていた。
皆さん読みにくくないですか?
初めて書くので勝手が分かりませんのでレビューを頂ければ幸いです!




