第8話:侵入者を拒む回廊
2階――『禁忌の回廊』の冷気は、1階のそれとは密度が違った。
鉄格子の扉が背後で重々しく閉まった瞬間、五感を支配したのは、内臓の壁のように脈打つレンガの不気味な鼓動と、鼻腔の奥にこびりつく濃厚な死臭だった。
「……うっ」
俺は思わず口元を袖で押さえた。
それだけじゃない。通路を進むごとに、視界がじんわりと禍々しい『紫色の灯火』に侵食されていく。壁に据え付けられた蝋燭から立ち上るその光は、1階のランタンのようにこちらを照らし出す索敵の光ではなかった。
(なんだこれ……。身体はどこも痛まないのに、胸が、バクバクする……!)
「気を確かに持ちなさい、レイン」
シエルが俺の肩を小さく叩いた。彼女の手の温もりで、狂いそうになっていた心拍数がわずかに落ち着く。
「これは『精神を蝕む紫の灯火』。肉体的な実害は一切ないわ。けれど、人間の脳に直接作用して、本能的な『恐怖心』を限界まで増幅させる陰湿な環境罠よ。普通ならなんともないただの影が化け物に見えたり、自分の足音が何かの足音に聞こえたりする。怖くなって走って音を立てたり、足が震えてガタガタと本棚を鳴らしたら……その時点で怪異たちの餌食よ」
「……なんて趣味の悪い罠だ。まともに歩かせる気がないな」
俺は奥歯を噛み締め、恐怖でガクガクと震えようとする膝に無理やり力を込めた。一歩進むだけで、底なし沼に沈み込んでいくような凄まじい精神的プレッシャーがかかる。シエルの言う通り、ここは一瞬の油断も許されない、おどろおどろしい地獄の底だった。
張り詰めた空気の中、俺たちは慎重に最初の十字路を曲がり、次のエリアへと続く重厚な木製の扉の前に辿り着いた。
シエルが周囲の『目玉の罠』を警戒している隙に、俺は少しでも足手まといを脱却しようと、一歩前に出た。
「ここは俺が開ける。……よし、罠(目玉)は周りにないな」
これまでの恐怖を撥ね退けるように、俺は意を決して、目の前の頑丈な扉の取っ手を掴み、勢いよく手前に引き開けた。
――その、瞬間だった。
ゴオォォォォン!!!
扉を開けたのと同時に、左右の壁(本棚)が、まるで巨大なハエ叩きのように猛烈なスピードで中央に向かって倒れ込んできた。
「ぶふっ!?」
逃げる間もなかった。左右から挟み込まれた凄まじい質量が、俺の身体を真ん中で綺麗にプレスする。
バァァァン!!!と、図書館全体に情けない肉の潰れるような音が響き渡った。
「…………ちょっと、何やってるのよ」
本棚と本棚の、わずか数センチの隙間にペシャンコに挟まり、顔を限界まで歪ませている俺の前に、シエルがトコトコと歩み寄ってきた。彼女は心底呆れ果てたような顔で、深々と溜息をついた。
「2階のドアはね、開けたら一歩下がる、あるいはすぐに横の死角に飛び込むのが基本中の基本(初見殺し)よ。……生きてる?」
「いき、て……りゅ……。骨は……折れて、ない……みたいだ……」
ダメージ自体をカットする魔導夜着のおかげで肉体は無事だったが、プライドは粉々だ。俺は本棚の隙間から「ズブブ……」と這い出し、床にへたり込んだ。ホラー映画のような恐怖に怯えていたのが馬鹿らしくなるほどの、あまりにも古典的で理不尽な初見殺し。
「ったく、驚かせやがって……」
俺が服の埃を払いながら立ち上がった、その時。
シエルの纏う空気が、一瞬でガラスの刃のように引き締まった。
「……冗談はここまでよ。最悪なのが降りてきたわ。上(天井)を見て」
シエルの冷徹な声に、俺の全身の毛穴が収縮した。ギャグめいた空気は一瞬で消し飛び、再びおどろどろしい静寂が周囲を包み込む。
ギチ、ギチ、ギチチ……。
天井の闇。そして黒焦げの本棚の側面に、重力を完全に無視して『それ』は張り付いていた。
それは、人間の形を模した、灰色の歪な「人形」だった。
衣服は身につけておらず、顔面には目も、鼻も、眉もない。ただのっぺりとした灰色の粘土細工のような頭部。だが、その顔の中央が裂けるようにして、一本の**「異様に長い、真っ赤な舌」**がダラリと垂れ下がっていた。
ジュルリ、と舌が蠢く。
その舌は、まるで蛇のピット器官のように、空気中のわずかな『熱(体温)』を感知して左右に忙しなく揺れていた。目がなくとも、俺たちの体温の在処を完全にロックオンしているのだ。
両手には、それぞれ禍々しく輝く、小ぶりの鋭利なダガーが握られている。
書館の2階を這い回る、高機動型の亡霊――【追跡者】。
「シエル……あいつは……!」
「2階の固有亡霊よ。1階の館長や処刑人と違って、個体としての攻撃力や耐久力はそれほど高くない。……だけど、スピードと変則的な3D軌道が段違いよ。それに、あいつの持つダガーには最悪のペナルティが呪われているわ」
シエルは短剣を構え、天井を這う灰色の人形を鋭く睨みつけながら言った。
「あの刃で傷つけられた者は、ダメージの代わりに、自分の大切な記憶をランダムで失っていくの。掠り傷一つで大切な思い出が消え、深く斬られれば、さっき私たちが明かし合ったばかりの『自分の名前』すら、その場で綺麗さっぱり忘れて、ただの迷子(生ゴミ)になる」
記憶を刻むごとに削り取っていく、精神の暗殺者。
灰色の人形――追跡者は、獲物の熱を完全に感知したのか、その長い舌を不気味に震わせた。
キシャァァァァァッ!!!
鼓膜を突き刺すような金属音の咆哮と共に、追跡者が天井を蹴った。
重力を置き去りにした超高速の跳躍。本棚から本棚へ、壁から天井へとジグザグに跳ね回りながら、鋭利なダガーの刃をぎらつかせ、俺たちの頭上へと肉薄してくる。
「速い……! どこから来る!?」
「焦らないで、レイン! あいつを倒せば、運が良ければあのダガーをこちらの武器として『ドロップ』させられるわ。記憶を切り裂く、最高の盗掘品をね!」
敵の圧倒的な機動力。掠れば名前を失う絶望の刃。
だが、その恐怖の裏には、ローグライク特有の「ハイリスク・ハイリターンな報酬」が眠っていた。




