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【祝700PV突発!】書館のウォーカー   作者: ジョニ男
第1章 時計台の書館

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第7話:偽りの残像

「レイン・ガレット。……いい名前ね。レインのように、いつかこの地獄の火を消してでもくれるのかしら?」

シエルは小さく肩をすくめると、腰元に厳重に結びつけられた銀鍵の束を、指先でリズミカルに鳴らした。チリン、ジャラリ、と冷たい金属音が暗闇の回廊に響き、驚くほど滑らかに静寂へと溶けていく。

彼女は冷徹な、この地下のルールを完全に把握しているプロの盗掘者ウォーカーだ。けれど、レインという俺の「名」をその鼓膜に受け入れたその瞬間から、彼女の鋭利な刃物のようだった身構えは、ほんの僅かだけ、本当にごく僅かだけ、刺々しさを潜めたように見えた。

「無駄話はここまでよ、レイン。のんびりとお喋りを楽しんでいる時間なんて、今の私たちには1秒だって残されていないわ。さっきあなたが仕掛けたデコイと館長の突進による大崩落――あの凄まじい瓦礫の山だって、館長ライブラリアンの手にかかれば数分もしないうちに『何事もなかったかのように』修復されてしまう。あいつが片付けを終えて、私たちの足跡を辿って追ってくる前に……さっさと2階へ上がるわよ」

シエルの言葉に、俺は思わず眉をひそめ、彼女の横顔を見つめた。

「2階、だって? 1階の探索だけでも死にかけたっていうのに、まだ上があるのか。この地下書館は一体どこまで広いんだ」

「上、ではないわ。言葉を額面通りに受け取らないで、素人さん」

シエルはフッと自嘲気味に息を漏らすと、巨大な黒檀の本棚の裏影、普通に歩いていたのでは決して気づけないような深い闇の隙間を指差した。そこには、壁のレンガと同化するようにして、ひっそりと口を開けている不気味な螺旋階段が存在していた。

「当然でしょう。この地下書館という空間は、私たちが生きている昼の世界の物理法則なんて最初からすべて拒絶しているの。深淵に向かって、地底の底の底に向かって、まるで『逆さまに』そびえ立つ塔。それがこの建物の本質よ。私たちが今までいた1階は、ただの入り口、ただの玄関口に過ぎない――俗に『平民の書架』と呼ばれる、まだ比較的安全な場所。そして、この螺旋階段を降りた先に広がる2階から先は、本物の『禁忌の回廊』。仕掛けられている罠の精度も、暗闇を徘徊する亡霊たちの凶暴さも、1階とは比べ物にならないくらい跳ね上がるわ」

下っているのに、2階へ上がる。

その歪な構造を説明するシエルの声には、恐怖ではなく、この異常な空間に長年適応してきた者だけが持つ、妙に冷え切った確信があった。

俺たちは互いに視線を交わし、どちらからともなくその螺旋階段へと足を踏み入れた。

足音を完全に消し去る特殊な靴底のおかげで、俺たちの歩みは無音だ。一歩、また一歩と、奈落の底へと続く階段を降りていく。

だが、一段、また一段と階段を深く降りるごとに、周囲を取り囲む情景とおどろどろしい空気は、目に見えて、そして肌に刺さるほどの生々しさを持って変貌していった。

1階に漂っていた、古い紙やカビの混ざり合った、まだ「図書館」としての体裁を保っていた匂いは完全に消失していた。今、俺たちの鼻腔を容赦なく突き刺してくるのは、腐敗した肉の臭気と、長い時間をかけて乾燥し、こびりついた凝固血液が放つ、特異で濃厚な「死の臭い」そのものだった。

息を吸い込むたびに、肺の奥がじわじわと汚されていくような錯覚に陥る。

ふと、階段を囲む壁のレンガに目をやった俺は、心臓が凍りつくのを感じた。壁を構成する赤黒いレンガは、いつの間にか、まるで生き物の内臓の内壁のような生々しい質感を帯びていたのだ。それだけではない。目を凝らすと、そのレンガの奥から、ドクン、ドクンと、不規則で重苦しい「脈動」が微かに伝わってくる。まるで、この地下空間そのものが一つの巨大な化け物で、俺たちはその消化器官の中を歩かされているかのような、強烈な嫌悪感が這い上がってくる。

さらに、通路の脇に並び始める本棚の木材は、怨念や死者の無念を限界まで吸い上げすぎたのか、どれもこれもが真っ黒に焼けただれ、炭化しているように見えた。その歪んだ木目をよく観察すると、それは自然にできた模様などではなかった。何十、何百という「苦悶に歪み、絶叫をあげる人間の顔」が、木肌のあちこちにびっしりと浮き上がり、無音の悲鳴を上げながら俺たちを睨みつけているのだ。

あまりの悍ましさに、俺の背中を冷たい汗が止めどなく伝い落ちる。衣服の袖を握る手が、自然と強く震えていた。

「……ひどい場所だな。1階が天国に見えるくらいだ」

「そうね。ここは、昼の世界の光が強ければ強いほど、その濃い影として深く沈み込んでいく場所。この2階というエリアはね、レイン。かつて昼の綺麗な街で『異端』だの『大罪人』だのと烙印を押され、歴史の表舞台から生きたまま葬り去られた哀れな魔術師たちの、文字通りの墓場でもあるのよ。彼らが遺した怨念と、外に出せなかった禁断の知識が、この空間を歪めているの」

シエルはそんな地獄のような光景を目の当たりにしても、眉一つ動かさなかった。そのアメジスト色の瞳は、ただ冷徹に、前方から迫り来る暗闇の奥をじっと見つめている。彼女のその尋常ではない冷静さが、逆に俺の中に新たな疑問を呼び起こした。

俺は無音の歩調を崩さないよう注意しながら、彼女の少し後ろから、ずっと胸の奥で燻っていた最大の疑問を口にした。

「なぁ、シエル。少し気になってたんだが……あんたはなんで、こんな命がけの危険な場所に、何度も何度も繰り返し潜っているんだ? 捕まれば記憶をすべて奪われて廃人のようになるかもしれない、処刑人に遭えば文字通り肉体を両断されて殺されるかもしれない。ただの『一攫千金を狙う盗掘』にしては、背負っているリスクが大きすぎるだろ。あんたをここまで突き動かすものは、一体何なんだ?」

俺の問いかけに対し、階段を降りていたシエルの足が一瞬だけ、ピタリと止まった。

静寂。いや、壁の脈動の音だけが響く空間で、彼女はゆっくりと振り返り、その妖しく光るアメジスト色の瞳を俺の瞳へと真っ直ぐに向けてきた。

その瞳の奥底には、さっきまで俺に向けていた冷たい警戒の光とはまるで違う、もっと深く、昏く、そして烈烈と燃え盛るような「執念の炎」がゆらゆらと揺らめいていた。それは、他者が容易に触れてはならない、彼女の魂の核心部分だった。

「……私はね、ある『本』を探しているのよ、レイン」

「本、だって? 2階にある、特別な魔導書か何かか?」

「ええ。この広大な地下書館のどこか深くに、歴史から完全に抹消され、厳重に隠蔽されているという、ある禁忌の『血統書』。……私が知っている確かな情報は、本当にそこまでよ」

「そこまで、って……中身に何が書かれているのかは知らないのか?」

シエルは自嘲気味に、その形の良い薄い唇を僅かに歪めて、冷ややかに笑った。

「その血統書に一体どんな呪われた事実が記されているのか、なぜそれが世界の歴史から存在ごと綺麗に抹消され、この深淵の底に沈められなければならなかったのか……本当のコアにある真実は、私がこの手でその本を掴み、この目でページを確かめるまで、誰にも分からないわ。けれどね、レイン。それこそが、私の――私たちの、理不尽に奪い去られた全てを取り戻すための、唯一無二の鍵なのよ。そのためなら、私は館長にこの脳みそを差し出して、廃人にされたって構わない。……まぁ、その前にあいつの薄汚い首を、この短剣で刈り取るつもりだけどね」

彼女の口から語られた言葉の重みに、俺は息を呑んだ。

目的の本の全貌すら分からぬまま、それでも彼女は、人生のすべてを賭して、この世界の影である深淵に潜り続けている。彼女のまとう、どこか達観した孤独で洗練された空気の理由は、その未知なる壮絶な復讐心にあるのだと、触れてはいけない過去の重みが、彼女の痛々しいほどの背中から伝わってきた。

シエルはそう言って、再び何事もなかったかのように階段を降り始めた。

その漆黒の髪が揺れる背中を見つめながら、俺はそれ以上の追及をすることを自ら諦めた。

当然だ。俺たちは出会ってまだ数十分も経っていない、ただ偶然ここで出会っただけの、互いに名前を知ったばかりの奇妙な同業者に過ぎない。命の恩人という免罪符があるとはいえ、まだ完全に信用されているわけではないことくらい、俺にだって十分に理解できた。

だが、俺の視線から隠れるようにして、黒いフードをさらに深くかぶり直したシエルの瞳には、レインには決して明かせない、さらに冷徹で残酷な事実が浮かび上がっていた。

(……あの血統書。世間の人間は、そんなものが存在することすら知らない。けれど、あの血統書がこの書館に隠され、私の血筋がすべてを奪われたその裏で、糸を引いている黒幕は……この魔導学園の街の、さらに深い闇の特等席にふんぞり返っている、あの『家』――。イグノタフ家なんて目じゃない、世界を裏から牛耳る真の支配者)

そこから先の思考を、シエルは自らの意志で強引に打ち切った。まだ、この目の前にいるお人好しな少年に話すべき領域ではない。巻き込むには、今の彼はあまりにも無力で、頼りなくて、そして――あまりにも素人すぎた。

「……とにかく、無駄な詮索はそれくらいにして、足元に集中しなさい。ここからは本当に、一歩の踏み外しが死に直結するわよ」

「あ、ああっ……分かってる」

彼女の冷たい制止に促されるようにして、俺たちはついに螺旋階段の最下層へと辿り着いた。

やがて、長い階段を降りきったその時、俺の視界の端、本棚のほんの僅かな隙間に、強烈な、それこそ魂が裏返るほどの凄まじい違和感が飛び込んできた。

2階へと続く重厚な、びっしりと呪符が貼られた鉄格子の扉。その手前にある、1階の最奥の書架。床には、先ほどの先客ウォーカーの死体から流れてきたのだろうか、血の池のように不気味で赤黒いシミが広がっている。そのシミのすぐ脇にある薄暗い棚の中に、それは静かに鎮座していた。

本棚の暗闇の中から、ぼんやりと妖しく、しかしどこか温かみのある光を放つ、独特なオレンジ色の装丁。

分厚い最高級の革で作られた表紙には、見覚えのある――いや、脳の記憶には一切ないはずなのに、見ているだけで動悸が激しくなるような、複雑な幾何学模様の魔導刻印が刻まれている。

(――あ、ああ……っ!!!)

心臓が、ドクンと耳障りな音を立てて跳ね上がった。

頭の中の記憶は真っ白だ。昨日自分がこの本を見つけ、中身を夢中になって貪り読んだというエピソードは、綺麗さっぱり消去されている。だけど、俺の右手の指先が、その本の重みを、その革のざらついた感触を明確に思い出して、ピクリと不自然に痙攣したのだ。

「おい、シエル! 待ってくれ、嘘だろ……あれ、あれを見てくれ! あれだ……! 俺が昨日、この手で確かに掴み取って、確かに手に入れたはずの、あのオレンジの本だ……!」

俺は半ば我を忘れ、吸い寄せられるようにその血のシミが広がる本棚へと駆け寄った。手を伸ばし、あのオレンジの本の背表紙に触れようとする。

これだ。間違いない。これさえ手に入れれば、明日の朝行われる魔導学園の定期テストなんて、余裕で一桁の順位に入れる。俺をバカにしてきた連中の鼻を明かし、退学の危機から完全に脱出できる、俺にとって唯一の、絶対的な希望の光。

「馬鹿! 動きを止めなさい! 触るんじゃないわよ、レイン!!」

背後から、シエルのこれまでにないほど鋭く、焦りを孕んだ制止の絶叫が飛んできた。

だが、その言葉が俺の鼓膜に届くよりも早く、俺の右手の指先は、すでにその美しく輝くオレンジ色の革表紙へと、吸い込まれるように触れてしまっていた。

パチリ、と静電気のような微かな音がした。

(……え……?)

その瞬間、指先から脳へと伝わってきた感覚は、俺が期待していた、全身の血が沸き立つような「未知なる莫大な知識の奔流」では、断じてなかった。

そこに存在したのは、ただの、冷たく、不気味に乾いた――中身が何も伴っていない、圧倒的な『虚無』の感触だった。

あんなに眩しく、俺の未来を照らすように美しく明滅していたはずのオレンジ色の光は、俺の指先が触れたその瞬間に、まるで安っぽい子供騙しの幻影のように、煙となって儚く霧散してしまった。

「な……んだよ、これ。どういうことだ……っ!?」

俺は焦燥感に駆られ、本棚からそのオレンジの本を乱暴に引き抜き、狂ったようにページをめくった。

パラパラパラパラ、と乾いた音が響く。

1ページ目、白紙。50ページ目、白紙。100ページ目も、巻末のページにいたるまで――そこにあるのは、文字の影すらない、インクの匂いすらしない、ただの何も書かれていない真っ白な白紙のページだけだった。

「白紙……? 嘘だろ、そんなわけがない。じゃあ、俺が昨日必死になって読み耽っていた、あの膨大な魔導の知識は……俺が昨日見たものは、一体何だったんだよ!!」

愕然とし、膝から崩れ落ちそうになる俺の真横に、シエルが気配もなく静かに歩み寄ってきた。彼女のアメジスト色の瞳には、絶望する俺に対する微かな哀れみと、そしてこの地下書館が内包する「あまりにも冷酷で、容赦のないシステム」に対する、深い深い諦念が浮かんでいた。

「だから声を大にして言ったのよ、素人さん。……触るな、って。それが【館長ライブラリアン】という怪異の本当の恐ろしさ。この地下書館における、剥奪魔法リセットの、これが隠された真実よ」

シエルは、俺の手の中で力なく開かれている、不自然なほど真っ白なページを細い指先でそっと指差した。

「館長はね、レイン。この書館に侵入してルールを破った不届き者から、その夜の記憶と経験を奪うだけじゃないの。その侵入者が『この書館の本から得た知識』……その本の中身そのものを、記憶と一緒にすべて丸ごと貪り喰うのよ。あなたが昨日、命をかけて、文字通り魂を削って手に入れたはずの、そのオレンジの本の知識は……もう、この本の中には1文字だって残っていないわ。すべて、あなたの記憶と一緒に、今も館長の薄暗い胃袋の中で消化されているのよ」

頭を背後から巨大なハンマーで殴られたような、凄まじい衝撃だった。

目の前が真っ暗になり、思考が完全に停止する。

本がそこにあるなら、また夜に来ればいい。記憶を消されて白紙に戻されても、何度でも泥臭くリベンジして、もう一度読み直せばいい。

そんな都合のいい、生ぬるい甘い希望なんて、この深淵には最初から1ミリも存在していなかったのだ。

館長に捕まるということは、自分が蓄えた経験値を失うだけではない。**「自分が手に入れたその知識という資源そのものを、この世界から完全に消滅させられる」**ということに等しい。今のこのオレンジの本は、ただの抜け殻。中身を、価値を、魂をすべて吸い尽くされた、ただの紙の死体、綺麗なだけのゴミ箱だ。

「……じゃあ、もう、あの知識は二度と手に入らないのか? 俺は、もうあいつに勝てないのか……?」

絶望に震える俺の声を拾い上げ、シエルは鉄格子の向こう、2階へと続くさらに深い深い闇の奥をじっと見つめた。その横顔には、引き下がる気など毛頭ない、強固な意志が刻まれている。

「いいえ。方法なら、たった一つだけ残されているわ」

「え……?」

「簡単よ。館長の腹の中に収まっているものを、力ずくで吐き出させるのよ。奪われたあなたの全ての記憶と経験、そしてその本の知識をね。……そのためには、この1階をうろついているような、館長の『薄薄しい影(分身)』をいくら相手にしても意味がない。2階のさらに奥、この書館の最深部にある『館長室』――あいつの本体が鎮座する本物の書斎に潜り込み、本体を直接叩き潰すしかないわ」

絶望のどん底に叩き落とされた俺の前に、シエルは明確な、そしてこれ以上ないほど過酷で熱い「ゴール」を提示してみせた。

中身を失い、冷たくなった抜け殻のオレンジの本を、俺はゆっくりと本棚の元の位置へと戻した。

そして、今度は絶望ではなく、腹の底から湧き上がる猛烈な怒りと共に、両方の拳を白くなるほど強く強く握りしめた。

ただ学校を退学になるのを免れるための、コソ泥じゃない。

俺の頭の中を弄び、せっかく掴み取った未来をリセットし、本の中身まで奪い去ったあの傲慢な化け物の腹をかっ裂き、俺のすべてを力ずくで奪い返す。そのための、これはリベンジマッチだ。

「行くぞ、シエル。2階へ……いや、その先の館長室まで、あんたに付き合う」

俺の言葉を聞いたシエルは、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにフッと、今日一番の、年相応に綺麗な笑みをその唇に浮かべた。

「ふふ……いい顔になったわね、レイン。その目をするウォーカーは、この地下でも滅多に死なないわ」

シエルが腰元から一本の、最も禍々しい輝きを放つ銀の鍵を抜き取り、重厚な鉄格子の鍵穴へと差し込んだ。

ガチリ、ギギギギ……と、重々しく、そして世界の境界線が引き裂かれるような金属音が響き渡り、2階へと続く禁忌の回廊が、俺たちの前にその巨大な暗黒の口を開けた。

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