第6話:名前の価値
首筋に触れる冷たい鋼の感触が、俺の喉仏を小さく上下させる。
動けば、本当に頸動脈を掻き切られる。それは直感的に理解できた。
背後にいる存在の発する気配は、あの『処刑人』のような圧倒的な質量による圧殺ではない。例えるなら、冬の凍てついた湖の薄氷に、カみそりの刃を静かに滑らせるような――研ぎ澄まされ、洗練され尽くした「静かなる殺気」がそこにはあった。
「……答えて。あなたは生きた人間? それとも、館長に中身を抜かれた、ただの肉の塊?」
至近距離、耳元から降る声は、ひどく冷徹で、同時に驚くほど鈴の音のように美しかった。
俺は両手をゆっくりと上げ、敵意がないことを示しながら、視線だけを限界まで動かして彼女の姿を網膜に焼き付けようとした。
黒いフードの隙間からこぼれ落ちる髪は、夜の帳をそのまま紡いだような、艶やかな漆黒。この地下空間の微かな光を反射して、まるで絹糸のような繊細な光沢を放っている。
そして何より目を引くのは、至近距離から俺を射抜いているその双眸だった。燃えるような、しかし同時に凍てつくような、神秘的なアメジスト色の瞳。その奥には、死地を幾度も潜り抜けた者だけが持つ、孤高のプライドと冷徹な理性が宿っていた。
同時に、鼻腔をくすぐる馨りがあった。
この地下の黴臭さや血の匂いとは対極にある、ほんのりと甘い、野生の「冬の林檎」のような清涼な匂い。
黒い夜着に包まれた体躯は一見するとしなやかで華奢に見えるが、俺の首元に短剣を突きつける手首には、寸分のブレも、迷いもない。彼女の腰元に目をやると、ジャラジャラと不気味な金属音を立てているものがあった。それは見たこともない複雑な歯車と魔導刻印が施された、銀の魔導鍵の束。
それが、彼女がただの迷い人などではなく、この地獄を専門とする「プロの盗掘者」であることを無言で証明していた。
「……生きてる。頭の中は、今朝からスッカラカンだけどな」
俺が掠れた声で、なんとかそれだけを絞り出すと、少女はアメジストの瞳を僅かに細め、俺の顔を覗き込んできた。瞳の奥で、値踏みするような光が小さく揺れる。
「ふーん。館長に記憶を貪られたのね。普通なら、恐怖で二度と時計塔に近づけなくなるか、廃人になるかのどちらかよ。なのに、次の夜にはもう、闇市で対策の道具を揃えてリベンジに来た。……ただの命知らずの馬鹿か、よほどの執念の持ち主か、どちらかしらね」
フッと、肌を刺すような鋭い殺気が霧散した。
首筋から冷たい鋼の感触が遠のく。彼女は流れるような無駄のない動作で短剣を腰の鞘へと収めると、小さく溜息をついた。
「ここは『時計塔の地下』。けれど、同時にこの街の『裏返しの世界』でもある。その境界線を理解していない素人から、あの処刑人の大剣の錆になっていくのよ。あそこに転がっていた哀れな先客のようにね」
彼女の言葉は、冷たく、そして正しかった。
それと同時に、俺の脳裏には、昼間過ごしているこの街の歪な構造が、じわじわと浮かび上がってきた。
昼の世界――俺たちが通う魔導学園の街は、一見すると合理的で、美しく、完璧な秩序に満ちている。名門イグノタフ家のようなエリートたちが我が物顔で闊歩し、誰もが血統とテストの点数だけで評価される、完璧に管理された陽の当たる場所だ。点数が足りなければ、容赦なく「退学」という烙印を押されて排除される。
だが、その足元に広がるこの『地下書館』は、その美しい秩序を維持するために吐き出された、いわば「歴史のゴミ溜め」であり「世界の影」だった。
禁忌とされて歴史から抹消された魔導書、血塗られた異端の知識、そして文字通り命と記憶を『剥奪』された者たちの怨念。昼の世界が白なら、ここはすべてを泥のように飲み込む漆黒。陽光の代わりに怪異のランタンが灯り、ルールを破った者は記憶を抜かれるか、あるいは肉体を両断されて、明日を失う。
イグノタフの秀才が、昼間の学校であれほど青ざめて怯えていたのも無理はない。ここは、昼の世界の権力や血統、名誉など、1ミリの価値も持たない、純粋なルールと暴力の迷宮なのだ。
「あんたは……こんな危険な場所で、一体何をしてるんだ?」
俺の問いに、少女はフードを深くかぶり直し、冷ややかに唇を釣り上げた。その表情には、暗闇に生きる者特有の陰りがあった。
「盗掘よ。昼の綺麗な世界じゃ、お偉い様たちが隠して決して見せようとしない、本物の『価値』を盗み出す。……死にたくなければ、もう帰りなさい、素人さん。次は館長じゃなく、処刑人があなたの首を撥ねるわよ」
冷たく言い放ち、彼女は背を向けた。
足音を消す靴底すら使っていないはずなのに、彼女の歩みは驚くほどに無音で、迷いがなかった。まるで、最初からこの暗闇の景色の一部であるかのように、彼女の漆黒の背中が奥へと溶けていく。
放っておけば、彼女とは二度と交わらない。俺はまた一人で、何も分からないままこの暗闇を彷徨い、いつか処刑人の刃の前に倒れるだろう。退学を回避するためには、そしてこの書館の謎を解き明かすためには、この夜のプロである彼女の知識が、どうしても必要だった。
「待てよ!」
俺は周囲に響かないよう声を潜めながらも、真っ直ぐに、その背中に向けて言葉を投げつけた。
「俺は素人だ。知識もない。だけど、今日のテストの時、俺の右手が勝手に動いた。頭は覚えていなくても、俺の身体は『橙の夜』の魔導書をめくった感覚を覚えてたんだ。剥奪魔法を喰らっても、俺の身体には感覚が残ってる。……あんたの足手まといにはならない……!」
少女の足が、ピタリと止まった。
静寂が満ちる回廊。鎖に吊るされたランタンが、微かに揺れて長い影を揺らす。
彼女はゆっくりと振り返り、アメジストの瞳で再び俺を凝視した。その瞳の奥に、今度は冷徹な警戒ではなく、明確な「興味」の光が灯るのを俺は見逃さなかった。
「……剥奪魔法を受けて、脳ではなく『身体』が記憶を保持している? ……面白いわね。ただの歩く生ゴミかと思ったら、少しは骨のある個体のようだわ」
彼女は小さく、今度は皮肉ではなく、年相応の綺麗な、けれどどこか妖艶な笑みを浮かべた。
「いいでしょう。私の名前はシエル。この先へ進みたいなら、あなたも名前くらいは名乗りなさい。それとも、自分の名前すら剥奪されて思い出せないかしら?」
その問いに、俺は自分の胸に手を当て、深く息を吸い込んだ。
頭の中の知識はすべて消された。教科書の中身も、昨日何をしたかも。けれど、自分の魂の根底にある、この世界での自分の『存在の証』だけは、絶対に館長にも消させなかった。
「……レインだ。レイン・ガレット。俺の頭を空っぽにしたあいつらに、きっちり借りを返しに来た」
暗黒の書館、冷たい空気の中。
二人のウォーカーの本当の物語が、互いの「名前」の開示と共に、静かに、けれど確実に動き始めた。




