第5話:死線を駆ける
轟音と鳴動が、背後から爆速で迫ってくる。障害物を紙切れのように粉砕しながら、直線最短距離で突進してくる最凶の老紳士――【館長】だ。
そして正面には、水面の影を監視し、触れれば即死の大剣を構える【処刑人】。
(考えるな。感覚を研ぎ澄ませ。……化け物どもの『ルール』を逆手に取るんだ!)
ポケットの中で、千切れんばかりに激しく振動する『直線感知器』。その振動のテンポが、俺の脳髄に館長の正確な「到達時間」を叩き込んできた。
あと、三秒。
俺は覚悟を決め、鏡のような『水面の床』へと勢いよく飛び出した。
バシャアァン!!!
静寂の書館に、激しい水音が鳴り響く。
瞬間、正面の処刑人の天秤がガチリと跳ね上がった。顔のない呪いの甲冑が、水面に映った俺の姿を捉え、巨大な大剣を上段に構える。
あと、二秒。
背後の壁が爆発し、青白い眼光をぎらつかせた館長が姿を現す。
その猛烈な突進の軌道は、俺の立ち位置へと真っ直ぐに伸びている。
あと、一秒。
俺は処刑人の目の前で、カバンからもう一つのアイテム――極彩色の光を放つ『幻惑のデコイ』を、あえて自分の「真上の天井」に向けて思い切り投げつけた!
パシャアァァ!
天井の闇の中で、デコイが爆発的な光を放つ。
その瞬間、床の『水面』には、激しく明滅するデコイの光と、上空に乱反射する本棚の「偽物の影」がグチャグチャに映し出された。
「ア……、ガ……!?」
水面の『影』だけを索敵の基準にしている処刑人は、足元の水面が偽の影で乱れたことで、一瞬にして俺のロケーションを見失い、その場に硬直した。
(今だ――!)
突進してくる館長の射線上から、俺は滑り込むように真横の本棚の隙間へと身体を投げ出す。
直後、俺の鼻先を、館長の超質量・直線突進が猛スピードで駆け抜けた。
館長の狙いはあくまで「俺」だ。進路上にいる処刑人には目もくれず、ただ一直線に突っ切っていく。
一方、影を見失って棒立ちになっていた処刑人は、突如として背後から迫った館長の風圧と、波立つ水面の衝撃に反応した。処刑人は、水面を激しく揺らした「館長の足元の影」を次の標的とロックオンし、その巨大な大剣を館長が通り過ぎたばかりの床の水面へと力任せに叩きつけた。
ズシャァァァァン!!!
大剣が水面を叩き割り、激しい水飛沫がカーテンのように周囲を遮る。
さらに、館長の破壊的な突進がその先の巨大な本棚をへし折り、大量の古書がドミノ倒しのように崩落して通路を完全に塞ぎ止めた。
水飛沫の煙幕と、崩落した本棚の瓦礫。
怪異たちの「習性」が引き起こした大混乱によって、俺の存在は完全に闇へと消えた。
(やった……! 完璧に撒いた!)
俺は無音の靴底を利かせ、崩落の喧騒から逃れるように、本棚の迷宮のさらに奥へと全力で疾走した。心臓が痛いほどに跳ね、アドレナリンが脳を支配していく。生き残った。俺はあの化け物どもを、自分の機転で出し抜いてみせたんだ!
どれほど走っただろうか。
背後の騒音が完全に遠ざかり、再び元の、カビと古書の匂いが満ちる静寂の回廊へと戻ってきた頃、俺は激しい息切れと共に壁に背中を預けた。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
マスクを引き剥がし、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込む。
だが、その安堵は一瞬で吹き飛んだ。
「――静かに。まだ、近くに【マダム】の縄がいるわ」
背後から、鈴の鳴るような、しかし冷徹に透き通った声が聞こえた。
「っ!?」
心臓が跳ね上がる。反射的に懐のナイフに手を伸ばそうとしたが、それよりも早く、俺の首元に「ひんやりとした鋼の感触」が押し当てられた。細身の、しかし鋭利な短剣だ。
ゆっくりと首だけを動かし、声の主を見る。
そこにいたのは、俺と同じように黒いフード付きの夜着に身を包んだ、一人の**少女**だった。
フードの隙間から覗くのは、闇の中でも怪しくきらめく、濡れたような漆黒の髪。そして、強い意志を宿したアメジスト色の瞳。彼女の華奢な体躯からは想像もつかないほど、無駄のない洗練された殺気が放たれている。
「……あなた、今さっきデコイで処刑人の目を眩ませて、館長の突進で瓦礫を作ったの? 正気の沙汰じゃないわね」
少女は短剣を突きつけたまま、値踏みするように俺をじっと見つめてくる。その視線には、警戒とともに、明らかな「驚き」が混ざっていた。
「生きているウォーカーに会うのは久しぶりよ。……それともあなた、もう記憶を抜かれた『歩く生ゴミ』かしら?」
皮肉めいた笑みを浮かべる彼女の腰には、この地下書館のモノではない、高度な魔導鍵の束がジャラジャラと揺れていた。
死体しか転がっていないこの地獄の底で、平然と息を潜めている、謎の同業者。
退学危機の少年と、孤高の専門職。
暗闇の書館で、二人のウォーカーの運命が、最悪な形で交錯した。




