第4話:リベンジ(前編)
真夜中の時計塔。その地下へと続く隠し扉を開けた瞬間、カビと、古びた羊皮紙と、そして微かな血の匂いが混ざり合った、特異な「深淵の空気」が俺の鼻腔を突いた。
(戻ってきた……。イグノタフの秀才があれだけ顔を青白くさせていた場所に)
名門イグノタフ家といえば、この学びの街でもトップクラスの魔導名門だ。そんな家の跡取りですら、昨夜はここで何かに襲われ、ボロボロの袖を引きずって職員室で青ざめていた。あいつが館長に捕まって記憶を抜かれたのか、それとももっと最悪な目に遭ったのかは分からない。だが、今の俺の胸にあるのは恐怖だけじゃない。脳みそをスッカラカンにされたことへの泥臭い反骨心。そして、闇市で仕入れた「武器」の重みが、俺の心臓をかつてないほど激しく、熱く脈打たせていた。
衣服はすべて黒。口元をマスクで覆い、俺は静かに、見上げるほどに巨大な地下書館の回廊へと足を踏み入れた。
天井は遥か高く、闇に溶けて見えない。そこから鎖で吊り下げられた無数の真鍮製のランタンが、生き物のように微かに揺れ、床に長く不気味な影を落としている。幾千、幾万もの古書が詰め込まれた黒檀の本棚は、まるで侵入者を拒む巨大な墓標のようだ。
ギギギ……。
静寂を引き裂く、嫌な金属音が響く。
通路の角にある『意思を持つランタン』が、不気味にレンズを蠢かせ、こちらへその邪悪な光彩を向けようとした。昨日なら、ここで恐怖に足をすくませ、ただ祈るように本棚の影に縮こまるしかなかった。
「――お前のタイミングは、俺の『身体』が覚えてる」
脳の記憶にはない。だが、心拍数が跳ね上がる直前の「間」を、皮膚が記憶していた。
俺は流れるような動作でカバンから『幻惑のデコイ』を取り出し、ランタンとは真逆の通路へと放り投げた。
パシャリ。デコイが起動し、万華鏡のような極彩色の魔導光が放たれる。ランタンのレンズが「!」と引き寄せられるように、そのダミーの光へと釘付けになった。
(今だ――!)
足音を消す靴底のおかげで、踏み出す一歩は完全に無音だ。俺は低く、地を這うような姿勢のまま、ランタンの死角を影のようにすり抜けた。本能が、最適な逃走ルートを、障害物の位置を、勝手に選択していく。この極限状態のスリルが、逆に頭を冷徹に冴え渡らせていくのを感じた。
しかし、地下書館の防衛機構は、昨日と同じほど甘くはなかった。
角を曲がった瞬間、俺の足がピタリと止まる。呼吸すら止まった。
パシャ、パシャ……。
突如、前方から、静寂に似合わない奇妙な「水音」が響きてきたのだ。
見ると、重厚な絨毯が敷かれているはずの床一面が、いつの間にか**鏡のように透き通った『水面』**へと変化している。
どこまでも透明な水。だが、その底に沈んでいるのは床ではなく、**天井の本棚やランタンが上下逆さまに映り込んだ『反転した世界』**だった。
(なんだこれ……。昨日、こんなのあったか!?)
冷や汗が、額からマスクの内側へと伝い落ちる。
迂回路はない。足を一歩でも踏み入れれば、無音の靴底だろうと波紋が広がり、音が鳴る。一発で終わりだ。進むことも退くこともできない絶望感が、じわじわと足元から這い上がってくる。
その時、ポケットの『直線感知器』が、ジジジ……と小さく、しかし不吉に震え始めた。
(嘘だろ、まだ音は立てていない。なのに、何かが来る……!)
カツン、カツン、カツン。
重苦しい、金属が擦れ合うような足音。
館長のそれではない。マダムの無音の接近でもない。
水面の向こう、濃密な闇の帳を押し広げるようにして、それは姿を現した。
巨大な、漆黒の鉄の甲冑を纏った騎士の亡霊。
頭部があるべき場所には顔がなく、代わりに錆びついた巨大な「天秤」が、左右に不気味に揺れている。その右の手には、引きずられるようにして、血の滴るような巨大な大剣が握られていた。
書館の第三の刺客――【処刑人】。
「ア……、ガ……」
甲冑の隙間から、ドロリとした怨嗟の声が漏れる。処刑人はその虚ろな首を傾げ、目の前に広がる『水面の床』をじっと見つめた。
その時、処刑人が歩いてきた背後の通路が、水面にシンメトリーに映り込む。
それを見た瞬間、俺の喉の奥からヒッと情けない悲鳴が漏れそうになった。
処刑人が通ってきた道――そこには、無惨に新しく真っ二つに両断された、見知らぬ「先客」の死体が転がっていた。
どす黒い血が、鏡のような水面を汚しながらじわりと広がっていく。まだ息絶えて間もないのだろう。死体が背負っていたカバンからは、盗掘しようとしたのであろう数冊の古書が虚しく床に散らばっていた。
(本当に……殺される。館長に捕まれば、その夜の記憶と経験を抜かれてリセットされるだけで済む。だけど、あの化け物に捕まれば、あそこに転がってる奴みたいに、文字通り『終わり』なんだ……!)
イグノタフの秀才が職員室で生きていたのは、ただの幸運、あるいは館長のエリアで捕まったからに過ぎない。この地下書館の深淵には、本物の『死』が徘徊している。
ゴト、ゴトリと、処刑人の頭部の天秤が不吉な音を立てて傾く。水面に映る死体の血を吸い上げるように、大剣の刃が妖しく赤黒く脈打った。この水面の床は、上に立つ者の姿を映し出す『視界の罠』だ。隠れているつもりでも、水面に自分の影が少しでも映り込んだ瞬間、あの刃が空間ごと俺を両断する。
ジジジジジジジ!!!
突如、ポケットの直線感知器が、千切れんばかりに激しく、狂ったように振動した。
(――ひっ!?)
身体のトラウマが、脳髄に警報を鳴らす。
処刑人の出現に呼応するように、別の通路の奥から、あの最凶の老紳士――【館長】が、本棚を、壁を、あらゆる障害物を塵にしながら、最短の直線距離でこちらへ向かって猛突進してきているのだ。
轟々と、空間が鳴動する音が近づいてくる。
正面には、先客を惨殺したばかりの、触れれば即死亡の大剣を構える【処刑人】。
背後からは、すべてを粉砕して迫り、記憶と経験を貪り食おうとする【館長】。
完璧に対策を練ったはずのリベンジマッチは、開始早々、昨日以上の絶対絶命の挟み撃ちへと突入していた。
逃げ場はない。思考を止めれば、次の瞬間には命を奪われるか、またすべてを失うか。
(ふざけるな……。二度も、負けてたまるか……!)
恐怖で角材のように硬直する脚に、俺は思い切り拳を叩きつけ、正面の『処刑人』を鋭く睨み据えた。




