第3話:本能の設計図
「……おい、お前。さっき、なんて言った?」
すれ違いざま、俺の口から漏れた言葉を聞き咎めたのだろう。
足を止めた秀才様が、鋭い視線をこちらに投げかけてきた。いつも通りの余裕に満ちた笑みは完全に消え、その瞳には明らかな動揺と、刺すような警戒が宿っている。
「いや、別に? 『地下書館』って言っただけだけど」
俺がとぼけて見せると、彼は小さく息を呑み、制服のボロボロになった袖口を咄嗟に背後へ隠した。
「……何のことだかさっぱり分からないな。そんなお伽噺のような名前を、この僕の前で口にしないでくれ。不愉快だ」
それだけを早口に言い残し、彼は逃げるように職員室へと去っていった。
(間違いない。あいつも『あそこ』にいたんだ)
確信が、背中をゾクゾクと駆け上がっていく。
脳の記憶は確かに消されている。昨夜の出来事を鮮明に思い出すことはできない。しかし、俺の右手が覚えている「右からページをめくる癖」、焦げた俺の制服の裾、そしてあいつの噛みちぎられた袖。
それらすべてのピースが、一つの答えを指し示していた。
俺たちは昨夜、あの地下空間で何かから必死に逃げ、そして捕まり、記憶を奪われて追い出されたのだ。
「……だったら、もう一度行くしかないだろう」
首の皮一枚で繋がった退学の危機。だが、次のテストは一ヶ月後に迫っている。今回のような「奇跡の3点加点」が次も起きる保証なんてどこにもない。
それに何より――何もかも奪われて「なかったこと」にされたままでいるのが、猛烈に悔しかった。
学校からの帰り道、俺は吸い寄せられるように、街の最も寂れた裏路地へと足を向けていた。
色褪せたレンガ造りの建物の地下。怪しげな紫色のランタンが灯る、通称『闇市』。
(なぜ、ここに来ちまったんだろ……)
自分でも理由が分からない。ただ、身体が「ここに行け」と急き立てるような、奇妙な焦燥感があった。
「おい、そこの坊主。いいものがあるぜ」
顔をベールで隠した露天商の老人が、しわがれた声で俺を呼び止める。
その台の上に並べられていた、出所不明の怪しげな道具の数々を見た瞬間――俺の心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。
「これは『幻惑のデコイ』だ。意思を持つ警戒ランタンの視線を、三秒だけ逸らすことができる」
老人が手元でそのデコイのスイッチを入れた瞬間、パッと怪しい光が放たれた。
その光を見た瞬間、頭の奥でガチリと何かが噛み合う。
(――ひっ!?)
脳の記憶としては何も思い出せない。誰と戦ったのか、どこへ行ったのかは、霧がかかったように真っ白なままだ。
なのに、身体が、その「怪しい光」に対して異常なまでの恐怖と、それを避けるためのステップの踏み方を、防衛本能として鮮烈に拒絶反応を起こした。
(……動け。光を見たら、本棚の影に滑り込め……!)
脳を介さない、脊髄反射の警報。俺の身体は、確かにあの光の罠を経験している。
「これ、これをくれ。……あと、そっちの、その方位磁針みたいなやつは?」
俺が震える指で指差したのは、小さな黒い魔導具だった。
「ほう、目が高い。それは『直線感知器』だ。周囲の空間で、壁をも貫通して『直線的に突進してくる』ような異常な高エネルギー体を感知すると、激しく振動して危険を知らせてくれる」
――直線。壁の貫通。
そのキーワードが老人の口から出た瞬間、今度は背筋にゾッと冷水がかけられたような悪寒が走った。
頭の中に直接、歪んだ残像が強制スクロールされる。
顔は分からない。名前も知らない。だけど、あらゆる障害物を無視して、自分を目がけて「最短距離(直線)」で爆速で迫ってくる、あの世のモノではない圧倒的なプレッシャーの『圧』。 その恐怖の感覚だけが、心臓を直接握り潰すように蘇ってきた。
(……あいつが、来る。直線で、俺を殺しにくる……!)
記憶は消されても、魂に刻まれた「死の恐怖」までは消しきれなかったのだ。
これらは、失われた記憶のパズルを解くための、唯一のヒントだった。
「これと、これもくれ! 頼む!」
俺は昼の善行で得たわずかなお小遣いと、貯金を全て叩き、それらの道具をひったくるようにして買い揃えた。
自分の部屋に戻り、夜が更けるのをじっと待つ。
カチ、カチ、カチと、部屋の時計が深夜零時を告げた。
俺は再び、黒いフード付きの衣服に身を包み、口元をマスクで覆う。
カバンの中には、本能の恐怖が求めた『幻惑のデコイ』、そしてポケットには『直線感知器』。
昨夜は何も知らずに飛び込んだ。だが、今の俺には脳の記憶を超えた「身体の警戒心」と、それを補う「対策の道具」がある。
「待ってろよ……。今度こそ、あの場所の正体を暴いてやる」
鏡に映る自分の目は、昨日よりもずっと鋭く、戦う者のそれに変わっていた。
少年は静かに窓を開け、再び夜の街へと滑り出した。
失われた記憶を取り戻すため。そして、理不尽なリセットへの、本当のリベンジを始めるために。




