第2話:空っぽの頭と、消えない違和感
ジリリリリリリリリ!!!
大音量のアラームが脳を揺らし、俺はベッドから跳び起きた。
「はっ……!?」
全身に冷や汗をかいている。心臓がうるさいほどに早鐘を打っていた。ひどい悪夢を見ていた気がする。青白い目をした老人に、どこまでも追いかけられるような、そんな悍ましい夢。
だが、驚くほどに頭はスッキリしていた。……いや、スッキリしすぎている。
「待て、今日のテスト範囲……どこだっけ」
机の上に広げられた魔導史の教科書を見る。文字が、全く頭に入ってこない。
昨夜、夜通し必死に勉強した記憶はあるのだ。なのに、肝心の中身が1ミリも思い出せない。まるで、記憶の引き出しごと綺麗に盗まれたかのように、脳みそがスッカラカンだった。
「やばい、遅刻する……!っていうか、何も覚えてない!!」
俺は制服に着替えると、カバンをひったくるようにして部屋を飛び出した。
時計塔の針は無情にも進む。
通学路を猛ダッシュしていると、前方の路地裏で、下級生が召喚に失敗したらしい『暴走気味の火炎トカゲ』が暴れているのが見えた。周囲の生徒たちが遠巻きに怯えている。
「チッ、どいつもこいつも足止めしやがって……!」
普通なら無視して走り去るところだが、火炎トカゲが今にも民家の洗濯物に飛び移りそうだった。俺は走りながら足元の石ころを拾い上げ、トカゲの鼻先に思い切り投げつける。
「こっちだ、トカゲ野郎!」
見事に命中。激昂して俺に向かって突進してくるトカゲ。俺は一瞬だけ立ち止まり、タイミングを合わせて制服の上着を闘牛士のように翻した。トカゲは上着に突っ込み、そのまま路地の水溜まりへと突っ込んで「ジュッ」と鎮火した。
「よし、これでよし! 待ってろよテストォォ!」
再び全速力で走り出す。自分の上着の裾が、トカゲの爪で少しだけ焦げたような気がしたが、気にする余裕はなかった。
教室に滑り込んだのは、予鈴が鳴る一分前だった。
「ふん。相変わらずみっともないな」
席につくやいなや、冷ややかな声が降ってきた。
隣の席の秀才――イグノタフ家の男が、優雅に魔導史の参考書をめくりながら俺を見下している。いつも通り、反吐が出るほど完璧な「昼の顔」だ。
「うるせえ。お前こそ、鼻血出すまで勉強しすぎんなよ」
言い返してはみたものの、配られた問題用紙を開いた瞬間、俺の視界は本当に真っ白になった。
問一から問十まで、文字の羅列が全て古代の暗号にしか見えない。完全な赤点。即退学の二文字が、脳裏をぐるぐると駆け巡る。
(終わった。本当に終わった……)
シャーペンを握る手が震える。諦めて名前だけを書き、机に突っ伏そうとした、その時だった。
『問四:第三期魔導革命において、魔導書『橙の夜』が果たした役割を述べよ』
その問題の文字を見た瞬間。
俺の右手が、自分の意志とは無関係にピクリと勝手に動いた。
それは、まるで「本のページを右からめくる」かのような、奇妙な指の動き。
(……え?)
脳に知識はない。何を隠そう、この『橙の夜』なんて教科書で見た記憶すらない。
なのに、ペンを握る指先が、なぜかねっとりとした「オレンジ色の光」の残像を覚えているような、強烈な錯覚に襲われた。
『――右から読めば、祝福』
どこからか、自分の声のような囁きが脳内に響く。
直後、理由はわからないが、「この問題の答えはこれだ」という絶対的な直感が降ってきた。
手が勝手に動く。恐ろしいほどの流暢さで、ペンが答案用紙に呪文のような正解を書き込んでいく。
(な、なんだこれ……!? 身体が、答えを知ってる……?)
しかし、奇跡はそこまでだった。
他の問題に対しては、俺の右手はぴくりとも動かなかった。
数時間後。放課後の教室で戻ってきた答案用紙には、案の定、真っ赤な数字が踊っていた。
【28点 / 100点】
「……うん、知ってた」
赤点。すなわち、一発退学ラインだ。
周囲の生徒たちが「あいつ、マジで退学かよ……」とヒソヒソと囁き合っている。隣の席の秀才は、俺の点数を一瞥すると、「哀れだな」とだけ吐き捨てて教室を出て行った。
「――おい、職員室へ来い」
担任の苦虫を噛み潰したような声が響く。
ついに宣告の時が来た。俺はガタガタ震える膝を必死に押さえながら、トボトボと職員室へ向かった。
職員室の重い扉を開ける。担任はデスクに俺の答案用紙を置き、深くため息をついた。
「お前の今回の点数だがな。校則通りにいけば、本日をもって一発退学だ」
「……はい」
「だが、お前は運が良い。……いや、日頃の行いが良いと言うべきか」
担任が、一枚の別紙を取り出した。そこには『査定委員会・報告書』と書かれている。
「今朝、登校途中に暴走した火炎トカゲを、機転を利かせて被害なしで鎮火させた生徒がいるな? 近隣の住民から、感謝の魔導通信が届いている。我が校の校訓は『徳を高める』だ。査定委員の判断により、お前には【特別品行加点】として、一律3点が付与される」
「……え?」
「合計、31点。我が校の赤点ラインは30点以下だ。つまり――」
担任がニヤリと笑った。
「おまけで、ギリギリ合格だ。命拾いしたな」
「さ、3点……! 生き残った、生き残ったぞォォォ!」
危うくその場で踊り狂いそうになるのを抑え、俺は何度も頭を下げて職員室を飛び出した。首の皮一枚、繋がった。神様ありがとう。今朝のトカゲもありがとう。
「ふぅ……」
廊下に出て、ようやく深く息を吐き出す。腰が抜けそうだ。
その時、向こうから、さっき俺を鼻で笑ったあの秀才が歩いてくるのが見えた。なぜか彼も職員室に向かっているようだが、その顔はどことなく青ざめていて、いつもの余裕がない。
「……?」
すれ違いざま。俺の目は、彼の右腕に吸い寄せられた。
彼の制服の袖口。
そこは、何か鋭い牙を持つ猛獣に、バリバリと噛みちぎられたかのように、酷くボロボロに引き裂かれていた。
――キャンッ! キィィン!!
「っ――!?」
それを見た瞬間、俺の頭の中に、激しい頭痛とともに『音』が響いた。
闇の中から響く、無数の犬の遠吠え。
そして、その奥から、障害物を全てすり抜けて突進してくる、青白い眼光の老紳士。
(待てよ……俺は昨夜、あのボロボロの袖のあいつと、どこか深い闇の中にいたんじゃないか……?)
脳の記憶は消されている。
だが、焦げた俺の制服の裾と、ボロボロになったあいつの袖口が、何よりの証拠だった。
「……地下書館」
口をついて出たその言葉。
記憶をなくした俺の魂が、あの暗闇へのリベンジを求めて、激しく疼き始めていた。




