第4章・第19話:狂った遠近感と、樹海を舞う影
「えっ……歩いて三日、ですか?」
境界街グリーン・フォールの木造のプラットホーム。
トランクを手にしたシエルは、信じられないものを見るような目で、列車の車掌を凝視した。
「ええ、そうですとも。ここからあの巨樹の根元にあるメインストリートまでは、整備された街道を通っても、大人の足で丸三日はかかりますよ」
車掌は汗を拭きながら、当たり前のように答えた。
その言葉に、バルドが目を丸くして頭上の巨樹を指差した。
「おいおい、冗談だろ? あんなにすぐそこに見えてるじゃねえか。どう見ても歩いて数時間の距離だろ?」
「ははは! 初めてここへ来た旅人は、皆そう仰るんですよ」
車掌は朗らかに笑い、天を覆い尽くすほどの世界樹を見上げた。
「あの『巨樹』は、あまりにも規格外に大きすぎるんです。だから、すぐ近くにあるように錯覚してしまう。実際には、ここからまだ何百キロも先なんですよ。……お気をつけて。日が暮れると、この密林は凶悪な毒虫のテリトリーに変わりますからね」
車掌は言い残すと、列車の発車準備へと戻っていった。
残された二人は、駅の出口から続く鬱蒼とした密林の街道と、遥か彼方にそびえ立つ巨樹を交互に見比べた。
「……プロウォーカーの空間認識能力(目)を狂わせるほどのスケールだなんて。まさに『絶対魔境』の名に恥じないわね」
シエルは深いため息をつき、気を取り直すようにトランクの持ち手を強く握った。
「文句を言っても縮まらないわ。行くわよ、バルド。まずは日没までに、安全に野営できるポイントを見つけないと」
「おう! ま、三日のハイキングと思えば悪くねえさ。行くぞ、お嬢!」
――それから数時間後。
「ハァ……ハァ……。暑い……そして、湿気がまとわりついて気持ち悪いわ……」
シエルは汗で額に張り付いたアメジストの髪を鬱陶しそうに払い、重い足取りで密林の街道を進んでいた。
日差しは大天蓋に遮られて直接届かないものの、密林特有のサウナのような蒸し暑さが体力を容赦なく奪っていく。さらに、四方を囲む巨大なシダ植物や奇妙な色の花々が、常にむせ返るような甘い匂いを放っていた。
「おいおい、お嬢。まだ半日も歩いてねえぞ。ほら、水分取れ」
バルドが水筒を差し出す。彼は大汗をかきながらも、持ち前のスタミナで全く堪えた様子を見せていない。
「……ありがとう。でも、バルド、気づいてる? 私たち、さっきから結構なペースで歩いてるはずなのに……」
シエルは水筒を受け取りながら、前方を見上げた。
木々の隙間から見える『巨樹』の姿は、駅を出た時から全くと言っていいほど大きさが変わっていないのだ。
「ああ。歩いても歩いても近づいてる気がしねえ。これが遠近感のバグってやつか。精神的にクルものがあるな」
二人が足を止め、狂った遠近感に辟易していた、その時だった。
――シャシャシャシャァァッ!!
突然、頭上の木々の葉擦れ音が異常なほど激しく鳴った。
ただの風ではない。何か巨大な質量が、樹上を滑るように移動している音だ。
「お嬢、上だ!!」
バルドが咄嗟にシエルを背後へ庇い、背中のスパナを引き抜く。
直後、二人の頭上数十メートルの枝から、太さ一メートルはあろうかという巨大な『紫色の毒蛇』が、大口を開けて弾丸のように降ってきたのだ。
「――っ! シールド展開!!」
シエルが銀色の魔導鍵を抜こうとした、まさにその瞬間だった。
「――そこよっ!!」
凛とした、しかしどこか幼さの残る少女の声が密林に響き渡った。
同時に、別の木の上から小柄な影が、毒蛇の落下軌道めがけて恐ろしい速度で飛び出してきた。
少女は手にした『巨大なブーメランのような魔導具』を隣の木の太い枝へ向けて投擲する。その先端には、緑色の光を帯びた強靭な**『跳躍蔦』**が繋がっていた。
「ハアアアッ!!」
蔦の驚異的な伸縮性と風の魔力を利用し、少女は空中でペンデュラム(振り子)のように凄まじい遠心力を生み出した。
そして加速した少女の踵が、落下してくる巨大な毒蛇の脳天に、完璧なタイミングで激突した。
ドゴォォォォンッ!!!
空中で脳を激しく揺らされた毒蛇は、白目を剥いて軌道を逸らし、シエルたちの数メートル横の地面へと激しく叩きつけられた。ドス黒い血を吐き出し、二度と動かない。
「……えっ?」
シエルが呆気にとられていると、少女は手元のリールを巻き取って蔦を回収し、ふわりと地面に着地した。
そこに立っていたのは、民族衣装のような軽装に身を包んだ、日に焼けた肌の少女だった。
年齢はシエルより少し下、十六、七歳といったところだろうか。腰には密林の蔦と風の魔導を組み合わせた『滑空装備』と、幾つもの小さなナイフを帯びている。短い新緑色の髪の間からは、猫のように警戒心の強い琥珀色の瞳がこちらを覗いていた。
「あーあ。間抜けに立ち止まってるから、『幻覚蛇』の格好の的になるのよ。よそ者さんたち」
少女は倒れた毒蛇をブーツのつま先でツンツンと小突きながら、腰に手を当てて呆れたようにため息をついた。
「おい、嬢ちゃん。今の動き……随分と身軽じゃねえか。助かったぜ」
バルドが警戒を解いてスパナを下ろすと、少女はフンと鼻を鳴らした。
「別に助けたわけじゃないわ。こいつの牙が高く売れるから狩っただけ。……それよりアンタたち、まさか歩いてあの『空中都市』まで行く気?」
少女が巨樹を指差して問う。
「ええ、そのつもりだけど。何か問題でも?」
シエルがプロウォーカーとしてのプライドから少しツンケンして答えると、少女は腹を抱えて笑い出した。
「あはははっ! やっぱり! 狂った遠近感に騙された、何も知らない『迷い人』ね! 歩いて三日? そんなの、街道の途中で毒の霧に巻かれてミイラになるのがオチよ!」
「なっ……! ちょっと、失礼ね! 私はこれでも天才プロウォーカー――」
「プロでも何でもいいけどさ。この密林じゃ、頭上の枝を伝えない奴はただの餌よ」
少女はシエルの言葉を遮り、腰の『跳躍蔦』のリールをポンポンと叩いた。
「アタシはティオ。この森の空を渡る『樹冠の案内人』よ。……どう? 命が惜しかったら、アタシがアンタたちを『巨樹の麓』まで、最速の空の道で案内してあげようか?」
琥珀色の瞳を悪戯っぽく輝かせながら、ティオと名乗った少女は不敵に笑いかけた。
果てしない密林の道中。
シエルとバルドの前に現れたのは、巨樹の空を知り尽くした、俊敏で少し生意気な現地の少女だった。




