第4章・第17話:赤銅の夕暮れと、零れ落ちた本音
隠し扉の奥に続いていた『管理者用のメンテナンス通路』は、人一人がようやく通れるほどの狭く息苦しい螺旋階段だった。
カビとヘドロの悪臭が充満していた旧水路とは異なり、この空間は完全に乾燥している。舞い上がる何百年分もの細かい土埃に時折むせながら、シエルとバルドはただひたすらに上を目指して歩みを進めていた。
「ハァ……ハァ……。この階段、一体どこまで続いているのよ……」
シエルは額に滲んだ汗を手の甲で拭い、大きく息を吐き出した。
激しい戦闘と魔力行使の直後の身体に、この果てしない登り階段は酷に応える。手に持った照明用魔導石の青白い光だけが、暗闇の中で唯一の道標だった。
「文句を言うな、お嬢。あのまま滝壺の中でイグノタフの連中と泥仕合をするよりは、遥かにマシだろ。……ほら、もうすぐ頂上だぜ」
バルドがシエルの背後から声をかける。彼の言葉通り、螺旋階段のさらに上方に、四角く切り取られた僅かな光の隙間が見えてきた。
シエルは最後の力を振り絞って階段を駆け上がり、天井を塞いでいた錆びた鉄のハッチに両手をかけた。
「――事象解除!!」
『銀色の魔導鍵』を突き立てて長年の錆による固着を強制解除し、バルドが真鍮の義手で力任せにハッチを押し開ける。
ギギィィィンッ! という重い金属音と共に、強烈な光と、熱を帯びた乾いた風が一気に二人の顔を打った。
「っ……眩し……」
シエルが目を細めながら地上へと這い出ると、そこはアイアン・サントの町外れに放棄された、高いレンガ造りの『旧給水塔』の屋上だった。
見渡す限りに広がるのは、息を呑むほどに美しい、あるいは暴力的なまでの夕景だった。
地平線へと沈みかけている巨大な太陽が、砂漠全体を血のように深い赤銅色に染め上げている。風が吹くたびに砂塵が舞い上がり、夕日に照らされてキラキラと黄金色に輝きながら流れていく。
眼下には、蒸気と魔導の入り混じるアイアン・サントの町並みが、夜に向けて無数の青緑色のランプを灯し始めていた。
「……すごい。まるで、世界中が燃えているみたいね」
シエルは乱れたアメジストの髪を夜風にそよがせながら、屋上の縁に立ってその雄大な景色に見入った。
「おう。砂漠の夕焼けは何度見ても飽きねえな。……そんで、戦利品は無事か、お嬢?」
バルドが隣に並び立ち、真鍮の右腕の歯車をカチリと鳴らす。
「ええ、もちろんよ」
シエルは懐から、先ほど地下の『白亜の星室』で手に入れたばかりの『3つ目の金の鍵』を取り出し、夕日の中へと高く掲げた。
純金で造られた意匠の先端に埋め込まれた、大粒のアクアマリン。
それが赤銅色の夕焼けの光を透過し、砂漠の景色の中に、オアシスのような清らかで美しい青色の輝きを落としている。
「これで残り四つ。イグノタフの特務部隊に先を越される前に回収できたのは、本当に大きなアドバンテージだわ」
「ああ。お嬢のあの容赦ない鉄砲水と氷のハメ技コンボ、最高に痺れたぜ。流石は俺の相棒だ」
バルドが豪快に笑い、シエルの肩を軽く叩く。シエルも得意げに「当然でしょ」と胸を張った。
「さあ、余韻に浸っている時間はないわ。まずは町の『魔導通信局』に向かいましょう。王都のレインたちに、この鍵の回収報告と情報のすり合わせを行わなきゃ」
「おう。腹も減ったし、通信が終わったら、またあの屋台の串焼きで祝杯といくか!」
二人は給水塔の屋上から町へと続く外階段を下り、夕闇が迫るアイアン・サントの喧騒の中へと戻っていった。
街の中央広場から少し外れた場所にある『魔導通信局』。
巨大なパラボラアンテナと、無数の真鍮パイプが建物の外壁を這うように設置されている、無骨な施設だ。
シエルは受付の男に銀貨を弾んで『最高秘匿回線用の個室』を借り切ると、重厚な防音扉を閉ざし、部屋の中央に鎮座する通信用の魔導コンソールと向き合った。
「……波長、王都第一魔導学園、特待生専用裏回線へ。暗号化プロトコルを展開」
シエルの指先が、複雑なダイヤルとスイッチを流れるような速度で弾いていく。彼女のアメジストの瞳が、冷徹なハッカーの光を帯びて盤面の魔力波形を睨みつける。
ピーッ、ガガ……ジジジ……。
数千キロという途方もない砂漠と山脈を越え、魔力通信のノイズが部屋に響く。
数秒の長い沈黙の後。
『――よぉ。大天才プロウォーカーさん。随分と早い定時連絡じゃねえか。そっちでもまた、もやしパンでも齧って泣いてたのか?』
ノイズ混じりのスピーカーから響いたのは、ひどく聞き慣れた、憎たらしいほどに余裕のある少年の声だった。
「レイン!」
シエルは思わず通信機に身を乗り出したが、すぐに「こほん」と咳払いをして、プロウォーカーとしての澄ました顔を取り繕った。
「ふん、誰が泣くもんですか。あんたが『どうせシエル一人じゃ何もできないだろうな』なんて見当違いな心配をしてるかと思って、わざわざ通信してあげたのよ」
『はっ、言ってくれるぜ。で? 声のトーンからして、お宝は無事に拝めたんだろうな』
「ええ。イグノタフの特務部隊の先遣隊数十人を、地下水路ごと丸洗いにして『3つ目の金の鍵』を回収したわ」
シエルが誇らしげに報告すると、通信の向こう側で、レインが「ぶふっ」と噴き出す音が聞こえた。
『おいおい、一人で一部隊を水没させたのかよ。相変わらず環境を利用した悪辣なハメ技は健在だな。……怪我はねえか?』
「ないわよ。私にはバルドっていう、あんたより遥かに素直で頑丈な『最高の前衛』がいるもの。……そっちこそ、王都の状況はどうなの? エレナの風紀委員の仕事、サボって邪魔したりしてないでしょうね?」
シエルの少しだけトゲを含んだ探りに、レインは通信越しに低く笑った。
『こっちはこっちで、クソみたいなメインシナリオの真っ最中だ。カイルの野郎が完全に記憶を取り戻して、実家の偽親父を玉座から引きずり下ろすための証拠をぶっこ抜いてきた。……これからが、王都の闇をひっくり返す本番だぜ』
「……カイルが? そう。やっぱり、あの地下書館の『真実の碑文』に、あいつの実家のシステムが直結していたのね」
シエルは、王都でレインと共に立ち向かったあの巨大な地下書館の死闘を思い出し、表情を引き締めた。
『ああ。エレナも情報ギルドのネットワークを裏から牽制して、俺たちの追っ手を散らしてくれてる。全員、盤面で自分の仕事を完璧にこなしてるぞ。……だから、お前はこっちのことは気にせず、自分の旅に集中しろ』
レインの声は、遠く離れた砂漠の夜にあっても、すぐ隣で背中を預け合っているかのような確かな熱量を持っていた。
「……言われなくても、そのつもりよ。次の目的地『4つ目の金の鍵』の場所は、そっちのデータベースで特定できてる?」
『ああ。今回回収した鍵の魔力波長と、学園の古文書の照合が完了してる。次は、大陸の南東――密林の奥深くにある【巨樹の空中都市】だ。そこにある『神鳥の巣』に、次の鍵が隠されてる可能性が極めて高い』
「南東の密林ね。了解したわ。明日、朝一番の砂上列車でアイアン・サントを発つわ」
シエルは通信機の前でメモを取り、情報を頭に刻み込む。
『シエル。……向こうのエリアは、砂漠とは全く環境が違う。毒のトラップや、立体的な立体機動のギミックが山盛りだ。足元をすくわれないように気をつけろよ』
「だから、心配無用よ。私は天才なんだから。……レインこそ、バレンシュタイン家の女の子たちに鼻の下伸ばして、背後から撃たれたりしないでよね」
『誰が撃たれるか。じゃあな、相棒。また次のポイントで連絡しろ』
「ええ。じゃあね、相棒」
プツン、と通信が切れ、部屋の中に再び静寂が戻った。
魔導通信機の回線が完全に切れ、ブツリという無機質なノイズだけが残る。
シエルは残照の消えかけた通信局の個室で、ただ一人、魔導コンソールの前に座り込んでいた。
先ほどまで、あんなに自信満々に、レインに対して「あんたなんて必要ないわ」と言わんばかりの態度で強がっていたのに。
回線が繋がっている間は、レインの軽口に対していかに鋭いカウンターを食らわせるか、ということばかりを考えていた。彼に少しでも「シエルがいなくて寂しい」なんて思わせる隙を与えたくなかったし、自分自身も「レインがいなくて心細い」なんて認められなかったから。
でも、いざ通信が途切れて、スピーカーから彼の声が消えてしまうと――。
「……はぁ」
シエルは自分自身でも驚くような、深く、小さなため息を漏らした。
部屋の中には、もう誰もいない。窓の外に広がるアイアン・サントの町並みは、さっきまでの赤銅色から、今は深い藍色の夜へと変わりつつあった。
指先が微かに震えていた。
レインと話していた短い時間。彼が「自分たちの旅路」を当然のように「俺たち」と呼んでくれたことが、なぜか急に胸の奥をチクリと締め付けたのだ。
(……レインのバカ。いつもいつも、私のことなんて何とも思ってないみたいに平然と笑って……)
シエルは机に突っ伏し、アメジスト色の髪を広げて自分の頬を隠した。
誰にも見られないこの個室だからこそ、彼女は初めて、自身の内に隠していた「本当の感情」を少しだけこぼした。
「……寂しいじゃない、あんたがいなくて」
掠れた、自分でも驚くほど小さな声。
王都の学園でレインと共に書館を駆け回っていた日々。窮地に追い込まれた時、背中合わせで銃と魔導鍵を構えた時の、あの絶対的な安心感。
一人で未知の土地に降り立ち、初めてのトラブルを解決してはみたけれど、どこか心に穴が空いたような感覚がずっと消えなかった。
(……会いたい、なんて。言えるわけないじゃない)
たとえレインが、「寂しい」と言ってほしいような顔をしていたとしても。
シエルは、自分が「相棒」として彼に寄り添い、彼を導く存在でありたいと願っている。だからこそ、自分の弱さや恋慕なんて、今の自分には足枷でしかないと、そう自分に言い聞かせてきた。
でも、窓の外で輝き始めた一番星を見つめていると、どうしてもダメだった。
あの星の向こう側に、レインがいる。そう思うだけで、また胸がトクンと跳ねる。
「……帰ったら、絶対にあんたのその不敵な笑みを、今度は私がアンロックしてやるんだから」
シエルはふうっと頬を膨らませ、悪戯っぽく、でもどこか切ない笑みを浮かべて立ち上がった。
個室の出口へと向かう彼女の足取りは、先ほどよりも少しだけ軽やかだった。
(レイン。……あんたに会うまでは、絶対に無事で、最強のプロウォーカーでいてやるわよ)
それが、シエルなりの精一杯の「好意」の形だった。
「終わったか、お嬢? レインの坊主たちは元気そうだったか?」
防音扉を開けて外に出ると、バルドが壁に寄りかかって待っていた。
「ええ。あっちもあっちで、王都をひっくり返すような大暴れをしてるみたい。……負けていられないわね。次の目的地は南東の密林、『巨樹の空中都市』よ!」
シエルはトランクを力強く握り直し、アメジストの瞳を輝かせた。
屋台の串焼きの匂いが、夜の風に乗って鼻腔をくすぐる。バルドが待つ広場へと向かうシエルの瞳には、もう迷いはない。
遠く離れた相棒との絆を胸に、彼女はまた、地平線の向こうへ続く道へと一歩を踏み出した。




