第4章・第4話:おかみの優しさ
時計塔の暴走から一夜明けた『レイト・グリッド』の朝は、驚くほど穏やかな光に包まれていた。
空を覆う無数の真鍮パイプの隙間から、細い朝の光が差し込み、煤けた石畳を斑に照らしている。耳を澄ませば、いつも町中に響いていた不快な金属音や、いつ破裂するか分からなかった高圧蒸気の悲鳴はどこにもない。そこにあるのは、シエルが施した繊細な調整によって、サラサラと心地よく一定の脈動を刻む、穏やかな蒸気機関の駆動音だけだった。
大衆酒場『鉄錆と真鍮亭』の店内には、まだ昨夜の喧騒の名残であるウイスキーとスパイスの香りが微かに漂っている。シエルは、すっかりお気に入りになった「羊肉と根菜の蒸気オイルスープ」を最後の一滴まで木のスプーンで丁寧にすくい、ふぅ、と満足のいく息を吐き出した。冷えた身体が、肉の旨味とスパイスの熱で芯から温まっていく。
「――おい、お嬢。そいつを食い終わったらすぐ出るぞ。荷物はそれだけか?」
酒場の入り口の重い木の扉が開き、地響きのような低い声が響いた。
振り返ると、そこにはすっかり旅の支度を整えたバルドが立っていた。昨夜の油まみれのタンクトップ姿とは打って変わり、厚手の頑丈な防塵コートを羽織っている。その巨躯の背中には、数々の特注工具が詰め込まれているであろう重そうな革の袋が背負われており、その隙間から、彼が「相棒」と呼ぶ真鍮製の巨大なスパナが鈍い光を放っていた。
「準備ならとっくにできてるわよ。私の行動に無駄な時間なんて一秒もないわ」
シエルは椅子の脇に置いてあった、耐魔導コーティングが施された特注のトランクの端をぽんと叩いてみせる。
「ハッ、ならいい。出発前に、俺の右腕の駆動オイルの入れ替えと、街の予備バルブの最終点検を済ませてたんでな。……おかみ、長年世話になった。このツケは、世界を巡って大金持ちになったら一括で払いに戻ってくるわ」
バルドが不敵にニカッと笑うと、カウンターの奥から「フン」と大きく鼻を鳴らしておかみが姿を現した。その逞しい両手には、長年使い込んだフライパンではなく、油紙で丁寧に包まれた大きめの包みが握られている。
「調子のいいこと言ってんじゃないよ、この油まみれ。あんたがこの街からいなくなると、少しは静かになって清々するわ。うちの店のテーブルを叩き割った修理代、きっちり上乗せして請求書を書いておくからね」
おかみはそう毒づきながらも、カウンターを回り込み、その包みをバルドではなく、シエルの華奢な両手へとそっと手渡した。
「これは道中の食料さ。あの硬い黒パンと、特性の干し肉、それとスープに使ってた特製のスパイスを少しね。……お嬢ちゃん、このバカは腕とタイミングだけは確かだけど、時々頭のネジが緩んで力任せに無茶をする。現地で暴走しそうになったら、あんたのその優秀なハッキング技術で、こいつの右腕の動きを完全に止めておくれ」
「ええ、もちろん。いつでも動きを封じて、そこに置き去りにしてあげるわ」
シエルがいたずらっぽく笑うと、おかみの険しかった表情がふっと柔らかくなり、どこか遠い昔を懐かしむような目をシエルに向けた。おかみのエプロンの下に覗く、傷だらけの古い魔導コンパスが朝日にきらめく。
「……トランクを一つ抱えて、世界の果てを目指す。その姿を見てるとね、昔の自分を思い出して胸が熱くなるのさ。遺跡探索者の旅は、いつだって罠の突破と、未知の危険の連続だ。だけどね、お嬢ちゃん」
おかみはシエルの小柄な体つきをじっと見つめ、その細い肩に、優しく、だけど元ウォーカーとしての確かな魂を宿した手を置いた。
「どんなに強固な扉に遮られても、あんたの持つ『鍵』を信じるんだよ。世界中のどんな頑丈な障壁も、本当に守りたいものがある人間の意志までは閉じ込められない。……行ってきな、可愛いウォーカー。あんたの旅に、最高の幸運があることを祈ってるよ」
「……ありがとう、おかみさん。ここのスープの味も、おかみさんの優しさも、絶対に忘れないわ」
シエルは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、深く深く頷いた。王都を飛び出し、レインと別れて列車に乗った時は、世界にたった一人取り残されたような孤独の中にいた。けれど、この錆びついた蒸気の街で、彼女は確かに最初の「温かい味方」を見つけたのだ。
酒場を後にし、レイト・グリッドの駅へと続く緩やかな坂道を歩きながら、シエルはトランクの車輪を石畳に響かせ、隣を歩く巨漢のエンジニアを見上げた。歩くたびに、彼の右腕の真鍮パーツが**チチチ……**と心地よい精密な音を立てている。
「ねえ、バルド。あんたこの街のマスターエンジニアだったんでしょう? 次の『書館』の場所、どこにあるか見当はついてるの?」
バルドは歩みを止めず、コートの大きなポケットから一枚の古びた地図を取り出した。それは何度も折り畳まれ、端が擦り切れており、まるで一度水に濡れたかのような特有の滲みがあるものだった。彼の父親が遺したというその地図の最下部には、不思議な幾何学模様の刻印が押されている。シエルが懐に大切にしまっている『金の鍵』の文様と、驚くほど酷似した複雑な意匠だった。
「ああ、お嬢の持ってるその『金の鍵』と対になる次の場所は、ここから南へ三日ほど列車を走らせた先にある。――大陸の胃袋と呼ばれる、水上の都『アクア・ラビリンス』だ」
「水上の都……」
「そこには、数百年前に水没した旧時代の巨大図書館の残骸が、今も街の底に沈んでいるらしい。街全体が巨大な水路の迷路になっていてな。潮の満ち引きや複雑な水門の連動によって、侵入者を阻む水の仕掛けがこれでもかと張り巡らされているそうだ。親父のメモには、並のウォーカーじゃ入り口にすら辿り着けねえと書いてある」
バルドは立ち止まり、自身の機械義手をぐっと握りしめて見せた。琥珀色の瞳が、未知の挑戦を前にして獣のようにギラギラと輝いている。
「鉄と蒸気の次は、水と迷宮か。俺の真鍮の腕が錆びちまう前に、その大層な仕掛けとやらを拝みに行こうじゃねえか、お嬢」
「フン、水に沈んだ古い謎や仕掛けを解き明かすなんて、私の最も得意とする分野よ。あんたこそ、錆びた鉄屑になって足手まといにならないでね、バルド」
シエルはふっと不敵な笑みを浮かべ、アメジストの瞳を輝かせながら前方を指差した。
坂の向こう、鉄骨で組まれた駅舎のホームには、大きな汽笛を鳴らし、真っ白な煙を盛大に吹き上げる大陸横断列車が滑り込んでくるところだった。
眠れる兄の記憶を取り戻すため、そして世界に隠された暗号を解き明かすため。
少女とエンジニアの二人の旅路は、いま、次なる未知の舞台へとログインしようとしていた。




