第4章・第5話:水上都市アクア・ラビリンス
レイト・グリッドから列車に揺られること三日。
車窓を流れる荒涼とした岩肌と煤けた鉄の景色は、南へ下るにつれて次第に鮮やかな緑へと変わり、やがて視界のすべてを圧倒するほどの広大な藍色――海へと行き着いた。
「――おいお嬢、着いたぞ。寝ぼけてトランクを海に落とすんじゃねえぞ」
バルドの低い声に、シエルは窓に押し付けていた額を離し、パチリとアメジストの瞳を開けた。
駅のホームに降り立った瞬間、シエルの鼻腔を突いたのは、これまでの街にはなかった濃密な「潮の匂い」と、どこか冷ややかな水の気配だった。
そこは、大陸の胃袋と称される水上都市『アクア・ラビリンス』。
かつての大洪水によって半ば沈んだ旧時代の都市の上に、幾重もの石造りの橋と強固な水門を築き上げて作られた、迷路のような水の都だ。移動手段のほとんどは、網の目のように張り巡らされた水路を行き交う小舟であり、美しい白い石壁の建物の下層は、その多くが青い海水に浸かっていた。
「……綺麗。王都の人工的な噴水とは違って、街全体が生きている水槽みたいね」
シエルはトランクのハンドルを握り直し、珍しく素直な感嘆の声を漏らした。都会の喧騒から離れ、未知の美しい景色に少しだけ心を奪われていた。
「見とれるのはいいが、足元に気をつけな。この街の階段はどこも苔でツルツルだぞ」
バルドは大きな工具袋を肩に担ぎ直し、無骨な真鍮の義手を**チチチ……**と鳴らしながら、慣れない足取りで石畳を歩き出す。鉄と油の街で育った彼にとって、この湿気と水の匂いはどうにお落ち着かないらしい。
「フン、私を誰だと思ってるのよ。国内有数のプロウォーカーで――」
誇らしげに胸を張って一歩を踏み出した、まさにその瞬間だった。
濡れた石段に生えていた緑色の苔が、シエルの高級な革靴の底を見事に滑らせた。
「あ、――ひゃうっ!?」
およそ王都の天才らしからぬ情けない悲鳴が響く Lights。シエルは手足をバタつかせ、そのまま後ろ向きに階段を滑り落ちかけた。
「おっと、危ねえ!」
**ガシッ!と、バルドの無骨で巨大な左腕が、シエルの細い腰を空中でがっちりと受け止めた。
シエルのトランクが石段をゴロゴロ、ガシャン!**と派手な音を立てて転がり、水路の縁ギリギリでピタッと止まる。
「……っ~! つ、冷たっ……!」
シエルは真っ赤になってバルドの腕の中から飛び退いた。滑った拍子に水路のはね返りの水が、自慢のストッキングとスカートの裾を無惨に濡らしていた。
「ほら見ろ、言わんこっちゃねえ。お嬢、技術(腕前)は天才的でも、足元がお留守だな?」
バルドはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、転がったトランクをひょいと拾い上げてやった。
「う、うるさいわね! ガキ扱いしないで! 私はもう二十歳の立派なプロウォーカーよ! 今のは靴の摩擦係数と石畳の傾斜による不可抗力なんだからっ!」
シエルは耳まで真っ赤に染めながら、濡れたスカートをパタパタとはたき、怒った猫のようにツカツカと先を歩き出した。二十歳の大人の女性としてのプライドを傷つけられ、激おこである。また滑らないように、今度はものすごく慎重につま先に力を込めている。
二人は、水路に面した大通りから一本入った、傾いた石段をさらに下りていった。
目指すのは、バルドの父親の地図に記されていた、旧時代の巨大図書館――通称『沈んだ頁』への入り口だ。
「地図によれば、入り口はこの先にある『中央大水門』の真下……完全に海面下に沈んだエリアにあるはずよ」
シエルはまだ少し頬を膨らませたまま、携帯型の魔導端末を開き、周辺の地形データを調べながら言った。
「大水門の下だと? あそこは街の満ち引きをコントロールする心臓部だ。常に凄まじい水圧がかかってて、人が潜れるような場所じゃねえぞ」
バルドが眉をひそめて水路を覗き込む。
確かに、街の中央に聳え立つ巨大な防壁のような水門からは、轟音とともに大量の海水が吐き出されており、近づくことすら不可能な激しい渦が巻いていた。
「だからこそ、そこに『仕掛け』があるのよ。普通の方法じゃ辿り着けないように、水の流れそのものが謎として組み合わされているんだわ」
シエルはアメジストの瞳を細め、端末の画面に表示される複雑な水流の周期パターンを見つめた。
「三十分おきに、水門のバルブが切り替わる一瞬の隙がある。その時に特定の水門を閉じ、別の水門を開放すれば、一時的に水流が相殺されて、地下へ続く隠し階段の水が引くはずよ」
「なるほどな。水門の連動による物理的な通行許可か。だがお嬢、あの大水門の管理室は、街の頑固な水路職人たちが二十四時間体制で見張ってる。余所者が勝手にバルブを弄らせてくれるわけがねえ」
バルドの指摘はもっともだった。大水門はお守りする街の命綱だ。いくらシエルが天才的な技術を持っていようと、物理的にレバーやバルブに触れられなければ意味がない。
「フン、そんなことだろうと思って、すでにこの街の水路職人たちの通信網にちょっとした『悪戯』を仕掛けておいたわ」
シエルはさっきのドジを取り戻すように、不敵に微笑んで端末の画面をバルドに見せた。画面には、職人たちの連絡用魔導ベルが、一斉に偽のエラーでパニックを起こしている様子が映し出されていた。
「現在、大水門の反対側にある商業水路で『原因不明の逆流トラブル』が発生したという偽の情報を流したわ。管理室の職人たちは、今頃みんなそっちの確認に大慌てで走っているはずよ。……私たちの持ち時間は十五分。行くわよ、バルド!」
「ハッ、相変わらずあくどいウォーカー様だ。気に入ったぜ!」
バルドはコートを翻し、シエルと共に大水門の管理室へと繋がる錆びた鉄の階段を駆け上がった。
職人たちが無人になった管理室に飛び込むと、そこには大小無数の真鍮製のレバーと、水圧を示すガラス管のメーターがずらりと並んでいた。
「バルド、あんたの腕の見せ所よ。私が指示する通りの順番と強さで、そのレバーを操作して!」
シエルは端末を管理室の魔導制御盤に接続し、光の幾何学陣を展開する。
「おう、タイミングの正確さなら、俺の右腕の右に出るものはねえ。指図しな、お嬢!」
「第一レバー、下へ三分の一! 第二バルブ、右に二回転! ――今よ!」
シエルの鋭い声に合わせて、バルドの真鍮の義手が**ガコン、ガコン!**と凄まじい精度と速度でレバーを叩き、バルブを回していく。金属の擦れる音と、高圧の水がパイプを駆け巡る重低音が室内に響き渡る。
「メーター急上昇! バルド、そのまま第三の緊急停止レバーを固定して!」
「ぐっ、この水圧……! ナメんじゃねえぞッ!」
バルドの義手の歯車が煙を吹き上げそうなほど激しく回転し、圧倒的な逆水圧に抗ってレバーを限界まで引き絞った。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……!!!
大水門の底から、地鳴りのような音が響く。
管理室の窓から外を見下ろすと、さっきまで激しい渦を巻いていた大水門の真下の水流が、まるで奇跡のようにピタッと相殺され、穏やかな水面へと変わっていった。そして、水位が急速に下がり始め、濡れた白い石造りの巨大なアーチと、その奥へと下っていく暗い地下階段が姿を現したのだ。
「開いたわ……! 旧時代の図書館『沈んだ頁』への入り口が!」
シエルは歓喜に目を輝かせた。
「おいお嬢、感動してる暇はねえぞ! あと十分で職人どもが戻ってくるか、水圧の限界でバルブが弾け飛ぶ!」
バルドはレバーを固定器具で強引にロックすると、シエルのトランクをひっつかんだ。
「わかってるわよ! 水の中に眠る二つ目の『金の鍵』……私が一瞬で解き明かしてみせるわ!」
二人は管理室を飛び出し、まだ海水が滴る未知の地下迷宮へと足を踏み入れた。
足元を濡らす水の冷たさに、さっき滑った記憶がよみがえり、シエルは一瞬だけ「おっと」と慎重に足を運んだが、バルドに気付かれる前にフンと顎を引いて、お兄ちゃんの記憶の断片へと繋がる暗い階段を真っ直ぐに駆け下りていくのだった。




