第4章・第2話:時計塔の不協和音
『レイト・グリッド』に夜が訪れると、町は昼間とはまったく違う表情を見せ始めた。
張り巡らされた鉄パイプのあちこちから、緑色を帯びた夜間用の魔導蒸気がプシューッと吹き出し、街灯の代わりにぼんやりと路地を照らす。
シエルが足を向けたのは、大通りから一本入った路地裏にある、地元の人々で賑わう大衆酒場『鉄錆と真鍮亭』だった。
店内に一歩足を踏入れた瞬間、王都の洗練されたレストランとは180度違う、濃密な熱気と匂いがシエルを包み込んだ。
高い天井には太い真鍮のパイプがむき出しで走り、その継ぎ目から漏れる熱気が、どこかスパイスのような香ばしい匂いと混ざり合っている。床の石畳は長年踏み荒らされて黒光りしており、使い込まれた木のテーブルの上では、炭鉱夫や工場の職人たちがジョッキを傾けて大声で笑っていた。
「おや、いらっしゃい、お嬢ちゃん。ずいぶん上等な身なりだけど、うちの料理が口に合うかね?」
恰幅のいい、エプロン姿の女おかみが、好奇心に満ちた目でシエルを見つめながら注文を取りにやってきた。その二の腕は、長年重い鍋を振ってきたことを物語るように逞しい。
「ええ、問題ないわ。ここの名物料理と、この街の地酒をひとつ」
「はいよ! じゃあ、うちの一番人気、羊の蒸気スープと『エール・グリッド』だね。待ってな、すぐに体に火を灯してやるから!」
おかみは快活に笑うと、厨房へと消えていった。
やがて運ばれてきたのは、この町の労働者たちの活力を支える「羊肉と根菜の蒸気オイルスープ」、ずっしりと重い黒パン、精度を高めた琥珀色に輝く地蒸留酒だった。
「はいよ、お待ち遠様! 触ると火傷するよ!」
おかみがドン、と豪快に鉄鍋を置く。深い鍋の中で、大ぶりにぶつ切りされた羊肉が、黄金色のオイルの海でグツグツと音を立てている。湯気とともに、ガツンと鼻を突くニンニクと胡椒、そして羊肉特有の力強い野性味あふれる香りが立ち上り、それだけでお腹が鳴りそうになる。
シエルは木のスプーンを手に取り、まずはスープを一口すすった。
「っ……熱っ! ……でも、美味しい……!」
ハフハフと息を吐きながら味わうシエルを見て、おかみが嬉しそうに腰に手を当てた。
「だろう? 地熱の魔導炉から引いた純度の高い蒸気で、一気にお肉の芯まで火を通すんだ。王都のへなちょこベースのスープじゃ、このコクは出せないよ」
「ええ、本当に。表面がガチガチに硬いこのパンをオイルに浸すと、旨味がジュワッと溢れて最高だわ。王都の気取った薄味より、ずっと『生きてる』味がする」
シエルのその言葉に、おかみは目を丸くした後、我が意を得たりとばかりに彼女の背中をバシバシと叩いた。
「っふぐぅっ!?」
「あっはは! 嬉しいこと言ってくれるじゃないの、お嬢ちゃん! 気気に入ったよ、見かけによらずガッツがあるねぇ。足りなきゃパンのおかわりはいつでも言ってきな!」
シエルは咳き込みながらも、琥珀色の地酒に口をつけた。
喉を焼くような強いアルコールの刺激とともに、金属と魔力が混ざり合って体の芯をカッと熱くさせる。
おかみはシエルの手元に置かれたトランク、そして何より彼女の鋭い眼光をじっと見つめ、不敵に目を細めた。
「……そのトランク、特注の耐魔導コーティングがしてあるね。ただの家出お嬢様じゃあない。あんた、ウォーカー(盗掘者)だろ?」
シエルが驚いて顔を上げると、おかみは自分のエプロンを少しめくり、腰に巻かれた古びた革製のベルトを見せてくれた。そこには、引退した荒くれものの証である、傷だらけの古い魔導コンパスがぶら下がっていた。
「伊達にこの境界の町で長く酒場をやってないよ。私も昔はね、そのトランクを引いて世界の危険な遺跡に潜り込んじゃあ、お宝を掻き集めて回った元・ウォーカーさ。……まあ、今は引退して、この酒場の荒くれどもを黙らせるのが専門だけどね」
おかみはウィンクをしてみせ、シエルは思わず笑みをこぼした。まさかこんな辺境の酒場で、大先輩に出会うとは思わぬデータだった。
グラスを傾けながら、シエルは周囲の様子に目を凝らした。
隣のテーブルでは、煤で真っ黒に汚れた革の作業着を着た巨漢たちが、ジョッキを叩きつけながら大声で笑っている。その腕には、オイルが滲んだ無骨な真鍮製の油圧式義手がギラリと光っていた。奥の席では、ゴーグルを額に上げた男たちが、すり切れたトランプの勝敗をめぐって顔を真っ赤にし、青筋を立てて胸ぐらを掴み合っている。誰もが煤と油にまみれ、剥き出しの生命力と感情を撒き散らしていた。
そんな彼らの喧騒をBGMにしながら、シエルは携帯型の魔導端末に視線を落とした。
(これだけのエネルギーを消費する街を支える、時計塔の『禁じられた動力源』……。そこに眠るお兄ちゃんの『金の鍵』は、一体どんなシステムで封印されているのかしら……)
もう一口酒を煽り、最初の鍵の構造について思考を巡らせる。
その時、シエルのテーブルに不気味な影が落ちた。
「おいおい、見ねえ顔だな。王都から紛れ込んだ極上のお嬢ちゃんか?」
見上げると、酒の臭いをプンプンさせた二人の荒くれ者が立っていた。彼らはシエルの華奢な体つきや、形の良い脚、王都仕込みの白い肌を、なめまわすような下品な目線でねっとりと見つめている。値踏みするような下卑たニヤケ顔を浮かべ、男の一人が喉を鳴らした。
「こんなむさくるしい街に、こんな可愛い子が一人なんてなァ……。なぁ、これから俺たちといい場所行こうぜ? その高そうな荷物の『検閲』も、じっくり腰を据えて手伝ってやるからよ」
もう一人の男も、下品な視線をシエルの胸元に走らせながら、いやらしく指を鳴らしている。あからさまに性急で不躾な欲望の視線。
男がニヤつきながらシエルの肩へ、卑しく手を伸ばした瞬間――
――ドゴォン!!!
凄まじい衝撃音が酒場に響き渡った。
見れば、おかみが厨房から巨大な鋳鉄製のフライパンを片手に飛び出し、男たちの目の前のテーブルを文字通り叩き割っていた。
「こらぁッ!! あんたたち、うちの可愛いお客さんに何下品な目使ってんだい!!」
おかみの凄まじい眼光と気迫に、周囲の喧騒が一瞬で静まり返る。
「営業妨害でその股ぐらのモノごと叩き潰してやろうか、あぁん!?」
「ひ、ひぃっ……! す、すいませんおかみさん!」
男たちは下品な笑顔を一瞬で引きつらせ、恐怖に顔を歪めて脱兎のごとく酒場から逃げ出していった。それを見送ったおかみは、フゥと息を吐いてフライパンを肩に担ぎ、シエルに向かってニカッと笑った。
「すまないねぇ、お嬢ちゃん。あいますら、若い女を見るとすぐに発情するんだ。……おっと、お嬢ちゃんも、あんな雑魚に相手をするまでもないってツラをしてるね?」
「ええ、私の時間もったいないわ。でも、おかみさんの力技でのログアウトもお見事だったわよ」
二人が笑い合った、まさにその時だった。
――ガガガガガガガガッ!!!
突如として、先ほどの騒ぎが吹き飛ぶほどの大地を激しく揺るがすような地鳴りと、不快な重低音が町中に響き渡った。
酒場の天井からパラパラと埃が落ちてくる。それと同時に、店内の明かりとして灯っていた魔導蒸気のランプが、パチパチと怪しく点滅し始めた。
「うわっ!? なんだ、また時計塔の機嫌が悪いのか!?」
「いや、いつもより音がデカすぎるぞ! 地下のパイプが破裂する!」
さっきまで大声を上げていた荒くれ者たちが一斉にジョッキを置いて立ち上がり、色めき立つ。おかみも顔色を変えた。
「冗談じゃないよ、今夜の暴走は本気だ……! 街が吹き飛んじまう!」
シエルが即座に手元の端末に目をやると、画面の波形が真っ赤な警告色に染まり、異常な速度でスパイクを繰り返していた。
「嘘……。これ、ただの出力エラーじゃない。時計塔の『禁じられた動力源』が完全にオーバーフローを起こしかけてるわ!」
このままでは、時計塔の演算装置が焼き切れ、その負荷が逆流してこの町全体のインフラがすべて大爆破を起こして停止してしまう。
「ちょっと、私のスープと残りの酒が本当に台無しじゃない……! おかみさん、荷物預かってて!」
シエルはトランクをおかみに押し付けると、酒場を飛び出そうとした。すると、おかみがその華奢な肩をがしっと掴んだ。
「待ちな、お嬢ちゃん! 闇雲に走っても時計塔のセキュリティドローンに叩き落とされるだけさ。いいかい、一回しか言わないよ!」
おかみは懐からくしゃくしゃの古い地図を引っ張り出し、シエルの目の前に広げた。指先で素早くいくつかの地点を叩く。
「時計塔へ繋がる裏ルートの防壁の配置さ。三分おきに蒸気の噴出が変わる。ここ、ここ、ここの三箇所を突っ切りな。現役のあんたなら、行けるだろ!?」
シエルはその複雑なルートを一瞬で脳内にスキャンし、不敵に微笑んだ。
「完璧なナビゲーションログ、感謝するわ。……行ってくる!」
おかみはかつてのウォーカーの鋭い目に戻って叫んだ。
「行ってきな! 街を救って、その後に残りのスープを平らげな!」
「ええ、お安い御用よ!」
外へ出ると、夜の街はパニックに包まれていた。路地のマンホールからは激しい蒸気が噴き出し、町の中心にある時計塔を見上げれば、頭上で無数の巨大な歯車が、まるで噛み合う相手を間違えたかのように火花を散らしながら、異常な速度で逆回転を始めている。
「チッ、ここでデッドエンドなんて迎えたら、レインに一生バカにされるわ!」
シエルはおかみに教えられたルートをなぞり、猫のようにしなやかな体術で路地裏の影を駆け抜ける。三分おきに吹き出す熱い蒸気を紙一重でかわし、一度も立ち止まることなく時計塔の真下へとたどり着いた。
塔の入り口には、頑丈な三重の鋼鉄製ダイヤルロックが施されていたが、シエルは躊躇なく腰から『魔導鍵』を引き抜いた。
「この程度のプロテクト、王都の学園の図書室以下よ! アンロック!」
鍵穴の前に展開された演算陣に滑らせるように差し込み、カチ、カチ、カチリと滑らかな手応えで重厚な鋼鉄の扉を音もなくこじ開ける。
しかし、塔の内部に飛び込んだシエルの目に飛び込んできたのは、上空の制御パネルの前で、巨大なスパナを片手に「クソが! コードが噛み合わねえ!」と怒鳴り散らしている、油まみれの男の姿だった。
一刻を争う暴走の中で、世界に隠された最初の「書館」の謎、そして新たな出会いが、火花散る時計塔の中で交錯しようとしていた。




