第3章・第18話:独りではないと、知った夜(第3章 完)
王都の夜闇を、二つの影が滑るように駆け抜けていた。
イグノタフ家の私兵たちが血眼になって捜索網を敷く中、隠密の外套を纏ったレインと、傷だらけの身体にローブを深く被ったカイルは、裏路地を縫って進んでいた。
「……情報ギルドの追跡網、まともに機能してねえな。エレナが裏で流した『偽の警告状』のおかげで、追手の動きが完全にバラバラだ。今なら余裕でやり過ごせるぜ」
「ああ。だが、油断はできない。……急ごう」
カイルの胸ポケットには、迷宮の最深部から持ち帰った一つの『USB』が重く横たわっている。
二人が辿り着いたのは、王都の高級住宅街にそびえ立つ豪奢な屋敷――バレンシュタイン侯爵邸の裏門だった。
警備の目を掻い潜り、敷地内へ侵入しようとしたその時。
「――全く。こんな夜更けに泥棒猫のような真似をされるとは、風紀委員長であるお嬢様の顔に泥を塗るおつもりですか」
暗がりから、スッと影が一つ進み出た。
バレンシュタイン家に長年仕える初老の侍女、マルタだ。彼女はランタンの灯りを極限まで絞り、呆れたように、しかし鋭い眼光で二人を見据えていた。
「マルタ殿……!」
「声が大きゅうございますよ、カイル様。……お怪我の具合は後ほど拝見いたします。こちらへ。表の警備の巡回ルートは、わたくしが『手違い』で一時的に変更しておきました」
マルタは一切の無駄がない洗練された動作で、二人を屋敷の隠し通路――使用人だけが使う裏の動線へと招き入れた。
かつては「関わるべきではない」とエレナを諫めていたマルタだが、いざお嬢様が腹を括ったとなれば、己の命に代えてもその意志を完遂させる。それが一流の侍女の矜持だった。
「お嬢様は、私室でお待ちです」
マルタの先導で秘密裏に屋敷の奥へと進み、重厚な扉が開かれる。
そこには、柔らかな私服のドレスに身を包み、不安と緊張に顔を強張らせていたエレナの姿があった。
「カイル君……! レイン……!」
二人の無事な姿を認めた瞬間、エレナの紺碧の瞳が大きく揺れ、ふわりと安堵の息が漏れた。
ボロボロになった二人の姿に駆け寄ろうとして、しかしグッと足を踏みとどまり、令嬢としての毅然とした態度を取り繕うとする。
「無事で、よかったわ……。我が家の情報網を使って時間を稼いだ甲斐があったみたいね」
「ああ、助かったぜ委員長。お前が裏で手を回してくれなきゃ、途中で捕まってた」
「エレナ。君の支援には、本当に感謝している。……おかげで、俺たちは『真実』を掴み取ることができた」
カイルは深く頭を下げ、胸ポケットから赤黒い意匠の施された小型記録結晶を取り出した。
エレナの表情が引き締まる。
「それが、イグノタフ現当主の不正を暴く証拠なのね」
「さっそく再生させてもらうぜ。……ただ、エレナ。少し惨たらしい映像だから、覚悟して見ろよ」
レインがエレナの私室にある魔導端末に結晶を接続し、封印を解除する。
薄暗い部屋の中心に、ノイズ混じりのホログラムが浮かび上がった。
映し出されたのは、炎に包まれたイグノタフ家本邸。
そして――実の父親が血を流しながら幼いカイルを庇い、偽物の当主によって洗脳されたカイル自身が、その小さな手で実の父親の背中を刺し貫くという、あまりにも悍ましく、残酷な光景だった。
『これで本物の当主は死んだ。お前の手で本物の父親を殺したというその究極の絶望は、国の心臓部たる大魔導核を起動するための特上の燃料として捧げてもらおう――』
映像が途切れ、ホログラムが消失する。
部屋には、暖炉の火が爆ぜる音だけが異様に大きく響いていた。
「……っ」
エレナは両手で口元を覆い、絶句していた。
貴族社会の裏側にある権力闘争や暗殺は、知識としては知っている。だが、一人の人間の精神を根底から書き換え、我が子に親を殺させ、その絶望すらも国を動かすための「燃料」として利用する。そんな悪魔のような所業が、同じ貴族の手で行われていたとは。
「なんて、悍ましい……」
エレナの美しい瞳から、ポロリと一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは凄惨な映像への恐怖ではなく、心を歪められ、ずっと暗闇の中で罪悪感を背負わされてきたカイルへの、痛切なまでの同情と悲しみだった。
「エレナ……」
カイルは端末からUSBを引き抜き、その手をグッと握りしめた。
そして、USBをエレナへ渡そうとして――ピタリと、その手を止めた。
「カイル様……?」
「……いや、やはりこの記録は俺が持っておく。エレナ、君はこの映像のことは忘れろ」
カイルの顔には、かつてないほどの苦渋の色が浮かんでいた。
彼の手は、微かに震えている。
「このUSBは、ただの不正の証拠じゃない。大貴族イグノタフ侯爵家の根幹を吹き飛ばし、王国の枢密にまで波及する『特大の爆弾』だ。これを公にすれば、現当主は間違いなくバレンシュタイン家を国賊として総攻撃してくる。……君たちを、これ以上こんな泥沼の争いに巻き込むわけにはいかない!」
自分が背負うべき因縁だ。
これ以上、大切な仲間を血の泥沼に引きずり込みたくない。カイルがUSBをコートの奥へしまおうとした、その瞬間だった。
「――ふざけないでちょうだい」
パシッ、と。
エレナの白くしなやかな手が、カイルの腕を強く、力強く掴んだ。
「エ、レナ……?」
「わたくしが、そんな表面的な危険を恐れて、あなたたちを支援したとでも思っているの?」
涙を拭い、カイルを真っ直ぐに見据えるエレナの瞳には、風紀委員長としての毅然とした誇りと、バレンシュタイン家令嬢としての揺るぎない覚悟が燃え盛っていた。
「自分の過去と向き合い、死地を越えてその真実を持ち帰ったあなたを、一人で戦わせるわけがないでしょう! これはもう、イグノタフ家だけの問題じゃない。王都の闇を正すのは、バレンシュタインの娘であるわたくしの義務であり……大切な仲間であるあなたを助けるのは、わたくしの『意志』よ!」
「……っ!」
エレナはカイルの手から、半ば強引にUSBを奪い取った。
その手は震えるどころか、信じられないほど力強く、温かかった。
「貴方って人は……本当に、不器用で真っ直ぐな人ね。一人で抱え込もうとする悪い癖、わたくしがきっちり直してあげるわ」
「エレナ……。君は、本当に強いな……」
カイルの張り詰めていた心が、その温かな言葉にゆっくりと解けていく。
彼は深く息を吐き、改めてエレナ、そして横で壁に寄りかかりながらニヤニヤと笑っているレインを見つめた。
「はっ、言っただろカイル。俺たちの絆は、もうとっくに結ばれてるんだ。今さら一人で背負い込もうなんて、水臭い真似は許されねえぞ」
「……ああ。そうだな、俺が間違っていた」
カイルは憑き物が落ちたような、清々しい笑みを浮かべた。
実の父親を殺したという呪いは、もはや彼を縛る鎖ではない。彼には、暗闇の中で共に剣を振るってくれる異端の友がいて、王都の闇を共に背負ってくれる気高き令嬢がいる。
「頼む、エレナ、レイン。俺の、俺たちの『本当の戦い』に……力を貸してくれ!」
「ええ、任せてちょうだい!」
「おう。あの諸悪の根源を、玉座から完全に引きずり下ろしてやろうぜ」
夜明け前の静かな私室。
三人の意志が一つに重なり、王都を支配する巨大な闇への反撃の狼煙が、今、静かに上がった。
(第3章 ――完――)




