第3章・第13話:遺された黒刃
禁書庫を揺るがしていた光と闇の暴風が止み、後に残されたのは、耳が痛くなるほどの静寂だった。
「ハァッ……、ガハッ……!」
冷たい石畳の上で、カイルは激しく咳き込んだ。口内に広がる鉄の味と、全身を苛む焼き付くような痛みが、先ほどまでの死闘が現実のものであったことを告げている。
傷だらけの身体に鞭を打ち、震える腕で床を押し、カイルはゆっくりと身を起こした。白銀の聖剣を杖代わりにしなければ、そのまま意識を失ってしまいそうなほどの重傷だった。
かすむ視界の先、禁書庫の中央には、先ほどの死闘の証が転がっている。
主を失い、物質としての質量だけを持って横たわる『漆黒の魔剣』だ。
カイルは息を整えながら、一歩一歩、這うようにしてその剣へ歩み寄った。かつて自分自身を縛り付け、狂わせ、実の父を刺させ、そして今しがたまで己を殺そうとしていた傲慢の象徴。
カイルが屈み込み、その黒い柄に触れた瞬間、掌からジリジリとした禍々しくも冷徹な魔力の波動が伝わってきた。
だが、不思議と以前のような拒絶反応はなかった。
過去の傲慢な己を乗り越え、本当の貴族の誇り――ノブリス・オブリージュを胸に刻んだ今のカイルにとって、この剣はもはや忌むべき呪いではない。己の弱さと向き合い、打ち勝ったという確かな証だった。
「……これからは、俺がこの力を御してみせる」
静かに呟き、カイルは魔剣を拾い上げて腰の鞘へと収めた。二振りの剣を帯びた背中は、以前のどれよりも泥に塗れていたが、同時に見違えるほど大きく見えた。
カイルは痛む腹部を押さえながら、周囲を見渡した。崩れかけた本棚、四散した古い魔導書や記録結晶が、床一面に散乱している。
「……ない、か」
数時間かけて禁書庫内をくまなく探し、手当たり次第に記録を読み解いたものの、求めていたイグノタフ家の真実や、現当主の不正を決定づけるような決定的な証拠は見当たらなかった。先ほどの激戦の衝撃で消失してしまったのか、あるいは最初からこの階層には隠されていないのか。
限界を告げる肉体の悲鳴と、強烈な目眩がカイルを襲う。これ以上の強行軍は命に関わる。カイルは重い足取りで、禁書庫を後にした。
向かった先は、2階の回廊の隅、本棚の隙間に隠されたあの小さな部屋だ。
隠し扉をピチリと閉ざし、パチパチと煤けた暖炉の火が爆ぜる小部屋に戻ると、カイルは使い込まれた布張りソファに倒れ込むように身体を沈めた。
張り詰めていた緊張の糸が切れた途端、泥のような疲労が一気に押し寄せてくる。
部屋にはまだ、レインが淹れてくれた特製アッサムティーの微かな残香と、最高級の干し肉の塩気が残っているような気がした。
「……少し、休むか」
誰に言うともなく呟き、カイルは深く目を閉じた。
他人が組んだクソコードに踊らされる人形の時間は終わった。ここからは自分の意志で、真実を掴み取らなければならない。
それからしばらくの間、カイルはこの隠し部屋を絶対の拠点とし、傷を癒しては未探索の2階と3階を行き来して、実家の真実を記した記録を探すという、孤独で地道な探索を繰り返すこととなる。
時を同じくして。
迷宮の喧騒から遠く離れた、王都の高級住宅街に位置する豪奢な屋敷の一室。
窓から差し込む柔らかな光とは対照的に、部屋の中には重苦しい空気が流れていた。
「……カイル様が、実家に対する反逆の罪で追手を差し向けられている……? それに、レインも巻き込まれて指名手配されているというの……?」
上質なアンティークのデスクに置かれた羊皮紙の報告書を見つめながら、エレナは信じられない思いで息を呑んだ。
そこには「裏切り者」として、見慣れた白銀の騎士と、悪びれない不敵な笑顔を浮かべる平民の少年の人相書きが、生々しく記されていた。
あの誰よりも規律を重んじ、誇り高きカイルが、実家を裏切るなどあり得ない。
裏ルートの情報ギルドから買い取ったその報告書には、暗殺組織や実家の精鋭私兵まで動員されているという最悪の事実が並んでいた。事態の異常さは火を見るより明らかだった。そして、いつも飄々として計算高いレインが、理由もなくこれほどの厄介事に首を突っ込むはずもない。
(必ず、何か深い裏事情がある。彼らをハメ殺そうとする、誰かの意図が……)
エレナが深刻な顔で思考を巡らせていると、背後から、衣擦れの音と共に控えめだが強い意志を持った声がかけられた。
「お嬢様」
長年彼女に仕え、エレナにとっては育ての親も同然である初老の侍女、マルタだ。マルタは深く頭を下げたまま、諭すように静かに言葉を続けた。
「情報ギルドからの報告は、すでにお聞き及びですね。……どうか、お願いでございます。この件には、絶対に関わってはなりません」
「マルタ……」
「イグノタフ家は、現在の王都において絶大な権力を持つ大貴族。現当主の冷酷さは耳に痛いほどでございます。彼らの怒りを買えば、我が公爵家とてただでは済みません。お嬢様のお心は痛むでしょうが、ここはどうか、見なかったことにして頂きたいのです」
マルタの言葉は、貴族社会を生き抜くための極めて正しく、現実的な判断だった。
下手に手を出せば、自分たちまで反逆者の身内として処理されかねない。それほどまでに、相手の権力は強大で、根が深い。マルタがエレナの身を心から案じ、守りたいと願っているからこその、必死の進言だった。
「……ええ。分かっているわ、マルタ。イグノタフ家を敵に回すことが、どれほど危険な行為かくらい」
エレナはゆっくりと報告書を閉じ、静かに立ち上がって窓の外を見つめた。
王都の空は今日もどこまでも青く澄み渡っているが、その下で蠢く貴族たちの欲望と闇は、ひどくどす黒い。
けれど――エレナの脳裏には、二人の姿が焼き付いて離れなかった。
カイルの、不器用なまでに真っ直ぐで真面目な横顔。
レインの、損得勘定を口にしながらも、最後には誰かのために命を張れる泥臭い強さ。
そんな彼らが、理不尽な罠によって追いつめられ、光の届かない迷宮の暗闇の中で必死に足掻いている。それを知ってしまった今、安全な屋敷に引きこもって見知らぬふりをするなど、エレナの、公爵家令嬢としての誇りが絶対に許さなかった。
「準備をして頂戴、マルタ」
窓硝子に映る自分の瞳を見つめながら、エレナは静かに、しかし断固とした口調で命じた。
「……お嬢、様? 聞き届けてはくださらないのですか」
振り返ったエレナの瞳には、かつてないほどの強い決意の光が宿っていた。マルタはその眼光に圧され、思わず息を呑む。
「見過ごすわけにはいかないの。カイル様やレインがこれ以上追い詰められないよう、彼らを追う者たちの動きを裏から牽制するわ。表立って動けなくても、我が家の情報網と財力を使えば、敵の目を眩ませる支援の方法はいくらでもあるはずよ」
「お嬢様……。ですが、それはあまりにも危うい橋を……」
「大丈夫よ、マルタ。私は公爵家の娘。トカゲの尻尾切りにされるようなヘマはしないわ」
エレナは小さく、しかし不敵に微笑んだ。
忠実な侍女の制止を毅然と振り切り、大切な仲間たちを救うため、令嬢エレナの独自の戦いが、今ここに幕を開けようとしていた。




