第3章・第10話:己の闇
2階の廃棄書庫から続く、長く薄暗い螺旋階段を登りきった先。
肌を刺すような冷気と濃密な魔力の匂いが鼻腔を突くその場所で、カイルは重厚な装飾が施された3階『禁書庫』の扉の前に、ただ一人で立っていた。
「……ここまで、か」
冷たい石造りの扉に手をかけようとしたカイルの指先が、微かに震えている。
2階までは、あの常識外れの異端児・レインが傍にいた。狂った初見殺しのギミックも、圧倒的な数の私兵たちも、奴の『ハメ技』という名の知略があれば突破できた。
だが、ここから先は違う。
レインは「野暮用がある」と言って2階に残り、カイルはたった一人でこの3階へ足を踏み入れなければならないのだ。
扉を前にして、カイルの脳裏に、かつてこの書館の地下区画で遭遇した最悪のトラウマがフラッシュバックする。
――『姿なき狙撃手』。
それは、姿を持たず、闇に紛れて不可視の魔弾を放ってくる極悪非道のエネミーだった。
恐ろしいのはその不可視の攻撃だけではない。狙撃手が支配するエリアでは、あらゆる空間認識が狂わされる**『反転のギミック』**が発動するのだ。
右へ避けようとすれば左へ身体が動き、前に進もうとすれば後ろへ退く。視覚と三半規管、さらには魔力感知すらも真逆に書き換えられ、最後尾にいたはずの自分がいつの間にか「最前線のゼロ距離」に立たされているという、理不尽極まりないデバフ空間。
あの時は、シエルが張ってくれた反射シールドと、レインの常軌を逸した判断力があったからこそ生き延びられた。
だが、もし今、たった一人でこの扉を開け、あの凶弾を眉間に受けてしまったらどうなるか。
カイルは知っている。この狂った迷宮の奥深くで致命傷を受けた瞬間に待ち受けているのは、安らかな死ではないことを。
**『死に戻りのループ』**だ。
不可視の魔弾に頭を吹き飛ばされた激痛と、絶望の記憶を完全に保持したまま、エリアの入り口へと強制的に意識を巻き戻される。幾度死んでも死ぬことは許されず、精神が完全に摩耗して発狂するまで、永遠に反転空間での狙撃を繰り返されるという、悪魔のような仕様。
「っ……ふぅ……、落ち着け……」
カイルは荒くなりかけた呼吸を整え、扉の前で強く目を閉じた。
問題は、現在の『時計塔の書館』が、館長の消失によってシステム暴走を起こしていることだ。リミッターが外れ、下の階層ではエネミーの無限湧きすら起きている。
果たして、この扉の向こうに、あのトラウマを植え付けた『姿なき狙撃手』は再び復活しているのか。
――それを知る術は、扉を開けるまで一切存在しない。
(シエルのチャフもない。レインの眼もない。……もしあの扉の向こうで、あの狙撃手が復活していたら……今の俺1人で、あの反転空間を太刀打ちできるはずがない)
再び、あの無限の死のループに叩き落とされる恐怖。
押し潰されそうなプレッシャーが、カイルの足を床に縫い付けようとする。
だが――。
『俺の血筋も、プライドも……全部、あの男に仕組まれた偽物だった……! 俺は自分の親を殺し、仇を親と仰いで生きてきた、ただの人形だったんだ……ッ!』
先ほどセーフティエリアで自分が流した、血の涙の記憶。
そして、無表情にマグカップの紅茶を差し出し、傲慢なまでに世界の仕様を否定してみせた、白銀の髪の少年の姿。
『洗脳されて動かされただけのログを、いちいち自分の罪だと抱え込んでんじゃねえよ』
「……そうだ。俺はもう、逃げない」
カイルは目を開き、腰に帯びた白銀の聖剣の柄を、血が滲むほど強く握りしめた。
恐怖はある。死に戻りの無限ループに囚われ、精神が崩壊するかもしれないという絶望もある。
だが、それ以上に恐ろしいのは、偽物の父親に踊らされ、実の父親を殺した大罪から目を背けたまま「操り人形」として生き続けることだ。
「真実は、この扉の向こうにある。……たとえ反転のギミックが待っていようと、何度頭を撃ち抜かれて死に戻ろうと……俺の意志だけは、絶対に折れはしない!」
カイルは大きく息を吸い込むと、迷いを断ち切った力強い眼差しで、重厚な3階への扉に手をかけた。
ギィィィィ……ッ。
重々しい駆動音を立てて、『禁書庫』への扉が開いていく。
カイルは極限まで研ぎ澄ませた魔力と全神経を張り詰めたまま、空間へ飛び込んだ。いつ空間が反転してもいいように足場を固め、眉間を撃ち抜かれる激痛を覚悟して、白銀の聖剣を正眼に構える。
――だが。
数秒待っても、数十秒待っても、死神の凶弾は飛んではこなかった。
「……え?」
カイルは油断なく周囲を見渡した。
そこは、無数の本棚がドーム状にそびえ立つ、荘厳にして静寂に包まれた巨大な図書館だった。空中に、半透明のアクセスログ(過去の記録)がホログラムのように無数に浮かび、青白い光を放ちながらゆっくりと旋回している。
結論から言うと、この3階に『姿なき狙撃手』はいなかった。
館長消失によるシステムのバグか、あるいは下層の無限湧きにリソースを食われているのか。理由は定かではないが、空間の反転ギミックも発動しておらず、ただ冷たい空気と古い紙の匂いだけが漂っている。
「……いないのか? あの、狙撃手は……」
張り詰めていた糸がふっと緩み、カイルは深く安堵の息を吐き出した。
死に戻りの無限ループという最悪の恐怖からは免れた。あとは、この無数に浮かぶ過去のログの中から、偽物の父親がイグノタフ家を乗っ取った『真実の記録』を探し出すだけだ。
カイルが聖剣の切っ先を下げ、禁書庫の奥へと足を踏み出そうとした、その時だった。
『――拍子抜けしたか? 自分がこれほどの覚悟を決めたというのに、乗り越えるべき試練が不在で』
「っ!?」
静寂を切り裂く、ひどく聞き慣れた声。
いや、聞き慣れているなどというレベルではない。カイルは弾かれたように声の方向――禁書庫の中央へと視線を向けた。
青白いログの光に照らされ、本棚の影からゆっくりと「それ」が姿を現す。
「な……お前は……ッ!」
カイルは息を呑み、目を見開いた。
そこに佇んでいたのは、プラチナブロンドの髪に、白銀の瞳。そして、かつてカイル自身が纏っていた、名門イグノタフ家を象徴する豪奢で傲慢な意匠の白銀甲冑。
カイルと瓜二つの顔、瓜二つの背丈。
ただ一つ違うのは、その瞳の奥に宿る光が、底なしの泥のように濁った『どす黒い闇色』に染まり切っていることだ。
『やあ。見苦しいぞ、カイル。平民の力を借りて泥水を啜り、挙句の果てには一丁前に「真実」を求めようなどと……。イグノタフの面汚しめ』
「俺の……闇……なのか。この禁書庫の防衛システムが、俺の罪悪感と魔力を読み取って生み出したバグ……!」
カイルは直感で理解した。
これはただの幻影ではない。実の父親を手にかけ、偽物の言葉を信じ込み、学園で高慢に振る舞い続けていた『かつての自分自身』そのものだ。
闇のカイル(シャドウ)は、冷酷な笑みを浮かべながら、腰から剣を引き抜いた。
それはカイルの持つ白銀の聖剣とは対極の、光をすべて吸い込むような漆黒の魔剣だった。
『父親を殺した操り人形が、今更どの面を下げて真実を暴くというのだ? お前は一生、己の罪から目を背け、偽の栄光の中で踊り狂っていればよかったのだ。そうすれば、少なくとも「天才騎士」としての虚像だけは保てただろうに』
「黙れ……ッ!」
『図星だろう。お前がここまで来られたのは、あのレインという規格外の異端児に依存したからだ。お前一人の力では、何も守れず、何も成し遂げられない』
シャドウの言葉は、カイルの胸の奥底に隠していた最も痛い部分を的確に抉り出していく。
圧倒的な罪悪感と無力感が、再びカイルの足を竦ませようとする。
だが、カイルは唇を噛み破り、白銀の聖剣を強く両手で握り直した。
「……あぁ、そうかもしれないな。俺は愚かだった。操り人形として生き、何の罪もないレインたちを見下し、挙げ句の果てには自分の手で……本当の父上を……っ!」
血の滲むような懺悔。
だが、その白銀の瞳には、かつてのような折れかけた脆さは微塵もなかった。
「だが、俺はもう逃げない!! お前が俺の過去の罪、捨て去れなかった傲慢な虚像だと言うのなら――俺は、俺自身の手で、お前を斬り伏せる!!」
カイルが床を蹴り、爆発的な魔力を纏って突進する。
同時に、闇のカイルもまた、全く同じ踏み込み、同じ初速で漆黒の魔剣を振り被った。
カキィィィンッ!!!!
白銀と漆黒。二振りの剣が激突し、禁書庫の空間に凄まじい衝撃波と火花が撒き散らされる。
全く同じ筋力、全く同じ剣筋。だが、シャドウの刃には、カイルがかつて持っていた「他者を見下す絶対的な傲慢さ(ステータスバフ)」が重く乗っていた。
『甘いぞ、偽善者! お前のその迷いだらけの剣で、イグノタフの真の闇を切り裂けるものか!』
「くっ……おおおおおッ!!」
カイルは鍔迫り合いから力任せに弾き飛ばされそうになりながらも、必死に踏み止まる。
頼れるレインはここにはいない。ハメ技も、跳弾もない。
これは、カイル・イグノタフが本物の騎士として新生するための、己の罪との孤独な死闘だった。




