第3章・第6話:カイルの受難②自己進化する書館
ギィィ……。
重い鉄の扉が閉まると同時に、激しい雨音は完全に遮断され、代わりに鼓膜を圧迫するような「ゴト……ゴト……」という時計塔の超巨大な歯車鳴りが、冷え切った大気を震わせた。
『時計塔の書館』1階。
かつてレインやシエルと共に突破したはずのその空間は、完全に変貌していた。
館長という「システムの制御者」を失った書館は今、侵入者を確実にデリートするため、防衛プログラムを独自に書き換え、凶悪な自動強化を繰り返す悍ましい「自己増性能の廃墟」と化していたのだ。
(ハァ、ハァ……。ひとまずは、撒けたか……?)
カイルは息を切らし、白銀の聖剣を構えたまま巨大な書架の影に身を潜めた。
鎧の隙間から流れ落ちる血が、冷たい床にポツリとシミを作る。体力的にも精神等にも、すでにリソースは限界に近い。何も知らない実家の私兵たちと真実を隠されたまま切り結んだ痛みが、胸の奥でドス黒く渦巻いている。
今のカイルが目指すべきは、2階にある『セーフティエリア(安全地帯)』だ。あそこの結界さえ生きていれば、どれほど外の追っ手や館内の魔獣が狂っていようと、システム的に絶対に侵入できない絶対不可侵の休息が保証される。
だが、そこへ至る回廊は、以前のデータが全く通用しない「別物の地獄」だった。
「――グルルルル、ジジ……、ジ……」
暗闇の向こう、本棚の隙間をうろつくのは、書館の基本防衛ユニット『猟犬』だ。しかし、以前見たものとは完全に別種へと進化していた。主を失ったことで制御コードが引き千切られ、全身の皮が剥ぎ取られたような赤黒い肉塊の巨体に、数条の魔導回路が文字通り「生え変わり」、不快なバグノイズを撒き散らしながら歩いている。奴らの感知能力は以前の数倍――視覚だけでなく空間の「魔力の揺らぎ」すら嗅ぎつけ、一度でも触れれば一瞬で、館内の全アクティブモンスターを無限に引き寄せる「永久ヘイトバグ」の媒介へと強化されていた。
さらに、通路の最奥、2階への階段の手前をゆっくりと巡回している『処刑人』の姿に、カイルは息を呑んだ。
かつては「侵入者の影を認識して切る」という、仕様の穴を突ける相手だった。だが今の処刑人は、身の丈を遥かに超える巨大な断頭斧を引きずり、レンガの床を「ギギギ、ギギギ」と火花とともに削りながら歩いている。その顔面は鉄の鎖で幾重にも縛られ、ただ殺戮のためだけに最適化された凶悪なオブジェクト。自己強化のパッチにより、今や「影」だけでなく、半径数十メートル以内の「空気の振動」そのものを感知する即死ギミックへと進化していた。あれに一撃でも掠めれば、防御力に関係なく、肉体を強制終了させる一撃必殺の「衝突判定」が設定されている。
(まともにやり合えば、一瞬でハメ殺される。感知範囲の隙を突くしか――)
カイルが息を殺して進もうとした、その時だった。
カチ、と頭上で嫌な音が響いた。
見上げると、通路の天井から吊り下げられた古びた魔導ランタンが、生き物のように「ギィ……」と音を立ててカイルの方を向いていた。
『注視のランタン(サーベイランス・アイ)』。
以前はただの不気味な照明だったギミックが、完全に「別物」へ書き換わっている。ランタンのガラスの奥でゆらめくのは、炎ではない。不気味に充血した、巨大な**『人間の眼球』**だ。それがカイルを発見した瞬間、瞳孔をギチリと広げ、微動だにせずカイルのことを見つめ始めた。
瞬き一つせず、網膜の奥まで見透かすような冷酷な視線。
このランタンに見つめられている間、侵入者の隠密スキルはシステム的に「完全無効化」され、位置情報が館内全域へリアルタイムで共有される。一刹那にして、周囲の『猟犬』たちの耳が、一斉にピクリと跳ね上がった。
「ウォォォォン!!」
バグった猟犬たちが、空間を歪めながらカイルへと殺到する。
「くっ、おおおおおっ!」
カイルは退路を断たれ、聖剣を激しく一閃した。迫り来る猟犬の肉塊を斬り裂き、その返り血を浴びながら、処刑人が巨大な斧を振り上げるよりも早く、最短のフレームで階段へと爆発的なダッシュを掛けた。背後で、処刑人の断頭斧が床を爆破するような轟音が響く。
心臓が破裂しそうなほどの負荷に耐えながら、カイルは命からがら2階への階段を駆け上がり、重い防煙扉の裏へと飛び込んだ。
――だが、自動強化された2階は、1階以上の精神的な地獄だった。
ハァ、ハァ、と荒い息を吐くカイルの視界が、突如として激しく歪み始める。
視界の端が赤黒く染まり、脳の奥を直接爪で引っ掻かれるような、悍ましいノイズが響き渡る。
「が、はっ……!? なんだ、この、デバフは……っ!?」
カイルはたまらず膝をつき、激しく嘔吐しそうになるのを堪えた。
2階の天井に点在するランタンは、1階の眼球ランタンとはまた別の、最悪の自己進化を遂げていた。紫黒色のドロドロとした光を放つそれは、精神汚染系セキュリティ――『恐怖増幅のランタン(フィア・ブースター)』。
元々は、侵入者の精神を揺さぶり「軽い恐怖心をじわじわと増幅させる」程度の、ただのデバフ用トラップだった。しかし、管理権限を持つ館長が不在となり、リミッターが完全に崩壊。防衛プログラムの安全装置が焼き切れた結果、このランタンは最悪の表現へと帰結してしまっていた。
侵入者の脳内のメモリ(記憶データ)へと直接強制ハッキングを仕掛け、最も深いトラウマを実体化させ、精神を直接破壊する狂気の「処刑装置」と化していたのだ。
『カイル……なぜ私を刺した……』
暗闇の向こう、そのドロドロとした紫黒の光の中から、血まみれの実の父親の幻影が、恨みがましい目を向けて実体となって歩いてくる。
『お前は本当の親を殺した人殺しだ』『操り人形の出来損ないめ』
偽物の父親の哄笑が、全方位から立体音響のように頭蓋骨を殴りつけてくる。
「違う、俺は……俺は……っ!!」
聖剣を握る手がガチガチと震え、力が入らない。視界が二重三重にブレ、立っていることすらままならない。
2階のセーフティエリアは、この通路のすぐ先にあるはずだ。だが、一歩進むたびに「己の手で父親を刺し殺した」という最悪のバグ記憶が心臓を握り潰し、カイルをその場にハメ殺そうと狂わせにくる。
精神が完全に崩壊しかけ、視界が闇に染まりかけたその瞬間。
バキィィィン!! と、静寂の2階に、世界の物理法則を完全に置き去りにした、苛烈な「金属の跳弾音」が鳴り響いた。




