第3章・第4話:カイルの受難
ハァ、ハァ、ハァ――。
深夜の城下町。冷たい雨がレンガの石畳を激しく叩きつける中、カイル・イグノタフは必死に息を乱しながら、細い路地の闇を疾走していた。
端正だった騎士服は泥と返り血で汚れ、腰の白銀の聖剣は、幾度もの打ち合いを物語るように鈍い光を放っている。
「……クソッ、もうここまで追ってきているのか」
背後の大通りから、ガチャガチャと統率の取れた重い金属音が響く。それは学園の騎士団ではない。カイルの実家――名門イグノタフ侯爵家が擁する、私設の精鋭暗殺部隊の足音だ。
(すべては、あいつの仕掛けたハメ技か……!)
カイルは走りながら、割れそうなほど激しく脈打つ己の頭を掴み、奥歯を噛み締めた。
地下書館の最奥で目撃した【真実の碑文】。そこから溢れ出した記憶の光が、カイルの脳内にかけられていた最悪のバグを完全に融解させていた。
蘇ったのは、炎に包まれた十数年前のイグノタフ家本邸の景色。
血まみれになりながらも、幼い自分を庇って剣を構えていた、高潔な実の父親の姿。そして、その対面にいた、現在の現当主と同じ顔をした『成り代わりの怪物』。
あの時、すでに洗脳の術式によって意識を混濁させられていたカイルは、実の父親を「侵入者の悪党」だと認識させられ、その背中を短剣で深く突き刺してしまったのだ。
『――よくやったぞ、我が息子よ。お前はただ、私を本当の親だと信じる操り人形でいればいい――』
現在の現当主――あの偽物の怪物の哄笑が、今も耳の奥でリフレインする。
自分は今まで、実の父親の仇を「本当の親」だと信じ込まされ、都合のいい人形として生かされてきた。真実を知ったカイルの目つきや呼吸の僅かな変化から、偽物の当主は「カイルの記憶のロックが解除されたこと」を即座に察知し、すぐさま彼を社会的に、物理的に抹殺するためのシステムを動かした。
だが、あの怪物はどこまでも狡猾だった。
カイルを追うイグノタフの私兵たちには、当然、そんな「成り代わりの真実」など一切知らされていない。
『カイルは学園の異分子に洗脳され、狂ってしまった。我が家を裏切り、国家機密を他国へ売り渡そうとしている。イグノタフの栄誉のため、これ以上傷が広がる前に、直ちに身柄を拘束……抵抗するようならば、処分も辞さない』
怪我がそんな「偽装された大義名分」を私兵たちに吹き込んだのだ。
「カイル様! 目を覚ましてください!」
「学園のバグに騙されているのです! 剣を収めて当主様のもとへ戻りましょう!」
路地の角から、魔導の灯火を持った私兵たちが姿を現す。彼らの瞳にあるのは、裏切り者への憎しみではない。狂ってしまった若頭を「正義のために救おうとする、あるいは義務を果たそうとする」真摯な光だ。
それが、カイルにとってはこれ以上ない残酷な刃となって突き刺さる。
(違う……! 騙されているのはお前たちだ! あの男は俺の父親じゃない……! 家を乗っ取った怪物なんだ……!)
そう叫びたかった。だが、叫んだところで、完璧な当主として君臨するあの怪物の言葉と、洗脳から解けたばかりの自分の言葉、どちらが信用されるかなど火を見るより明らかだった。何を言っても「狂人の世迷い言」として処理されるだけだ。
「くっ……おおおおおっ!」
カイルは悲痛な咆哮とともに、峰打ちで迫り来る私兵たちの刃を弾き飛ばした。
何も知らない、かつて自分を慕ってくれた家の兵たちを相手に、真実を明かせぬまま剣を振るわなければならない。その理不尽なハメ技に、カイルの心はズタズタに引き裂かれていた。
しかし、イグノタフの陣営はカイルの剣技の癖を、間合いを、手の内をすべてデータベースとして知り尽くしている。手加減をしながらのソロの状態で、このまま戦い続ければ、遠からず消耗しきって捕らえられるのは明白だった。
(……あそこしか、ないか)
雨に煙る視界の先、カイルの足が向かっていたのは、かつてレインたちと共に潜った、あの巨大な『時計塔の書館』のシルエットだった。
あの中へ逃げ込めば、何も知らない私兵たちも、学園の規則の手前それ以上は容易に追ってこられない。だが同時に、今の書館は館長を失い、処刑人や追跡者が狂ったように徘徊する最悪のデッドゾーンだ。
まさに前狼後虎。
実の父親を殺したという血塗られた記憶と、誰にも信じてもらえない孤独を抱え、カイルは雨の時計塔の重い扉を押し開け、暗黒の1Fへと飛び込んでいった。




