第3章・第1話:見送りと始まり
「明日、他国の書館へ旅立つわ」
その言葉を前日の夜、シエルから唐突に告げられた時、レインは自室で魔導端末のコードを弄っていた手を完全に止めた。
地下書館から持ち帰った『昏き結晶』。そしてカイルの記憶を改ざんした国家規模の不正アクセスの痕跡。それらのマスターキーが他国の書館にあることは分かっていた。だが、これほど急だとは思っていなかったのだ。
「……明日か。ずいぶんと急だな、大天才」
「プロウォーカーの仕事に遅延は厳禁よ。あっちのネットワークに一時的なセキュリティの『隙』が生まれるのが、ちょうど明日の深夜。ここを逃したら、お兄ちゃんの記憶のロックを解除するチャンスは当分巡ってこないわ」
シエルはいつも通りの不敵な笑みを浮かべてみせたが、そのアメジストの瞳には、かつてないほどの決意と、そしてレインにも言えないような一抹の不安が揺れていた。
いつだって二人で一つのカラクリを解き、最前線を歩んできた。その相棒が、明日からは自分の届かない場所へ行ってしまう。
レインは端末の画面を消し、静かにシエルを見つめた。
「そうか。……分かった。明日、駅まで見送りに行く」
「ふん、当然よ。私の輝かしい旅立ちのログに、あんたの顔が記録されてないと締まらないもの」
シエルはこれみよがしに胸を張ったが、部屋を出る直前、ドアノブに手をかけたまま振り返り、少しだけ声をトーンダウンさせた。
「……じゃあ、明日、中央駅でね。相棒」
その背中を見送った夜の静けさが、今でも耳の奥に残っている。
◇
そして迎えた翌日の夕暮れ。
城下町の中央駅、蒸気と魔導の入り混じる賑やかなプラットホーム。
「――いい、レイン。私がいないからって、あの爆乳風紀委員長にうっかりハメられて、お婿さん(バレンシュタイン家)に就職しちゃうなんてデータエラー、絶対に許さないんだからね?」
他国へと繋がる国際列車の前で、シエルはトランクの持ち手をぎゅっと握りしめながら、じと目のアメジストの瞳でレインを睨みつけていた。昨日までの少ししんみりした空気はどこへやら、いつも通りの生意気な口調に戻っている。
「しないっつーの。なんで俺が命がけで風紀の檻に飛び込まねえといけないんだよ」
レインは苦笑しながら、彼女の小さな頭にぽんと手を置いた。
「プロウォーカーとして、私にしか叩けないコードがある。お兄ちゃんの記憶のロック、私が絶対に解除してみせるわ」
そう語るシエルの横顔は、いつになく真剣で、どこかひどく大人びて見えた。
だが、レインの手が頭から離れようとした瞬間、シエルは寂しさを隠すようにその袖口をきゅっと掴む。
「……あんたのバグ解析能力(ウォーカーの目)は優秀だけど、ナビゲーター(私)がいないと、ただの無鉄砲な突撃野郎なんだから。一人で無茶してデッドエンドを迎えたら、その時は本当に怒るからね」
「分かってるよ。お前が帰ってくるまで、こっちのバグをこれ以上肥大化させないように見張っとくさ。……気をつけてな、シエル」
「ふん、私を誰だと思ってるの? 大天才プロウォーカーよ? ――じゃあ、行ってくるわ。寂しくて泣かないでよね、相棒」
発車のベルが鳴り響く。
シエルはこれみよがしにふふんと勝ち誇ったような笑みを浮かべ、自分が「一番の相棒」であるという特権に酔いしれるように胸を張って、客車へと乗り込んでいった。
他国へと繋がる国際列車が、低く重い駆動音を響かせてゆっくりと動き出す。
プラットホームを満たす白い蒸気の向こう、客車の窓越しに、シエルが小さく手を振る姿が見えた。
「……行っちまったな」
レインはポケットに両手を突っ込んだまま、遠ざかっていく列車の尾灯をじっと見つめていた。
いつも隣で、憎まれ口を叩きながらも完璧なラインでナビゲートしてくれていたアメジストの髪の少女。
彼女がこの国から離れたという事実は、ホームを吹き抜ける夜風の冷たさと相まって、レインの胸にぽっかりと、思いのほか大きな空白を穿っていた。
駅の敷地を出て、静まり返った夜の道を一人歩きながら、レインは思考を巡らせる。
(シエルが他国の書館に挑戦している間……俺がこの国で成すべきことは何だ?)
頭の中で、これまでに見つかった「バグ」のログを整理していく。
まずは、地下書館の最奥で目撃した国家規模の不正アクセス。そして、それを知りながら自分たちを送り込んだ学長の意図。さらに、歪められた記憶のまま貴族社会の泥沼に足を踏み入れようとしているカイルの存在。
(学長は俺たちを『異分子』として利用しようとしている。なら、その思惑にただ乗っかるのは癪だ。カイルの周囲で起こるであろう騒動を裏からコントロールしつつ、この国の心臓部に埋め込まれた致命的なバグの正体を突き止める。シエルが兄の記憶を解放して帰ってきた時、すぐに次のステージへ進めるように、こっちの盤面を完璧に整えておくのが俺の役目だ)
そのためには、学園という最高の潜伏先で、ウォーカーとしての爪を研ぎ澄まし続けなければならない。
一人きりの夜の帳の中、レインの瞳には孤独なウォーカーとしての冷徹で静かな闘志が宿っていた。
――と、そこまでは、最高にシリアスで建設的な思考に浸っていた。
しかし、明日からの具体的な活動資金と、学園生活の維持費を確認しようと、手元の魔導端末で『学園生専用口座(学生口座)』のアプリをタップした瞬間、レインの思考は別の意味で完全にフリーズした。
画面に表示された、学園から支給される特待生手当と特別報酬が紐づいた学生口座の残高。そこに並ぶ無慈悲な数字は、数字の桁を何度見直しても、どう好意的に解釈しても――。
「……待て。嘘だろ、おい……」
壊滅的だった。
シエルの他国遠征用の最高級資材や、地下書館で消耗した魔導銃の修繕費、さらには遠征の準備費用が学園の自動決済システムで一斉に引き落とされた結果、残されたのは、来週の今頃には食堂の最安メニューすら怪しいレベルの無慈悲な『大爆死(金欠)』の現実だった。
「……あいつに『泣かないでよね』って言われたばかりだけどな」
レインは夜空を見上げ、乾いた笑いを漏らした。目元が熱いのは、決してシエルとの別れが寂しいからではない。純粋に、学生口座の残高がゼロに向かってシステムエラーを起こしかけている恐怖のせいだ。
シリアスな決意は、一瞬にして「明日を生き延びる」ための生存本能へと上書きされた。
他国で戦うシエルを手助けするにしても、学園でカイルたちの動向を探るにしても、まずは何より「金」が要る。特待生の身分だけではこの危機は乗り越えられない。
「……やるしかないか。幸い、シエル直伝のハック手順(仕様の穴)は頭に叩き込んである」
レインは小さく首の骨を鳴らし、鋭いウォーカーの目を光らせた。
一人で学園の管理する書館の闇に潜り、システムの限界までレアアイテムを毟り取る。寂しさに浸る暇もない、レインの不敵で孤独な『ソロ盗掘ライフ』の幕が、今ここに切って落とされた。




