閑話その1:お嬢様、居酒屋の作法を猛勉強する
それは、レインを食事に誘った夜、外地実習の後のこと
「――『いざかや』、ですか?」
バレンシュタイン家が所有する城下町の高級私邸。その一室で、エレナの専属侍女である初老の女性――マルタは、主の口から飛び出したあまりにも不釣り合いな単語に、思わずお茶を淹れる手を止めた。
「ええ、そうですわ。学園の平民特待生……いえ、レイン君がお疲れのようでしたので、私からお食事でも、と思いまして」
エレナは紅茶を上品に口に含みながら、努めて冷静に、平然を装って答えた。しかし、わずかに赤くなった耳たぶまでは隠しきれていない。
「……お嬢様。お言葉ですが、バレンシュタイン家の令嬢が、そのような殿方と二人きりで、しかもよりによって『いざかや』などという大衆の酒場に赴くなど、外聞がよろしくありません。お誘いになるにしても、我が家御用達の三ツ星レストランの個室を手配いたしますが?」
「それでは駄目なのですわ、マルタ」
エレナはコン、と上質な磁器のカップをソーサーに戻し、コバルトブルーの瞳を真面目に輝かせた。
「レイン君は平民の出です。そのような格式張った場所では、気を使って落ち着いて食事ができないかもしれません。今回は私が彼を労うための席。ならば、彼が最もリラックスできる、日常の延長線上にある場所を選ぶべきだと考えますの」
「しかし、お嬢様は一度もそのような場所に足を踏み入れたことはないでしょう」
「ですから、今から予習をいたしますわ! マルタ、我が家の情報網(あるいは風紀委員のネットワーク)を使って、城下町で最も評価が高く、かつ秘匿性の高い『やきとりや』というお店をリサーチしてください。それと――」
エレナはすっと背筋を伸ばし、大真面目な顔で宣言した。
「市井の『居酒屋における一般的な作法』に関する資料を、至急集めてちょうだい」
数時間後。
エレナの机の上には、普段の魔導書や法律本の代わりに、風紀委員の平民ウェル(情報通)から裏ルートでかき集めた『大衆酒場の歩き方〜基礎から応用まで〜』といった怪しげな手書きのレポートが山積みにされていた。
エレナはペンを片手に、まるで国家機密の解読でもするかのような深刻な表情で資料を読み進めている。
「……なるほど。店に入った際、店主から人数を聞かれたら、人差し指と中指を立てて『二名だ』と告げる……。これは軍隊のサインの変形かしら? いえ、まずはこれを省略して『とりあえず、なま』と発声するのが、上級ウォーカーたちの間での暗黙の了解……。なま、とはおそらく、魔力を精製していない生の麦酒のことね。ふむふむ、大変興味深いですわ」
限界まで学園騎士服を押し上げている豊かな胸元を机に押し付け、熱心にノートを取るエレナ。
「そしてメインディッシュは『やきとり』。……まぁ、国産の鶏は現実世界より大柄で凶悪だというのに、それを串に刺して炭火で焼く? なんというワイルドな調理法……。これをいただく際は、ナイフやフォークを使わず、串を両手で持って横から直接噛みちぎるのが『粋』とされる……。いき……貴族の矜持のようなものでしょうか」
エレナは手元にあったペーパーナイフを焼き鳥の串に見立て、口元に近づけてみる。
「こ、こうかしら……? 『んむ、このねぎま、実にいかすぜ』……。い、いえ、口調まで真似る必要はありませんわね! 危ういところでしたわ」
一人で勝手にパニックになり、顔を真っ赤にしながらコバルトブルーの瞳を泳がせるお嬢様。
「それに、お酒……。我が国の法律では、魔力循環のために学園生の飲酒は認められているけれど、私は家での晩餐で、白ワインを薄めて数口嗜んだ程度……。もしレイン君の前で醜態を晒してしまったら、風紀委員長としての威厳が……」
エレナは自分の両頬をパチンと叩き、鏡に映る自分を見つめた。
「いいえ、弱気になっては駄目ですわ。地下3階層で、あの世界のバグを前にしても恐れず戦ったレイン君です。私もバレンシュタインの血を引く者として、庶民の『いこいのば』とやらに気後れするわけにはまいりません!」
ぎゅっと拳を握りしめ、はち切れんばかりの爆乳を誇らしげに揺らすエレナ。
その姿を扉の隙間から見ていた侍女のマルタは、深いため息をつきながら、そっと扉を閉めるのだった。
(……お嬢様。その斜め上の情熱を、もう少し別の方向に向けていただければよろしいのですが。これではまるで、初めてのデートに舞い上がるただの恋する乙女ではございませんか……)
こうして、徹夜で「居酒屋のハメ技」を完璧に叩き込んだエレナお嬢様は、限界突破寸前のブラウス私服姿で、緊張の面持ちで縄のれんをくぐることになるのである。




