第2章・第18話:深まる夜(第2章 完)
「……つまり、国の心臓部たる『真実の碑文』は、何者かによって最初から歪められていた……ということですわね」
個室の灯りの下、エレナのコバルトブルーの瞳が鋭く光る。
焼き鳥やだし巻き卵に感動していた先ほどまでの可憐な少女の姿は消え、そこにはバレンシュタイン家の誇り高き騎士、あるいは風紀委員長としてのエレナがいた。
「ああ。あれはシステムエラーなんて可愛いもんじゃない。意図的な改ざんだ」
レインは冷めた果実酒のグラスを弄びながら、声を潜める。
「カイルの記憶を封じ、歪んだ『編み物の亡霊』を生み出し、さらにマダムが沈黙を貫いた……。すべてのバグは、あの地下書館の最奥で繋がっていたんだよ」
「イグノタフ侯爵……カイル君の偽りの父親、ですわね」
エレナは小さく拳を握りしめる。だが、その直後――。
ふにゃ、とエレナの身体から急に力が抜けた。
「……ひゃい。ですから、私は……うぷす」
「おい委員長!?」
緊張の糸が切れた瞬間、一気にアルコールが回ったらしい。エレナの白い肌は耳の裏まで真っ赤に染まり、とろんとしたコバルトブルーの瞳で視線が定まっていない。立ち上がろうとした彼女の身体が大きく傾き、限界までブラウスを押し上げているその爆乳が、レインの腕に柔らかく押し付けられた。
「うふふ……レイン君、床が、床が回っておりますわ……? じ、地割れかしら……戦闘配置、ですわ……」
「戦闘配置じゃねえよ! 完全に出来上がってんじゃねえか!」
普段の凛とした姿はどこへやら、完全にフラフラになったお嬢様を放っておくわけにもいかず、レインはため息をつきながら彼女の細い腰を支えて店を後にした。当然、ここから先は真面目な作戦会議などできるはずもなかった。
◇
城下町の喧騒を抜け、レインはエレナの私邸へと向かっていた。
涼しい夜風に当たっても、エレナの千鳥足は直らない。それどころか、レインの肩に完全に体重を預け、「れ、レイン君は、冷たいようで、とってもお優しいですわね……」と、普段なら絶対に言わないような甘えた声を出しながら、むにゅむにゅと豊かな胸を押し付けてくる。
(頼むから早く着いてくれ……俺の理性がデッドエンドを迎える……)
生きた心地がしないまま、ようやく高級住宅街にあるエレナの立派な私邸へとたどり着き、門のインターホンを鳴らす。
すぐに大きな扉が開き、現れたのはエレナ付きの厳格そうな年配の侍女だった。
「――お嬢様!?」
侍女は、平民のラフな私服を着たレインにだらしなく抱きつき、完全に泥酔して幸福そうに寝息を立てているエレナの姿を見るや否や、その表情をこれ以上ないほどに凍りつかせた。
「……あの、これには深いワケが」
「……結構です。お嬢様をこちらへ」
侍女はエレナをレインから引き離すと、レインを蛆虫か何かを見るかのような、底冷えするほどに蔑んだ目で睨みつけてきた。言葉にせずとも「平民の分際で、我がバレンシュタイン家の至宝に不埒な真似を……万死に値する」と目が激しく語っている。
「……夜分に、失礼しました」
レインはそれ以上言い訳するのを諦め、逃げるようにその場を後にした。
「……ふぅ。命拾いしたぜ、色んな意味で」
ようやく解放され、冷や汗を拭いながら夜道を歩き始めた、その時。
「あら。プロウォーカーの相方ともあろう者が、ずいぶんと情けない顔をしてるじゃない?」
暗がりの街灯の影から、不敵な笑みを浮かべた少女が姿を現した。アメジストの髪を夜風に揺らした、シエルだった。
「シエル? お前、なんでここに……」
「プロウォーカーの勘よ。それよりレイン、あんな無防備で最高なお嬢様を送り届けて、手も出さないなんてね。……クスッ、『送り狼』にもなれなかったわけ?」
ジト目の中に明らかな嫉妬を滲ませながらも、どこか楽しそうに距離を詰めてくるシエル。レインは首の後ろをボリボリと掻きながら、呆れたように肩をすくめた。
「手を出せるかよ。エレナにはほとんど何も話せなかったんだぞ? なにぶん、あいつの酒が思った以上に進んじゃってさ……。真面目な考察どころじゃなかったっての」
「ふーん……? ほとんど話せなかった、ねぇ?」
その言葉を聞いた瞬間、シエルの表情が一変した。
それまでツンと尖らせていた眉が綺麗に和らぎ、アメジストの瞳が歓喜でパッと輝く。エレナとレインが二人きりで秘密を共有したわけではないと知り、胸の奥のモヤモヤが一瞬で吹き飛んだのだ。
「な、なんだよ」
「ううん? 別に? ……そう、バレンシュタイン家のお嬢様には、私たちの領域はまだ早すぎたってことね」
シエルはこれみよがしにふふんと鼻を鳴らし、レインの隣に並んで歩き出す。その足取りは明らかに軽やかで、自分が「一番の相棒」であるという優位性に、最高に酔いしれているのが丸わかりだった。
「やっぱり、あんたの解析力を理解して、一緒に最前線で戦えるのは私だけってこと。あの地下の『碑文』の件だって、あんたと私でしか解決できないんだから。でしょ、相棒?」
少し上目遣いに、しかし勝ち誇ったような笑みを向けてくるシエル。
「はいはい、そうだな。頼りにしてるよ、大天才プロウォーカーさん」
「ふん、わかればよろしい!」
満足げに胸を張るシエルの横顔を見ながら、レインは苦笑しつつも、懐の『昏き結晶』に触れた。それはまるで、次なるステージへの「招待状」のように静かに冷たく脈打っていた。
二人は夜の闇に溶け込むように、次の目的地へと歩みを進める。
◇
深夜。学園の最上階。
誰もいないはずの学長室の扉を、レインはノックもせずに静かに開けた。
部屋の奥、月光が差し込む大きなデスクの前に、一人の人物が座っていた。この世界のすべてを見通しているかのような深い眼差しを持つ、学園の最高権力者――学長である。
「遅かったね、レイン・ガレット。外地実習の『真の報告書』は、持って帰れたかね?」
学長は驚く風もなく、冷たい微笑を浮かべてレインを見つめる。
レインはデスクに歩み寄ると、懐からあの黒く妖しく光る『昏き結晶』を取り出し、コン、と重い音を立てて机の上に置いた。
「ああ、持ってきたぜ、学長。あんたの言った通り、あの地下書館はただの迷宮じゃなかった」
レインの目が、バグを冷酷に見切る優秀なウォーカーとしての光を放つ。
「カイル・イグノタフの記憶改ざん、国のエネルギーの不正流用、そして姿を消した亡霊マダム……。あのクソ迷宮は、地上で行われている『国家規模の不正アクセス』の、ほんの端末に過ぎなかった。……あんた、最初からこれを知ってて俺たちを落としたな?」
レインの追及に、学長は深く椅子に腰掛け、満足そうに目を細めた。
「ククク……やはり君を選んで正解だった。平民の特待生、規格外の異分子よ。君なら、この歪んだ世界の『バグ』をすべて暴いてくれると信じていたよ」
月明かりに照らされた結晶が、不気味に真っ赤な光を一瞬だけ放つ。
地下の闇を脱出したレインたちを待ち受けていたのは、学園、貴族、 tenderそして国家をも巻き込む、さらに巨大で最悪な「メインシナリオ」の幕開けだった。
世界のシステムを解析する能力、そしてウォーカーとしての意地を賭けた、レイン・ガレットの不条理な世界への反逆は、ここから加速していく――。
(第2章・地下書館の亡霊編 ――完――)




