第2章・第15話:帰路
「……ようやく、戻れるのね」
シエルがアメジストの瞳を薄く開き、深いため息をもらした。
地下3階層の最奥、国の心臓たる『真実の碑文』を後にした四人の足取りは、ひどく重い。
『編み物の亡霊』との死闘、そしてカイルの凄惨な過去の開示と記憶の濁流による精神的疲弊――全員の体力と精神力は、とっくに限界を迎えていた。
「おい大天才、足元がフラついてんぞ。また白い糸にでも引っかかってんのか?」
「……ふん。誰に向かって言っている、レイン・ガレット。この程度の疲労、イグノタフの次期当主たる私にとっては散歩のようなものだ」
カイルはいつもの傲慢な口調を返してはくるものの、その顔は青白く、額にはべっとりと冷や汗が滲んでいる。だが、その瞳の奥に宿る黄金の炎だけは、記憶を取り戻す前とは比較にならないほど鋭く静かに燃えていた。
来た道を逆に辿り、地下3階層から2階層、そして1階層へと戻る過酷な帰路。
主を失ったはずの地下書館は、それでもなお侵入者を拒むように、道中で貪欲な亡霊たちの残党を繰り出し、四人の行く手を阻んできた。
グルルルル……ッ!
暗闇から突如として飛び出してきたのは、血の匂いを漂わせる獰猛な『猟犬』の残党だった。ぬいぐるみではなく、実体化された本物の獣の牙が、カイルの喉元へ迫る。
「――そこですわ!」
カイルが反応するより早く、銀色の軌跡が空間を裂いた。
エレナが限界の身体を極限の根性で動かし、神速の騎士剣で猟犬の首を正確に一刀両断する。
「カイル君、しっかりなさい! 地上に着くまでが実習ですわ!」
「くっ、すまない……エレナ」
ズガァン! ズガァン!
さらに背後から這い寄ろうとしていた『処刑人』の影を、レインが振り返りもせずに魔導銃の散弾で撃ち砕く。
凄ましき威力と、レインの手に吸い付くような抜群の取り回しの良さ。レインは硝煙を上げる銃口を軽く見つめ、隣を歩くシエルに不敵な笑みを向けた。
「しかし、やっぱりお前からもらったこの銃、最高だな。魔力の伝達効率もいいし、このクソゲーみたいな迷宮でもきっちり狙い通りに動いてくれる。いい買い物をしたぜ」
「ふん、プロウォーカーの私が選んだカスタムよ? 当然じゃない」
シエルは鋭く言い返しながらも、アメジストの髪の隙間から覗く耳の先を少し赤くし、嬉しそうにアメジストの瞳を細めた。「使いこなせてるみたいで良かったわ」
「ああ、愛用させてもらう。……それはそうと、だ」
レインは銃の排莢をカリンと落としながら、一転して声を潜め、シエルにだけ聞こえるトーンで話しかけた。
「……ねえ、レイン。あなたも気づいてるのね」
シエルの横顔には、先ほどまでのやり取りとは違う、深い「不信」の念が浮かんでいた。
「ああ。あのババア――マダムが一度も出てこねえ」
そう、地下書館の管理人であり、この世界の最悪な運営側であるはずの老婆マダム。
国の心臓である【真実の碑文】がレインの『昏き結晶』によって強制ハッキングされ、システムが真っ赤に染まったあの異常事態の最中でさえ、彼女は一切姿を現さず、何の干渉もしてこなかったのだ。
「思えば、あの『館長』を俺たちがぶちのめして以来、あのババアは一度も姿を見せてねえ」
レインの言葉に、シエルがハッと息を呑む。
書館の管理人であるマダム、そしてかつてこの迷宮の主として君臨し、レインとシエルの手によって討伐された『館長』。マダムは、その館長の**「母親」**だった。
「マダムは書館の亡霊だ。地上の光を浴びる肉体を持たない以上、この地下から外へは絶対に出られない。……それなのに、息子の仇である俺たちが目の前をうろついても、国家のエネルギー源(碑文)がハッキングされても、完全に沈黙を貫いてる。この残党どもも、ただの自動防衛プログラムが勝手に動いてるだけだ」
レインの脳内で、プログラマー、そしてゲーマーとしての違和感が肥大化していく。
地上の人間と共謀して外に出ることも不可能なはずの亡霊が、なぜこの有事に一切の干渉をしてこないのか。その理由は、今のレインたちの知識ではまったく説明がつかない**「未知の謎」**だった。
「出てこられないんじゃなくて、出てこない……。何か、私たちが想像もつかないような別の意図があるのかしら」
シエルがアメジストの瞳を険しく輝かせる。
「あるいは、もっと最悪な『初見殺しのギミック』の仕込みの真っ最中か、だな。……どのみち、あのババアがこのままタダで引き下がるとは思えねえ」
レインの言葉に、シエルの背筋に冷たい戦慄が走った。
他国のスパイの潜入、学園のエネルギー問題、カイルの過去、そして沈黙を続けるマダムの謎。それら全てのピースが、自分たちの預かり知らぬ場所で、さらに巨大な『最悪のシナリオ』として結びついている予感がしてならない。
「二人とも、遅れておりますわよ! 扉が見えましたわ!」
前方を歩くエレナの声が響く。
見上げれば、重厚な地下書館の正面玄関――地上へと繋がる光の隙間が、ようやく彼らの視界に飛び込んできた。
疲弊しきった体を引きずりながら、四人はついに暗黒の深淵を脱出する。
しかし、安息が待っているはずの地上には、地下の闇よりもさらに深く歪んだ『イグノタフ家の陰謀』が、不気味な静寂を保ったまま彼らを待ち受けているのだった。




