第2章・第8話:カイルとレイン
時計台の重厚な扉を抜け、カイル・イグノタフが突き落とされた先――そこは、まだ本格的な脅威が牙を剥く前の場所、地下書館の「1階層」だった。
「痛っ……! な、何をするんだ平民! いきなり背中を押すなど、野蛮にも程があるぞ!」
埃っぽい石畳の上に尻餅をついたカイルは、持たされたランタンを掲げながら抗議の声を上げた。彼の背後では、レインとシエルが悠然と階段を降りてくる。
レインはカイルを見下ろしながら、ふと――テストの為に緋色の本を手に入れる為に書館に潜ったことを思い出していた。今思えば数日前なのにかなり時間をたったように思えた。
あの時、廊下でカイルとすれ違った際、お互いに一瞥もくれず「見ぬふり」を貫いた。学園の頂点に立つ名門貴族と、最底辺の平民特待生。関わるメリットもなければ、住む世界も違う。それが二人の間の『暗黙のルール』だったはずなのだが、今や完全にその均衡は崩れ去っていた。
「悪い悪い。お前があまりにも立派な覚悟を決めてたから、つい背中を押してやりたくなってな。……で、どうだ? 初めて入る地下書館の感想は」
レインが探るような視線を向けると、カイルは制服の汚れをパンパンと払いながら、わざとらしく鼻で笑ってみせた。
「ふん。薄汚くてカビ臭い、最底辺の空間だな。このような場所に、イグノタフ家の次期当主である私が足を踏み入れたなどと知れれば、一族の恥だ。……まったく、右も左も分からない未知の場所だが、エレナを救うためでなければ1秒たりとも居たくないね」
カイルは「初めて来た」と豪語しているが、彼の足取りには妙な迷いがなかった。
実はカイルにはカイルで、過去にこの地下書館へ足を踏み入れ、『何か』を探していた事情があるのだ。その理由も背景も不明だが、当然、レインにそれを話す義理など欠片もない。ましてや「このような平民に、貴族の苦労など見せるに足らず」と、固く口を閉ざしている。
今はただ、風紀を重んじる彼のエベレストより高いプライドが、「書館に入り撤退していた」という事実をひたすらに隠蔽し、知らぬ存ぜぬを決め込ませているだけだった。
「へえ、初めてねぇ……」
レインはカイルの露骨な強がりを鼻で笑い、2階層へと続く階段を下りながら、ふと核心を突く質問を投げかけた。
「なぁ、カイル。じゃあついでに聞くけどよ。お前、いつだったか、2階層で俺とシエルに『共鳴の魔導インゴット』をよこしてきたよな?」
ピタッ、と。
カイルの足が止まった。
レインの脳裏に、以前の光景が蘇る。
あの時、カイルはレインの隣に立つシエルの姿を一瞬だけ冷ややかに見つめると、手にした高価なインゴットを……なぜか、そのまま床の遺稿の山へとポイと放り捨てたのだ。まるで「こんなゴミは要らない」とでも言うように。
結果的にそれがレインたちへの命を繋ぐ『パス』となったわけだが、あの行動の真意はずっと引っかかっていた。
一方のカイルの内心は、冷たく影を落とす。
(―― あの時のことか... 私が探していたものは結局見つけることができなかった。さらに潜らねば見つかるまい。)
カイルは強靭な精神力で影ををねじ伏せると、心底気味の悪いものを見るような目を作り、レインを振り返った。
「……な、何を言っているんだ君は?」
「いや、だからインゴットを――」
「私が! 君のような平民に! 高価な『共鳴の魔導インゴット』を譲渡するだと!? 妄言も大概にしたまえ! そもそも私はこの地下に来るのは初めてだと言っているだろう! 恐怖のあまり幻覚でも見ているんじゃないのか!?」
顔を真っ赤にして、さも心外だとばかりに声を荒げるカイル。
あまりにも堂々としたそのシラ切りっぷりを見て、レインは目を丸くし――やがて、小さく息を吐き出して呆れたように納得した。
(……なるほどな。こいつ、死んでも自分から助けたとは認めない気だ)
カイルははっきりと覚えている。だが、絶対に明かそうとはしない。
その見栄とプライドの塊のような姿を見て、レインの口元にさらに深い悪党の笑みが浮かんだ。なんでもかんでも己の矜持で正当化してしまうおめでたい貴族様。デコイとしてはこれ以上ないほど最高の逸材だった。
◇
AM 0:15(地下2階層・セーフハウス)
1階層の小規模な怪異を(カイルが無意識の経験則で)蹴散らし、一行は2階層の安全地帯であるセーフハウスに到達した。
重い鉄扉を開けると、そこには、蝋燭の灯りに照らされながら静かに待つ風紀委員長・エレナの姿があった。
「エ、エレナ……! 無事だったか!」
カイルは顔をパァッと輝かせ、駆け寄った。
女子生徒の密告通り、やはりエレナはこんな恐ろしい場所に囚われていたのだ。自分の騎士としての行動は間違っていなかったと、カイルは歓喜に打ち震えた。
「カイル・イグノタフ……よく、来てくれましたね」
エレナは少しだけ目を伏せ、胸が痛むのを堪えながらカイルを見つめた。
(ごめんなさい、カイル君。何も知らないあなたを囮にするなんて……。でも、他国のスパイや国家のエネルギー問題などという重すぎる真実に、あなたを巻き込むわけにはいかない。だからこそ、学園の問題という嘘で……!)
エレナはレインから事前に仕込まれた「台本」を脳内で反芻し、毅然とした風紀委員長としての顔を作り上げた。公的な顔を作った彼女の口調から、普段のお嬢様言葉は完全に鳴りを潜めている。
「実は、あなたにお願いがあります。このさらに下……地下3階層にある『特定の魔導書』を回収しなければ、学園の規律に関わる重大な問題が解決しません。ですが、3階層は私やレインのような未熟な者の手に負える場所ではないのです」
エレナは両手でカイルの手を包み込み、真っ直ぐに彼を見つめた。
「学園一の実力者であり、高潔なあなただけが頼りなのです。どうか、私たちの先頭に立って、その光で闇を切り開いてくれませんか?」
「――ッ!!」
カイルの脳内で、何かが弾ける音がした。
皆から一目を置かれているエレナからの「あなただけが頼り」「先頭に立って」という言葉。それは、イグノタフ家に代々伝わる『ノブリス・オブリージュ』の精神に火をつけるには、致死量を超える劇薬だった。
「……もちろんです、エレナ。このカイル・イグノタフ、貴女の願いとあらば、いかなる深淵であろうとも切り開いてみせましょう!」
カイルは、手に持った『疑似生体デコイ・ランタン』を天高く掲げ、マントを翻した。
「さあ、ついてきたまえ平民ども! この私が、貴様らの盾となり道標となってやろう!」
自信に満ち溢れたドヤ顔で、カイルは勢いよく3階層へと続く扉を蹴り開けた。
その頼もしすぎる(そして哀れすぎる)背中を見送りながら、レインは極悪非道な笑みを浮かべ、シエルは静かに武装の最終チェックを始めたのだった。




