第2章・第7話:ノブリス・オブリージュ 高潔な騎士の精神
「……いい? カイルをおびき出す理由は、ただの『呼び出し』じゃダメよ。あいつはプライドだけは一丁前だから、不審に思ったら来ないわ」
薄暗いアジトの中、私は即席の魔導具をいじりながらレインに釘を刺した。
魔導液を不法廃棄したペナルティは、一度リセットされたこの時間軸ではまだ発生していない。つまり、それを理由にカイルを脅すことはできないのだ。
「分かってる。あいつの歪んだ自尊心と、委員長への下心を突けば一発だ」
「下心、ですか……?」
エレナが複雑そうな顔で首を傾げる。レインは悪党そのものの笑みを浮かべ、彼女を指差した。
「『風紀委員長のエレナが、夜の時計台裏で怪しい平民に弱みを握られて密会している。カイル様、助けてください』……って、適当な特待生の女子生徒に泣きつかせる。あいつなら、ノブリス・オブリージュの精神を滾らせて、這ってでも来るはずだ」
「最低ですわ……! でも、確かにカイル君なら、絶対にすっ飛んできますわね……」
エレナが複雑そうな顔でため息をつく。
実際のところ、カイル・イグノタフという男は、傲慢で鼻持ちならないエリートではあるが、同時に「持てる強者は弱者を保護せねばならない」という貴族の義務を狂信的に重んじる、歪んだ真っ直ぐさを持っていた。それがイグノタフ家が掲げる不変の矜持であり、彼がただの小悪党になりきれない最大の弱点でもある。レインはその「おめでたい高潔さ」を完璧に見抜いていたのだ。
これにて生贄の確保ルートは確定。時計の針が15時を回ったところで、私たちの秘密の作戦会議は一度解散となった。
「あ、あの……! 私、やはりこれ以上はサボれませんわ! 午後の支持率調査の書類が残っていますの! それに、風紀委員長が夜まで無断欠席なんて、私の誇りが許しません!」
限界を迎えたエレナが、涙目でそう叫んで学園へと走って戻っていった。根が真面目な委員長様だ、むしろここまでよく耐えたと言うべきだろう。
「じゃあ、俺たちも夜に向けて動くか」
「ええ。私は闇市場を回って、チャフの信管と反射シールドの出力を上げる触媒を調達してくるわ。0時に対象の扉前でね、レイン」
私は銀鍵をポケットに滑り込ませ、夜の帳が下りつつある街へと消えた。
◇
シエルと別れたレインは、作戦開始までの時間を潰すため、そして一度自分の『ステータス』を落ち着いて整理するために、数日ぶりに「自宅」へと向かった。
学園の華やかな貴族街から外れ、薄汚れた路地裏をいくつか抜けた先にある、场末の下宿。
外観は、お世辞にも立派とは言えない。年季の入った赤レンガの壁には蔦が絡まり、雨風に晒されてところどころが黒ずんでいる。建付けの悪い木製のドアを開けると、ギィ、と不快な音が響いた。
内観は、いかにも「冴えない平民の特待生」の部屋そのものだった。
四畳半ほどの狭い空間。ギシギシと音を立てる安物のベッドに、魔法のインクで汚れた木製の机。壁の棚には、学園で支給された退屈な教科書と、解読の途中で放り出されたような古い魔導書の写しが乱雑に積み上がっている。カーテンの隙間から差し込む西日が、部屋の中に浮遊する埃を白く照らしていた。
お嬢様のエレナや、プロとして稼いでいるシエルの拠点に比べれば、あまりにも酷い格好だ。
だが、レインはこの狭く、少しカビ臭い部屋のベッドに大の字に寝転がり、天井を睨みつけながら不敵に笑った。
(環境は最悪。持たされた手札も最下等。……だけど、だからこそ、このクソゲーをシステムごとハメ殺すのが堪らねぇんだよな)
一度味わった『死』の恐怖は、すでにない。あるのは、完璧な攻略ルートを構築したゲーマーとしての、ゾクゾクするような高揚感だけだった。
◇
――その頃。
レインの手のひらの上で、これ以上ないほど綺麗に踊らされていた男がいた。
カイル・イグノタフである。
時計の針を、同日の放課後へと巻き戻す。
PM 16:00(学園・中央講堂裏)
「――カイル様! お願いです、どうかお力をお貸しください……っ」
風紀委員の腕章をつけた、小柄な下級生の女子特待生(レインが昼過ぎに買収した協力者)が、今にも泣き出しそうな顔でカイルの制服の袖に縋り付いていた。上目遣いに潤んだ瞳で必死に訴えかける彼女の姿に、カイルはふっと髪をかき上げ、名門イグノタフ家の長男としての余裕を崩さず、極めて優雅に微笑んでみせる。
「どうしたんだい? 私に解決できない問題など、この学園にはないよ。お嬢さん、涙を拭いて話を深く聞かせてごらん」
「は、はい……! 実は、風紀委員長のエレナ様が……あの、例の平民の特待生、レインに弱みを握られて、今夜の深夜0時、時計台の地下書館に無理やり呼び出されているのです。エレナ様は『風紀委員長としてのプライドがあるから、誰にも頼れない』と仰っていて……! 頼れるのは、学園一の実力者であるカイル様しかいないと思い、こうして規律を破ってご相談に上がったのです!」
「何だと……!?」
カイルの端正な顔が驚きに変じる。
脳裏に浮かぶのは、気高く美しいエレナの姿と、あの忌々しい平民の顔だ。普通の生徒であれば、特別な目的や金策でもない限り絶対に立ち入らない、危険で不気味な地下書館。そこにエレナが呼び出されているという事実が、話の深刻さを物語っていた。
(あの身の程知らずの平民め、エレナを脅して一体何を企んでいる……!? それに、エレナほどの人間が誰にも頼れず、一人で抱え込んで涙を流しているというのか……)
女子生徒は震える手で、懐から古めかしい、しかし妙に神聖な光を放つ魔導ランタンを取り出し、カイルの手元へと捧げた。
「これはエレナ様が普段使われている魔導ランタンです。地下の深い闇夜を優しく照らして、カイル様をエレナ様の元へ安全に導いてくれるはずです。……カイル様、どうかエレナ様をお救いください!」
「ふっ……。合点がいったよ。素晴らしい密告だ、君の勇気を称えよう。あとはこの私に任せて、君は安心して教室に戻るといい」
カイルは可憐な女子生徒からランタンを受け取り、強い使命感に目を輝かせた。
(待っていなさい、エレナ。君がどれだけ頑なに一人で背負おうとも、私が必ずその闇を払ってみせる。……実力も血統もないレイン、君がどんな卑劣な手段を使おうと、私の目の前でエレナに指一本触れさせはしない!)
彼にとって、これは下心による火事場泥棒ではない。
弱きを助け、悪を挫く――名門イグノタフ家に生まれた者に課せられた、絶対の義務を果たすための戦いだった。
◇
PM 23:45(そして、現在へ)
カイルは確固たる覚悟を胸に、地下書館の扉前へとやってきた。
しかし、そこにいたのはエレナではなく、あの忌々しい平民、レインだけだった。
「……おい。遅いぞ、平民。エレナはどこだ!?」
カイルはランタンを握りしめ、厳しい声を上げる。だがその直後、背後の闇から現れたのは、今朝廊下で見かけたあの物々しいプロウォーカー装備の美女――シエルだった。
「だ、誰だお前は!? なぜこんな場所に……」
「ご苦労様、カイル君。よく来てくれたわね。あなたの上等な魔力、有効活用させてもらうわ」
シエルの冷徹な瞳。そして、レインの悪魔のような笑み。
ここでカイルは、何かが決定的に狂っていることに気づく。エレナの姿はどこにもなく、自分が持たされたランタンからは、先ほどから異常なほどの魔力吸引の波動が放たれている。
「おい、レイン……これはどういうことだ? エレナが君に脅されていると聞いて、私は……!」
カイルは困惑しながらも、毅然とした態度でレインを睨みつける。
「……フン、まさか私をハメるための罠だったのか? だが、これだけは言っておくよ。私は君のことが大嫌いだが、もし君が本当に地下の怪異に怯え、助けを求めて私を呼んだのだとしたら、私は手助けだってしてやるさ。いくら嫌いな庶民にだってね。私たち貴族には、ノブリス・オブリージュ(高貴なる者の義務)があるからね」
カイルはフッと自嘲気味に笑い、ランタンを掲げてみせた。
その真っ直ぐで、あまりにも純粋すぎる「貴族の誇り」に、レインは一瞬だけ呆気に取られたように目を丸くし――次の瞬間、ククッ、と肩を揺らして吹き出した。
「……ハハッ、最高だなお前。マジで上等な貴族様だよ」
時計台の鐘が、深夜0時の訪れを告げる重低音を響かせた。
ゴーーーーン……。
「よし、時間ぴったりだ。……おいカイル、お前がノブリス・オブリージュの精神に溢れた大天才で本当に良かったよ」
レインがカイルの背中に手を回し、底知れない悪意の笑みを浮かべる。
「お前は今から、俺たちの『主役』になるんだよ。高貴なる義務だ、先陣を切って肉の盾になってくれよな、名門貴族様」
「な、何を言って――うわああっ!?」
ドカッ! と容赦ない力で背中を押され、カイルは暗黒の地下3階層へと、文字通り「生贄」として放り込まれた。
純粋な正義感と誇りを抱いたまま、哀れなイグノタフ家の大天才は、最悪のクソゲーの戦場へと真っ先に躍り出ることになった。




