第2章・第4話:未踏の3階、無情の洗礼
深夜、午前0時。
静寂と闇に包まれた街『時計台の書館』に、レイン、シエル、エレナの3人は潜入していた。
1階の重い扉を押し開けて中に入るが、館内はやけに静まり返っている。
いつもなら怪しく明かりを灯し、こちらをじっと見つめてくるはずの【動くランタン】たちが、すべて無残に破壊され、床に転がっていた。
潜入の直前、エレナは声を大にしてこう言い放っていた。
『遅いわ、レイン・ガレット! 風紀委員長エレナ・ヴァレンシュタイン、これよりあなたの『特別更生実習』の監視兼護衛を務めます! そこの不審な聴講生の少女シエルも、私の足を引っ張らないように!』
しかし、暗闇に包まれた1階を進む中、レインは彼女の歩調がほんのわずかに乱れていること、そして腰に帯びた騎士剣の柄を握る手が不自然に強張っていることに気づいていた。
レイン:「なぁエレナ。さっきの威勢のいい口調、もしかして無理してないか? 肩に力が入りすぎだろ」
エレナ:「……ッ!? な、何を言っているのですか、レイン・ガレット! 私は風紀委員長として、あなたたちのような問題児に舐められないよう、毅然とした態度を維持しているだけです!」
エレナはツカツカと前を歩きながら早口で言い返す。だが、その声はどこか上調子で、耳の裏までうっすらと赤くなっているのが暗がりでも分かった。
レイン:「いや、ボロが出てる。イントネーションが時々、どこぞの令嬢みたいに上品に跳ねてるぞ。お前、本当はお嬢様育ちだろ」
エレナ:「な……っ!? な、なぜそれを……! いえ、違います! 私は厳格なる学園の番人であって――」
エレナの脳裏に激しい葛藤が渦巻く。
(ああ、どうしましょう……! お嬢様だと知られれば、また周囲から腫れ物扱いされたり、からかわれたりしてしまう。風紀委員長としての威厳を保ち、この二人をしっかり引っ張っていかなければならないのに。ここで素の私を見せるわけには……っ!)
エレナは必死に唇を噛み締め、仮面を維持しようと踏みとどまろうとする。しかし――。
シエル:「ふふ、やっぱり。私も薄々そうだと思ってたわ。エレナ、そんなに必死に『怖い委員長』を演じなくても、誰もあなたを舐めたりしないわよ? 私は今のあなたも格好いいと思うし」
シエルの優しく、全てを包み込むような眼差しが、エレナの頑なな心を内側から溶かしていく。
(……あ、温かい。このお二人なら、本当の私を見せても、笑ったり拒絶したりしないのかしら……)
数秒の沈黙の後、エレナはついに肩の力を抜いた。大きくため息をつくと、彼女の纏う「棘のある空気」が完全に霧散した。
エレナ:「うぅ……バレてしまいましたのね。必死に『恐ろしい委員長』の仮面を被っていましたのに……。……もう構いませんわ! これからは素の私で行かせていただきます!」
ふくれっ面をしながらも、どこか吹っ切れたように楽しげな笑顔を見せるエレナ。そのギャップに、シエルも「その方がずっと素敵よ」と微笑む。1階の暗い通路を進む短い時間の中で、三人の間にあった見えない壁は、確実に溶け去っていった。
◇
階段を上がり、不気味な空気が漂う2階へと進む。
廊下の天井から、粘つくような嫌な音が響いたのはその時だった。
――ギチ、ギチ、ギチチ……。
天井の闇、そして黒焦げの本棚の側面に、重力を完全に無視して『それ』は張り付いていた。
書館の2階を這い回る、高機動型の亡霊――【追跡者】。
エレナ:「ひっ……!? な、なんですのあの梅雨時の湿った雑巾を煮詰めるどころか、顔面が裂けて真っ赤な舌を垂れ流している悪趣味な生き物は……! 気持ち悪いですわ! 早く私の視界から消え失せなさい!」
エレナは本気で嫌悪を露わにしながら、腰の騎士剣を鮮やかに引き抜いた。
熱を感知したチェイサーが、重力を無視して壁を蹴り、無音の猛烈な速度でダガーを突き出して肉薄する――。
レイン:「危ない、伏せ――」
レインの警告すら、彼女の神速の前には遅すぎた。
エレナは身を翻すと同時に、騎士剣を鋭く一閃させた。
――キィィンッ!!!
静寂を切り裂く硬質な金属音と、目も眩むような魔力の輝き。
直撃。あの悍ましく強靭なチェイサーの身体が、一瞬の交差で十文字に一刀両断され、霧が晴れるように跡形もなく完全に消滅した。塵一つ残らない、圧倒的な技量と破壊力。
レイン:(……おいおい、マジかよ。あの化け物を相手に、剣の一振りで……。とんでもない戦闘力だな……)
シエル:(……高機動型のチェイサーを、目視すらさせずに一撃なんて……)
エレナの規格外の強さに、レインとシエルは一瞬言葉を失い、内心で激しく戦慄した。
しかし、当の本人は「ふぅ、すっきりしましたわ。あの舌が触れたらと思うとゾッとしますもの」と、騎士剣を鞘に収めて何事もなかったかのように歩き出す。その先の廊下の隅に、奇妙な形をしたオブジェクトが転がっているのが目に留まった。
レイン:「……おい、足元に何かネズミみたいなのがいるぞ」
エレナ:「あら? 本当ですわ、レイン君! なんて可愛らしいネズミさんでしょう!」
先ほどの戦闘の緊張感はどこへやら、エレナは目を輝かせ、躊躇なくそれを拾い上げてしまった。ピンク色の妙にリアルなネズミ―その名も『チューチュー爆弾(♂)』だ。
シエル:「ちょっとエレナ! 触っちゃダメ、離しなさいってば! それ、どう見ても危ない魔導具よ!」
エレナ:「ええっ? でもシエル様、こんなにつぶらな瞳をしていますわよ? ほら、ちゅーちゅー鳴いて……あ、あれ? 急に目が真っ赤に……?」
シエル:「嘘でしょ、起動したの!? それ、標的が『男性』だと、お尻を執拗に追いかけて感知した瞬間に直撃・大爆発するっていう、最悪の男好き誘導爆弾なのよ!!」
『チューチュー!』と猛烈な鳴き声を上げ、エレナの手をすり抜けたネズミ型爆弾は、迷うことなく室内にいる唯一の男――レインの背後へと猛スピードで突撃を開始した。
レイン:「おい嘘だろ、こっち来るなァァァーーーッ!?」
エレナ:「まあ! なんて情熱的なネズミさんかしら!」
シエル:「感心してないでレインを助けなさい!!」
お尻を狙って猛追してくる悪趣味な爆弾から、全力で逃げ惑うレイン。廊下を何周も全力疾走した末、ついに限界を迎えたレインの足がもつれた。
レイン:「しまっ――」
倒れ込むレイン。その背後から肉薄するピンクの悪魔。
――チュドォォォーーン!!!
凄まじい爆音と煙が上がった。レインのお尻の、ほんの数センチ手前での大爆発。
爆風に吹き飛ばされたレインは、悶絶しながら床にのの字を書いて突っ伏した。
レイン:「い、痛っ……! クソ、お尻が若干焦げただろこれ……!」
涙目でパニックになりながら、レインはよろよろと立ち上がり、ズボンの後ろをめくってシエルへと向けた。
レイン:「なぁシエル! 頼むから見てくれ! 俺のお尻、ちゃんと無事か!? 取れたりしてないよな!?」
シエル:「ちょっと、何を見せてるのよバカレイン!」
シエルは顔を真っ赤にしながらも、冷ややかな手つきで懐から自身の武器である『魔導鍵』を取り出した。正式には解錠のための魔導具だが、その鋭利な先端をお尻を突き出しているレインの、まさにその中心へとカチリと突き立てた。
シエル:「……心配しなくてもお尻は取れてないわよ。でも、そんなに鍵穴を開けてほしいなら、この魔導鍵をそのまま突き刺して、あなたの『後ろの扉』を強制解錠してやろうかしら?」
レイン:「ひっ……!? ごめんなさい、もうしません! 鍵閉めといて、ガチで閉めといて!!」
シエルの冷酷極まりない脅しに、レインは悲鳴を上げて飛び退いた。そんな二人のやり取りを見て、エレナが「お仲がよろしいのね」とクスクス笑う。
◇
そんな騒がしい一幕を終え、3人は2階の中央に位置する『館長室』へと到着した。
かつて書館を管理していた者の部屋。最悪の管理者、今は主を失い埃を被った重厚なデスクと大きな本棚が並んでいる。部屋のあちこちを見渡し、レインがふと息を吐いた。
レイン:「それにしても、エレナがいてくれて本当に助かったよ。いつも俺たち二人だけだったから、さっきみたいな高機動型の魔物に出くわしてたら、泥沼の激戦になってたところだ」
シエル:「ええ、本当に。いつもレインがボロボロになりながら囮になって、私が後ろから必死に隙を突いて……。毎回、肝が冷えたもの」
レイン:「ああ。背中を預け合って死線を潜り抜けるのは慣れてるけど、さすがに毎回満身創痍じゃ身が持たないからな。エレナの一撃は本当に頼りになる」
二人は顔を見合わせ、苦笑しながらも、これまで二人で乗り越えてきた確かな信頼の絆を確かめ合うように微笑んだ。
その様子を少し離れた場所から眺めていたエレナが、小走りで近寄ってきて目を輝かせる。
エレナ:「まあ……お二人だけで、そんな激しい戦いを幾度も乗り越えてこられましたのね。レイン君が身を挺して、シエル様が応える……お互いを信じて死線を潜り抜けてきたなんて、なんだか、少し羨ましいですわね」
エレナは少し寂しげに、けれど嬉しそうに微笑みながら、胸の前で両手をきゅっと握りしめた。
エレナ:「私も風紀委員長なんて職務についていますけれど、いつも一人で校内を見回るばかりでしたの。こうして信頼できる殿方や、背中を任せられるお友達と『一緒の戦い』を紡いでいく……。そういう絆に関われること、私、今とっても光栄に思っていますのよ?」
彼女の素直で温かい言葉に、レインもシエルも胸が熱くなるのを感じた。
レイン:「エレナ……。ああ、お前がいてくれて心強いよ。3人で、この書館の謎を絶対に解き明かそう」
シエル:「ええ、頼りにしてるわ、エレナ」
エレナは「ええ、お任せあそばせ!」と、満面の笑みで応えた。3人の心が、この館長室で完全に一つに重なった。
◇
館長室を後にし、2階の最奥、3階へと続く大階段を上りきった時だった。
三人の足が、ピタリと止まった。
目の前にそびえ立つのは、3階のエリアを隔てる巨大な黒鉄の二連扉。
だが、その佇まいは異常だった。扉の表面には、まるで生き物の血管のように禍々しい赤黒い呪詛の文様がびっしりと走り、不気味な脈動を繰り返している。
じっとりとした、肌を刺すような寒気が立ち込めていた。
そこから漏れ出てくる空気は、1階や2階の比ではない。濃密すぎる魔力と、鼻を突く鉄錆のような血の臭い。深淵の底から見つめられているかのような圧倒的な圧迫感に、レインの背筋に冷たい汗が伝う。
さっきまでの館長室での温かい絆や、お尻を巡るふざけた空気は、その物々しい光景を前に一瞬で消し飛んだ。
エレナ:「……これは、ただ事ではありませんわね。この先に流れる魔力の質が、先ほどまでのフロアとは完全に異なっていますわ」
エレナが再び騎士剣の柄に手をかけ、声音を硬くする。その横顔には、さっきまでの余裕は一切ない。
シエル:「ええ。結界の強度が跳ね上がってる。この扉を開けたら、何が起きるか分からないわ……。レイン、警戒を最大にして」
レイン:「ああ。……行くぞ」
レインがごくりと唾を飲み込み、重い黒鉄の扉に手をかける。
鍵は開いている。シエルの鍵の出番は無さそうだ。
ギリ、ギギギ……と、錆びついた悲鳴を上げて扉がゆっくりと開いていく。その先に広がるのは、完全な、光なき闇。
一歩、足を踏み入れた。
――その、瞬間だった。
パァン、と乾いた音が鼓膜を揺らす。
エレナ:「え――」
何が起きたのか、理解する暇すらなかった。
エレナの胸に、一瞬で風穴が空いた。彼女はお嬢様らしい気品を保つ暇すらなく、糸が切れた人形のように床に崩れ落ちる。
シエル:「エレナ!? うそ、あ――」
さっきまで未来の絆を誓い合っていた大切な友の死に、シエルが悲鳴を上げて手を伸ばした。だが、それよりも早く、2発目の見えない閃光が彼女の眉間を正確に撃ち抜いた。
ドサリ、と重い音が静かな3階に響く。
つい数秒前まで、館長室で笑い合っていたはずの二人が、物言わぬ死体となって床に転がっていた。
冷酷無比な、初見殺しの狙撃魔法。
レイン:「シエル……ッ!! エレナァァァーーーッ!!」
頭が真っ白になり、全身の血が逆流するような怒りがレインを突き動かした。
罠の正体も、敵の姿もない。それでも、仲間を奪われた激昂のままに、暗闇の奥へ飛び出そうとした――。
ドシュッ。
鈍い音がして、レインの視界が大きく跳ね上がった。
レイン:「...が、は……」
遅れて、猛烈な熱さと痛みが腹部を襲う。
見下ろせば、自分の腹にぽっかりと巨大な穴が空いていた。そこからドクドクと鮮血が溢れ出し、床を赤く染めていく。
視界が急速に狭まり、膝から崩れ落ちる。
床に伏したレインの視界の端で、暗闇の中からカチ、カチ、カチ……と、何かが擦れ合うような奇妙な音が響いていた。
(クソ、シエル……エレナ……)
理不尽なまでの敗北。何もできずに全てを失った絶望のなかで、レインの意識は深いブラックアウトへと沈んでいった。
一番書くのに時間がかかりました。
チューチュー爆弾(♂)は世の男性をいつも狙っています。




