第16話:夜明けの答え合わせ(第1章 完)
「――ッ、はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
どれほどの間、息を止めていただろうか。
崩壊した館長の黒い砂の山を前に、俺は肺がちぎれんばかりに深夜の冷気を吸い込んだ。
全身の肉体的な疲労もさることながら、怪光を浴びた脳が、まるで沸騰したかのようにズキズキと激痛を訴えている。
「レイン……しっかりしなさい、レイン!」
横から、シエルが俺の肩を強く揺さぶった。
見れば、彼女もまた限界だった。管理権限のバックドアを開くため、己の全魔力を限界まで解放した反動だ。白い口元からは一筋の血が流れ、汗に濡れた身体が痛々しく震えている。だが、そのアメジスト色の瞳だけは、確かな勝利の光を宿して俺を見つめていた。
「……あ、ああ。生きてる。脳ミソも、一応無事だ」
俺は痛む頭を押さえながら、館長が消え去った砂の山へと手を伸ばした。
そこに転がっていたのは、淡く、しかし冷たく脈動する三つの『記憶の結晶』だった。
手にとった瞬間、パチリ、と脳の奥で情報が流れ込んでくる。
一つ目の結晶は、俺の記憶の欠片。かつて過ごした「家族の穏やかな記憶」の一部だった。核心の部分はまだ霧に包れているが、たしかに俺は自分の過去を一部、この化け物の胃袋から毟り取った。
そして二つ目の結晶。それに触れた瞬間、シエルの兄の幻影が脳裏をよぎった。
現在、シエルの住むアパートの奥の部屋で、意思疎通不可の「空っぽの人形」として横たわっている彼女の兄。その魂を取り戻すための、確かな一歩(欠片)だ。
しかし、最後の一つの結晶――それは冷酷なほどに昏く、触れても何も伝わってこない。ただ禍々しいノイズだけを放つ、謎に包まれたままのデータ構造体だった。
「……お兄ちゃんの欠片、確かにあったわね」
シエルが愛おしそうに二つ目の結晶を見つめ、それから、崩れた砂の山を鋭く睨みつけた。
「底知れない不気味さだわ。それに……あの『マダム』が、最後まで一度も現れなかったのも不自然よ。館長の本体がこれほど追い詰められていたのに、あの女、一体どこで何をしていたの……?」
シエルの言葉に、背筋が冷たくなる。
1階の天秤の間で、俺たちに理不尽な選択を迫ったあの禍々しい女の影。この2階の最奥にすら姿を見せなかったということは、奴は館長の配下などではなく、もっと別の『上の階層』、あるいは別の書館の意志で動いているのではないか。
「……ま、考えても今は手札が足りないわね」
シエルは小さく首を振ると、いつもの不敵な笑みを浮かべて俺を見た。
「この館長は『2階』のシステムに過ぎない。お兄ちゃんの……そしてあなたの、奪われた記憶の本体は、世界に散らばる『他の書館』の館長たちに分散して保存されているのよ。ガレットの血筋の謎も、もっと深い場所へ行かなければ、繋がらない」
「世界に、他にも書館があるのか」
「ええ。かつて私の一族が管理し、利権に目の眩んだ名門貴族のような連中に権限(鍵)を奪われた、呪われた禁域がね」
シエルはそう言うと、手元の一族の銀鍵を強く握りしめた。
その瞳に宿る、隠しきれない復讐の炎。
俺はフッと笑った。
記憶の完全奪還、シエルの兄の救出、マダムの追跡、およびシエルの一族の未練。
俺たちの行くべき道(クソゲーの攻略ルート)は、最初から完全に一致していたわけだ。
「いいぜ。世界中の書館を、片っ端からハメ殺しに行ってやる。……だけど、その前に」
俺は懐中時計を見た。午前4時。
「シエル……マジで、今すぐ地上に戻らないと、俺の人生(単位)がゲームオーバーになる」
「あ、あなたねぇ……っ!」
シエルは呆れ果てたようにため息をついたが、すぐに、どこか愛おしそうにクスクスと笑った。
彼女は俺の腕をそっと取り、夜明け前の闇の中、地上へと繋がる隠し通路の銀鍵を回した。
数時間後。
朝陽が差し込む魔導学園の東大教室。
俺は、目の前に配られた『魔導理論・定期テスト』の解答用紙を前に、完全に白目を剥いていた。
(……いや、おかしいだろ。大問3は完璧に解けたのに)
カリカリと周囲の生徒たちがペンを走らせる音が響く。
イグノタフ家のお坊ちゃんが、隣の席で余裕の笑みを浮かべているのが見える。
俺は、昨晩死ぬ気で復習した(物理で)「大問3の応用数式」のページを見た。
完璧だ。地下で解いた数理迷路のロジックがそのまま出題されており、俺のハメ技脳で完璧なロジックを叩き込んだ。そこだけは、文句なしの満点だ。
――ただし。
残りの大問1、2、4、5を書き込むための『魔力記述ペン』が、俺の指先から1ミリの魔力も出ないせい、後半から完全に沈黙した。
そうなのだ。俺には、必殺技も、特技も、ましてやこの学園の生徒なら誰でも使える「初歩的な魔術」すら、一切使えない。ただの、環境の隙を突くのが得意なだけの、純度100%の「無能(一般人)」なのだから。魔力記述のペンが最後まで持つはずがなかった。
結果。
俺の定期テストの点数は――大問3の点数だけが虚しく光る、『19点(赤点判定)』。
「おい、ガレット! 何だこの点数は! 退学になりたいのか!」
放課後、教官室で担任の怒号が響き渡る。
教官の隣には、なぜかさっきのイグノタフ家のお坊ちゃんが、勝ち誇ったような顔で立っていた。
「教官、学園の規則通り、この無能は即刻退学にすべきです。魔力ペンすらまともに維持できないゴミなど、我が校の面汚しだ」
「うむ、イグノタフ君の言う通りだ。ガレット、大人しく荷物をまとめて――」
その時、教官室のドアが静かに開いた。
現れたのは、長い白髭を蓄え、豪奢なローブを纏った老人――この魔導学園の絶対権力者である【学園長】だった。
その背後には、なぜか制服姿のシエルが静かに控えている。
シエルは学園長と確かな面識があるようだったが、お互いに視線すら交わさず、完全に他人としての距離感を保っていた。ってなぜ制服を着ているのだろうか。
「おや、待ちなされ。ガレット君の退学処分は、少々早計というものじゃよ」
「が、学園長!? なぜここに……! 」
教官とお坊ちゃんが慌てて頭を下げる。学園長は細い目をさらに細め、不気味な笑みを浮かべながら、一枚の通知書を机に置いた。
「ガレット君は筆記こそ19点(赤点)じゃが……日常の『善行点』が極めて高く累積しておる。毎日の校内図書室の清掃、廃棄魔導具の分別、学園の備品の修繕……。これらを総合すれば、筆記の不足分などお釣りが来るほどの加点じゃ。よって、退学は『免除』とする」
俺はそんなことしただろうかと、目を細める。
「なっ……!? 図書館の片付けごときで、定期テストの赤点がチャラになるなど、そんな不条理なルールがあるか!」
イグノタフが顔を真っ青にして叫ぶ。
だが、学園長は「フォフォフォ」と不敵に笑うだけだった。
「ルールを決めるのは私(学園)じゃよ、イグノタフ君」
俺は学園長を一瞥した。
日常のボランティアだけで、こんな救済措置が発動するわけがない。
学園長は最初から、俺が『夜の地下書館』で何をして、どんな成果を持ち帰ってきたのかを、すべて知っているのだ。もちろん、隣のシエルが何者であるかも。そして、俺を学園に留めておくために、裏で糸を引いて「ルールを操作」した。
(狸親父め……俺を泳がせて、利用する気満々ってわけか)
だが、好都合だ。退学さえ免れれば、学園の「外地実習」の特権を使って、世界中の他の書館へ大手を振って潜り込める。
教官室を出ると、廊下でイグノタフが悔しげに拳を震わせていた。
「ガレット……! なぜお前のような無能が残る……! どんな汚い魔術を使った!」
俺はイグノタフの横を通り過ぎざるを得ない瞬間、その耳元で、フッと小さく囁いた。
「魔術なんて使ってないさ。ただ……」
俺は彼の胸元に輝く、イグノタフ家の豪華な家紋を見つめ、哀れむように笑った。
「『魔力があるだけの高級なペン立て』のお前には、ルールの裏にあるハメ技なんて、一生理解できないだろうけどな」
「……っ、な、何だと……!?」
『高級なペン立て』。魔力を流し込むことしか脳のない、器だけが立派な無能――これ以上ない知的な揶揄に、イグノタフは顔を真っ青にして絶句した。
昨晩の地獄に比べれば、この昼の世界のルールなんて、穴だらけの温いゲームに過ぎない。
校門を出ると、夕陽に照らされた街並みの向こうに、シエルが壁に背を預けて待っていた。
だが、その姿を見た瞬間、俺の足がピタリと止まる。
「……おい。何だその格好は」
「何よ、人の顔を見るなり失礼ね。見ての通り、この学園の制服だけど?」
シエルはフンと鼻を鳴らし、わざとらしくスカートの裾を軽く持ち上げてみせた。
地下のセーフハウスで着ていたあの薄手の魔導夜着や、汗を吸って身体に張り付いていた外套姿とは、まるで印象が違っていた。
学園指定の濃紺のブレザーは、彼女の華奢な肩幅に驚くほどぴったりと馴染んでいる。夜の闇では隠れていた、引き締まった細いウェストのラインがコルセット調のベルトで強調されており、そこから広がるチェックスカートからは、スラリと伸びた白い生足が夕陽を浴びて眩しく光っていた。
いつもは無造作に下ろしているアメジスト色の髪も、心なしか丁寧に整えられており、ブレザーの白い襟元とのコントラストが、彼女の持つ「お嬢様」としての気品を嫌でも引き立てている。
どこからどう見ても、非の打ち所がない『清楚で可憐な名門校の女子生徒』。
――だが、俺のハメ技脳は、彼女の「致命的なバグ」を瞬時に見抜いていた。
「いや、清楚ぶってるのはいいんだけどさ……シエル、お前、胸元のリボンの結び方が**『魔導トラップの三重反転結び』**になってるぞ。ほどいた瞬間、周囲に爆風が広がるやつだろそれ」
「っ……!? な、何よ、これしか結び方を知らないんだから別にいいじゃない!」
せっかくの美少女姿なのに、手癖で暗殺用の結び方をしてしまうあたり、やはり中身はゴリゴリのプロウォーカーだった。
シエルは顔を真っ青にして、隠すように両手で胸元のリボンを押さえる。
「……まあ、夜のクソゲーエリアにいる時よりは、100倍マシだけどな」
「う、うるさいわね! 19点ウォーカーのくせに生意気よ。学園長のタヌキに、しっかり首の皮一枚繋げてもらったみたいじゃない」
彼女は照れ隠しにツンとそっぽを向いたが、その耳の裏まで朱に染まっているのは隠せていなかった。
「ああ。あのマダムの行方も、お前のお兄さんのことも……まだまだこれからだからな」
俺は魔術の使えない、空っぽの両手を広げて笑ってみせた。
「どんなクソゲー(世界)だろうが、ルールがあるなら、全部ハメ殺してやるよ」
第1章 書館のウォーカー 時計台の地下書館 (了)
まさか自分の夢がここまで好き勝手歩くとは思っておりませんでした。
まだまだ世界は続きます。
お付き合いくださりありがとうございます。
また新章でお会いしましょう。




