第15話:リベンジ(後編)
銀の刃が燕尾服を切り裂き、館長の胸元へと深く突き刺さる。
『――ア、ガ、――ガガッ!?』
老紳士の端正な輪郭が、激しくノイズを発して歪んだ。あいつの「腹」に蓄積されていた膨大な記憶のデータ構造が、ダガーの呪いによって一過性のシステムエラーを引き起こしているのだ。
よし、入った。俺の脳内で、ハメ技の第一段階の成功が記録される。
だが――勝負はそこからだった。
これまでに戦ってきた1階の分身や、2階の追跡者どもとは、存在の格が違いすぎた。
『不敬なる、不調律の、羽虫が……っ!』
館長は顔のない頭部をこちらへ向けると、人間の限界を遥かに超越した腕力で、シエルが展開していた文字の鎖を力任せにブチブチと引き千切った。漆黒の右腕が、真横に向けて一閃される。
「レイン、完全に伏せて――っ!」
シエルの悲鳴のような叫びが響く。
俺は反射的に、受け身も取らずに背中から床へ倒れ込んだ。
直後、頭上が爆音とともに弾け飛ぶ。あいつが腕を振るっただけで生じた不可視の衝撃波が、背後にそびえ立っていた巨大な本棚を丸ごと三つ、豆腐のように綺麗に両断していたのだ。
木の破片と古書の残骸が雨のように降り注ぐ。もし反応が一瞬でも遅れていれば、俺の肉体は今の一撃で消し飛んでいただろう。
『知を求め、奪われる。それが我が領地の、絶対の――』
激しい精神汚染を伴うノイズを周囲に撒き散らしながら、館長がさらにその漆黒の爪を振り上げる。
データが部分的にクラッシュしているはずなのに、あいつが元から持っている狂暴な物理スペックは全く衰えていない。むしろ、バグによって安全装置が外れたかのように、その殺意はより苛烈さを増していた。
まともに距離を取れば負ける。
あの予備動作の一切ない、視認不可能な『直線突進』で一瞬にして間合いを詰められ、脳を貪られるか、首を刎ねられるのがオチだ。
(距離は絶対に離さない。あいつの行動の選択肢を、こちらの想定内に縛り付けろ!)
「シエル! 床の『白紙の本』を全部めくり上げて、視界を潰せ!」
「――ええい、どうなっても知らないわよ! 掴まってて!」
シエルが銀鍵の束を天に掲げ、全身の魔力を込めて一気に振り抜く。
次の瞬間、俺たちの足元に敷き詰められていた数千、数万冊の白紙の本が、まるで巨大な竜巻に巻き込まれたかのように一斉に空へと舞い上がった。部屋中を狂ったように乱舞する、真っ白な紙吹雪の防壁。
視界は完全にゼロになった。
館長が激昂したように爪を振るうが、視界を埋め尽くす無数のページに阻まれ、俺の正確な位置を捕捉できていない。あいつの漆黒の爪が、空虚に空間を切り裂く音が幾度も響く。
(目隠しは成功だ。次は――突進の誘発)
俺は紙吹雪の隙間を縫うようにして、息を殺し、館長の真後ろへと回り込んだ。
手には、2本目のダガー。
あいつの『直線突進』は、速度が絶対である代わりに、一度放てば文字通り「直線」にしか進めない。
ならば、突進せざるを得ない状況(ハメの導線)をこちらで作ればいい。
俺はわざと、館長の真後ろで、床のレンガを強く踏み鳴らした。
「おい、顔無し。ここだぞ」
『――失せよ』
音に反応し、館長が完全に真後ろを振り向くと同時に、あいつの巨躯がブレた。
空気の壁をぶち破る音とともに、逃げ場のない超高速の直線突進が俺に向かって殺到する。
だが、俺は最初からそこに留まる気などない。
突進の瞬間、俺はあえて「前」に向かって跳び、館長の股下を滑り込むようにスライディングで潜り抜けた。すれ違いざま、あいつの燕尾服の裾が俺の髪をかすめ、肌がピリピリと焼けるような魔力の残熱を感じる。
ドガァァァァァン!!!
俺のいた場所を音速で突き抜けた館長は、そのまま、シエルが背後にあらかじめ出現させておいた「超重量の鉄製本棚」へと、自慢の速度のまま正面衝突した。
あまりの衝撃に、頑強な鉄フレームがひしゃげ、あいつの動きが肉眼で捉えられるレベルで完全に停止する。
「2本目――ッ!!」
硬直した館長の背中へ、俺は2本目のダガーを容赦なく突き立てた。
『ガ、オ、――オオオオオオッ!!』
二重のエラー。館長の身体から、ボロボロと黒い文字の破片が零れ落ち始める。
シルクハットが床に転がり、あいつの燕尾服がドロドロとした黒い泥のように崩れかけていく。勝てる、このハメ技の方程式は、完全にこの化け物のスペックを凌駕している――。
そう確信した、次の瞬間だった。
ドクン……!!!
世界が、反転したような錯覚を覚えた。
心臓を直接冷たい手で掴まれたかのような、悍ましい悪寒。
『我が、知を……返す、わけには……いかぬ……っ』
館長の胸元から、これまでの比ではない、部屋全体を呑み込むほどの赤黒い光が溢れ出した。
あいつの最大最悪のハメ技――触れた者の全記憶を永久に剥奪し、精神を崩壊させる『記憶剥奪の怪光』の全方位強制放射。
バグによって狂ったシステムが、侵入者を確実に抹殺するための「即死イベント」を強引に起動させたのだ。
部屋全体の空気が、ねじ切れるように歪み始める。遮蔽物など意味をなさない、この空間のすべてを埋め尽くす絶対の広範囲攻撃。
「レイン、ダメ……! 術式が完全に展開されたわ、もう逃げ場なんて――っ!」
シエルが絶望に瞳を揺らし、その場にへたり込みそうになる。
「諦めるな! シエル、お前の一族の鍵の『真の機能』を今ここで使え!」
「真の機能って……まさか、あの『裏返しのプロテクト』を!? でも、あれは膨大な魔力の触媒がなければ――」
シエルの持つ銀鍵の束。それはただの解錠ツールではない。シエルの一族がこの地下書館を管理するために作られた、いわば「管理権限のバックドア」だ。
本来は開いている扉を『絶対に開かない概念の壁』に変えることで、内側の空間を完全に遮断する、絶対不可侵の防壁術式。だがそれには、今のシエルの残魔力では到底足りないほどの、強大な魔力の触媒が必要だった。
「触媒ならここにある!」
俺は腰元から、さっきジャンクヤードで吸い込み、限界まで圧縮されていた『超高温の水蒸気と、2階の紫の環境エネルギー』が詰まった『空の魔導ランタン』を引き抜いた。
そして、躊躇なくそれを俺たちの目の前の床へと投げ捨て、叩き割った。
遮光ガラスが粉々に砕け散り、内部に閉じ込められていた膨大な熱エネルギーと歪な魔力が、濁流となって吹き出す。
「それをお前の鍵の魔力と混ぜて、俺たちの『前に』展開しろ! 2階のルールを上書きするんだ!」
「――っ、理屈は通るわ! 一族の遺恨、ここで全てを注ぎ込む――っ!!」
シエルが叫び、銀鍵の束を床の魔力の濁流へと突き立てる。
吸い込まれた熱波がガラスのように結晶化し、さらに管理権限の術式が混ざり合うことで、俺たちの目の前に、**『熱を帯びた、異常に分厚い概念の防壁(バグの壁)』**が出現した。
直後、館長から全方位へ向けて、世界を滅ぼすような『記憶剥奪の怪光』が解き放たれる。
バリバリバリバリバリバリッ!!!
鼓膜が、世界が引き裂かれるような絶叫じみた破壊音が部屋に響き渡った。
あいつの絶対の怪光が、俺たちの目の前にそびえ立つ『熱とバグの結晶壁』へと激突する。光は壁を貫通できず、それどころか、壁が持つ異常な熱量と管理権限のノイズによってエネルギーそのものが乱反射し、部屋の四方へと虚しく霧散していった。
「はは……完璧な、絶対遮断だ……っ」
だが、安堵したのも束の間。
メリ、メリメリ……と、俺たちの作った防壁に亀裂が入った。
「――っ、レイン! 館長の出力が強すぎるわ! 壁が持たない……っ!」
シエルが口元から血を流しながら、必死に鍵を支えている。怪光の余波が、壁の隙間から俺たちの精神を削りにきていた。頭が割れるように痛い。家族の顔だけでなく、自分の学園の制服の色すら、一瞬思い出せなくなるほどの強烈な忘却の波動。
防壁が、完全に砕け散るまで、あと数秒。
(まだだ……まだ、俺の手札は残ってる!)
俺は全身の痛みを無視して、最後の一本――3本目の『記憶を刻むダガー』を右手に握りしめた。
防壁が限界を迎えると同時に、俺はシエルの前へと躍り出た。
「レイン、行っちゃダメ――!」
視界を埋め尽くす赤黒い怪光の濁流。その光の渦の中を、俺は死に物狂いで突き進んだ。
肌が、肉が、精神が、あいつの光に触れるたびにガリガリと削り取られていく。脳内から、大切な何かが凄まじい速度で抜け落ちていく恐怖。だが、その忘却の痛みを、俺は「ハメ技の勝利への執念」だけで無理やりねじ伏せた。
光の源流へ。崩れかけの館長の、その胸元へ。
『知を……我が……我が、すべてを――』
「全部、お前に返すよ。クソゲーの管理人」
俺は光の中に腕を突き出し、最後の一本となるダガーを、館長の顔のあるべき『虚無の闇』のど真ん中へと、ありったけの力で深々と突き立てた。
三重のエラー。
――カシャァァァァァァン!!!
ガラスが砕け散るような音が響き、館長の胸元に集まっていた赤黒い怪光が、完全にそのエネルギー源を失って爆発するように霧散した。
部屋を満たしていたプレッシャーが霧のように消え去り、ただの「動く泥の人形」と化した館長が、がくりと膝を突く。
ハメ殺しの方程式、これにて完全証明。
極限の緊張から解放され、俺とシエルは、その場に激しく膝を突いた。呼吸をするだけで肺が焼けそうだ。だが、俺たちの前で、館長の肉体はサラサラと黒い砂になって崩れ落ちていく。
その砂の山の中から、淡く光る「いくつかの記憶の結晶」が、俺の手元へと転がってきた。




