第12.5話:深淵のティータイム
「……ねぇ、レイン。あなた、さっきから何をしているの?」
セーフハウスに戻り、次の探索への作戦を練るはずの机の上で、俺は熱心に『ある作業』に没頭していた。
シエルがソファから身を乗り出し、不思議そうにアメジスト色の瞳を覗き込んでくる。
「何って……明日の実技テストの、自己採点と対策だよ」
「……は?」
シエルは完全に虚を突かれたような顔をした。
「いや、だってさ。さっきの『数理迷路』で、明日のテストの大問3の応用パターンが完璧に頭に入ったんだよ。忘れないうちに、この地下の古紙に数式を書き殴って復習しておこうと思って。これならマジで学園一桁を狙えるぞ」
「あなたねぇ……」
シエルは額を押さえ、深々と、本日一番の大きな溜息をついた。
「あの館長や追跡者が徘徊する歴史的禁域に潜って、生還した直後に『明日の学園の小テストの復習』をしてるウォーカーなんて、この世界の歴史を探してもあなたくらいのものよ。呆れた。本当に肝が据わっているというか、ただの変人ね」
「変人とは失礼な。俺にとっては、退学処分がかかってる死活問題なんだよ。……あ、でも、家族の記憶が消されたせいで、実家の住所とか親の顔は思い出せないんだよな。テストが終わったらどうやって家に帰ればいいんだろ」
「そのメンタルの強さはどこから来るのよ!?」
ソファの上で、シエルが「もう嫌だわこの素人」と言わんばかりに頭を抱えている。
しかし、張り詰めていた空気が一気に弛緩したのは間違いなかった。
パチパチと暖炉の火が爆ぜる音だけが、静かな部屋に響く。
お互いの胃袋が、同時に「ぐぅ……」と情けない音を鳴らした。
「……お腹、空いたわね」
シエルが少し頬を赤らめながら呟く。
「そうだな。俺、ここ数日、学園の購買で一番安い『素もやし炒めパン』しか食べてないから、そろそろ普通の飯が恋しい。……シエル、プロのウォーカー様は、こういう時何食うんだ?」
「ふふん、プロを舐めないで。私はこのセーフハウスに、最高の『隠し物資』を貯蔵しているのよ」
シエルは勝ち誇ったように胸を張ると、部屋の隅にある床板を慣れた手つきでパカリと開けた。
そこから取り出されたのは、丁寧に布で包まれた、いくつかの小瓶と携帯用の小さな魔導コンロだった。
「じゃーん。最高級の干し肉と、携帯用乾燥ハーブ、それから……特製の『アッサムの茶葉』よ」
「おお……!」
俺の目が輝いた。まさかこの地獄の底で、そんな優雅なセットがお目にかかれるとは。
シエルは手際よくコンロに火をつけ、持参した水筒の水を小鍋で沸かし始めた。
お湯が沸騰すると、乾燥ハーブと細かく刻んだ干し肉を投入し、たちまち部屋の中に、塩気とハーブの芳醇な、そして信じられないほど食欲をそそる香りが広がっていく。
「はい、レインの分。スープはこれを使って」
シエルが手渡してきたのは、なんとさっき手に入れたばかりの**『空の魔導ランタン』**だった。
「……え? これを器にするの?」
「遮光黒ガラスは熱に強いし、保温性も抜群よ。中にまだ『紫の灯火』を吸い込んでいない、ただの空っぽの状態なんだから、スープボウルにするにはこれ以上ない高級品(贅沢)よ」
「館長攻略の最高レアアイテムをスープ皿にするなよ……」
俺は苦笑しながらも、ランタンに注がれたスープをスプーンで掬い、口に運んだ。
じわりと、塩分と肉の旨味が疲弊した身体の細胞に染み渡っていく。美味い。実家でもやし生活を送っていた(と思われる)俺にとっては、文字通り天上の味だった。
「美味しい?」
シエルが、自分が褒められたわけでもないのに、どこか嬉しそうに微笑みながら、自分用のマグカップの紅茶を上品に啜る。
「最高。これでまた戦える」
「そう。……なら良かった」
橙色の暖かな光に照らされた彼女の笑顔は、地下の冷酷な案内人ではなく、ただの年相応の綺麗な少女だった。
追跡者に消された記憶、ライバルとの遭遇、ガレットの謎。
外には相変わらずおぞましい地獄が広がっているけれど、この数畳のセーフハウスの中だけは、俺たちのささやかな、そして温かい昼の世界だった。
「……よし! 飯も食ったし、復習も終わった!」
俺はスープを飲み干し、パンッと勢いよく立ち上がった。
「失ったダガーの代わりに、さらに強力なハメ技のロジック、あるいはもう一匹の追跡者をボコりに行こうぜ、シエル!」
「現金な奴ね。……ええ、行きましょう、相棒。今度はどんな知略を見せてくれるのか、楽しみにしてるわ」
シエルは外套を羽織り、不敵なウォーカーの笑みをその唇に戻した。




