第5章・第16話:グラスに沈む後悔
「……ふぅ」
騒がしかった規格外の客たちが二階の簡易宿へと引き上げ、地下酒場には深い夜の静寂が降りていた。
俺はカウンターの隅に腰掛け、親父が置いていった度数のきついウォッカの小瓶の蓋を無造作に開けた。
ひび割れたグラスに、無色透明な液体をとくとくと注ぐ。ボサボサの長髪を雑に掻き上げ、使い古したブラウンのコートのポケットからタバコを取り出して火をつける。
紫煙が、薄暗いランプの光に照らされてゆっくりと立ち昇っていく。
「……カイル・イグノタフ、か」
喉の熱さをタバコの煙で誤魔化しながら、俺は空になったグラスの底を見つめた。
そこに浮かび上がってきたのは、さっきまで俺の隣で、この安酒場には似つかわしくない端正な姿勢で『水』を飲んでいた、あの不器用な騎士の顔だ。
『もう二度と、間違えはしない。私には、共に背負ってくれる仲間がいるからな』
あいつの言葉に嘘はなかった。
迷いを振り切った、真っ直ぐで曇りのないブラウンの瞳。嫌になるくらい、昔の俺にそっくりだった。
「バカな野郎だぜ、本当に」
俺は二杯目のウォッカを注ぎ、ふっと自嘲気味に笑った。
十年前。俺もあいつと同じように、誰かを護るための剣を信じ、己の正義を疑わなかった。だが、俺は首輪を繋がれた犬だった。王都の『騎士団』というクソったれなシステムに縛られ、上が見捨てろと言ったものを、己の意志で護りに行く勇気がなかった。
結果として、俺は一番護りたかった妻――イリスを失った。
「……イリス」
その名前を口にした瞬間、アルコールで麻痺させていたはずの記憶の蓋が、グシャリと嫌な音を立てて開いた。
立ち昇るタバコの煙が、下層区を焼き尽くしたあの日の赤黒い業火の幻影へと変わる。
『ゼノ……助けて……っ、熱いよ……!』
「……っ!!」
俺はガタッと音を立ててスツールから立ち上がり、頭を抱えた。
幻聴だ。分かっている。だが、死の瞬間に彼女が握りしめていた黒焦げの花飾りを見るたび、俺の魂にこびりついた後悔が、彼女の絶叫を何度でも脳内に再生させるのだ。
あの日、下層区を襲った魔物の群れは、ただの獣ではなかった。王都の闇が生み出した、呪いを帯びた異形の化け物たち。
俺は毎夜、夢を見る。
あんな恐ろしい呪いの炎に焼かれたイリスの魂は、十年経った今でも、冷たい瓦礫の下で苦しみ続けているのではないか。熱さと痛みに泣き叫びながら、決して来ない『騎士様』の助けを、今も暗闇の中で待ち続けているのではないかと。
「すまねえ、イリス……。俺が、不甲斐ないばかりに……っ」
最強の魔導装甲車を組み上げようと、裏社会でどれだけ金を稼ごうと、俺の時間はあの燃え盛る瓦礫の前で止まったままだ。
俺は震える手でグラスを掴み、ウォッカを喉の奥へ流し込んだ。
「――ゼノ兄ちゃん? 泣いてるの?」
不意に、背後から小さな声がした。
振り返ると、階段の途中に、獣耳をペタンと寝かせたティオが立っていた。どうやら喉が渇いて起きてきたらしい。彼女の夜目が利く金色の瞳が、暗がりの中で俺の顔をじっと見つめている。
「……泣いてなんかいねえよ。タバコの煙が、少し目に染みただけだ」
俺は慌てて目元をコートの袖で乱暴に拭い、いつもの「やさぐれた運び屋」の作り笑いを浮かべた。
だが、野生の勘を持つ彼女の目は誤魔化せなかったらしい。ティオはトコトコと階段を降りてくると、俺の隣のスツールによじ登り、小さな手で俺のコートの袖をきゅっと掴んだ。
「ゼノ兄ちゃんの匂い、すっごく悲しい匂いがする。……罠にかかって、身動きが取れなくなっちゃった怪我した狼みたい」
「……」
「痛いところがあるなら、アタシが舐めて治してあげるよ?」
ティオが純粋な瞳で俺を見上げてくる。
そのあまりにも真っ直ぐな優しさに、俺は危うく、本当に情けない嗚咽を漏らしてしまいそうになった。
俺がレディの涙や頼みに弱いフェミニストなのは、こういう純粋な優しさに触れる資格がない、薄汚れた裏切り者だからだ。
「……ありがとな、ティオ。でも、大丈夫だ。狼の傷は、自分で舐めて治すもんさ」
俺はティオの頭をポンポンと優しく撫で、カウンターの裏から冷たい水が入ったピッチャーを取り出して、グラスに注いでやった。
「ほら、水だ。飲んだら風邪を引く前に、さっさとベッドに戻りな」
「うんっ! おやすみ、ゼノ兄ちゃん!」
水を一気に飲み干したティオが、ニコッと笑って二階へと戻っていく。
その小さな背中を見送りながら、俺は三本目のタバコに火をつけた。
『――クリスタル・フォールの境界でわたくしの大切な仲間たちを回収し、南の【次の街】まで極秘裏に送り届けなさい』
あのおっかないお嬢様からの依頼は、「この街」まで送り届けること。
俺の運び屋としての仕事は、すでに完了している。王都へ乗り込むあいつらに、これ以上付き合う義理も、約束もない。
「……俺は、過去から逃げ回る最低の負け犬だ」
俺は灰皿にタバコを押し付け、静かにカウンターに白金貨を数枚並べた。
ガレージに向かい、シエルのハッキングで生まれ変わった愛車『ブラックハウンド』のエンジンに火を入れる。
限界を突破した重低音が、薄暗い地下に響き渡った。
『……お前は、真っ直ぐに護り抜け』
カイル・イグノタフ。お前たちなら、イリスから全てを奪った王都の腐ったシステムを、本当にぶっ壊してくれるかもしれない。
俺はハンドルを握りしめ、誰にも告げることなく、夜明け前の暗闇の中へと車を走らせた。
◇
――翌朝。
「ふわぁ……よく寝たわ。さて、とっとと朝ご飯を食べて、王都への移動手段を手配――って、あれ?」
二階から降りてきたシエルが、酒場の円卓を見回して首を傾げた。
バルドとカイルはすでに起きて装備の最終確認をしているが、そこにいるはずの人物が一人、欠けていた。
「親父さん、ゼノは? ガレージに車もなかったけど」
シエルがカウンターの親父に尋ねる。
「ああ、ゼノの野郎なら、夜明け前に一人で店を出て行ったぜ。『俺の仕事はここまでだ。あいつらのツケはこれで払っとけ』ってな」
親父は、カウンターの上に置かれた白金貨を顎でしゃくった。
「……そ。まあ、元々この街までのファスト・トラベルの依頼だったしね。律儀な運び屋だったじゃない」
シエルは特に驚いた様子もなく、割り切ったように肩をすくめた。バルドも「ま、裏社会の奴らなんてそんなもんだろ。腕は確かだったがな」と笑って武器の手入れを再開する。
だが、ただ一人。
ティオだけが、獣耳を力なくペタンと寝かせて、ゼノが座っていた空の丸椅子をじっと見つめていた。
「ゼノ兄ちゃん……行っちゃった。とっても悲しくて、痛そうな匂いがしてたのに……」
ティオの小さな呟きに、装備の確認をしていたカイルの手がピタリと止まった。
カイルは静かに立ち上がり、ティオのそばへと歩み寄る。
そして、昨夜ゼノが座っていたカウンターの隅――灰皿に残された、タバコの吸い殻を見つめた。
「……カイルお兄ちゃん?」
「彼は、裏社会の運び屋などではないよ、ティオ。……彼は、誰よりも真っ直ぐで、優しすぎる本物の騎士だったんだ」
カイルは静かにそう告げると、自身の腰にある白銀の聖剣の柄を、決意を込めるように強く握りしめた。
一度は絶望に飲まれ、誇りを捨てて裏社会に身を落とした男。
そんな彼が、最後にわざわざカイルを呼び止め、『真っ直ぐに護り抜け』と言葉を託した意味。
王都に巣食う巨大な闇が、かつてあの不器用で優しい男から何を奪い、どれほどの癒えない傷を負わせたのか――カイルには、痛いほどに分かっていた。
「行こう、皆。ゼノ殿が繋いでくれたこの道を……今度は私たちが、王都の玉座まで繋ぐ番だ」
カイルのブラウンの瞳に、迷いのない鋭い光が宿る。
託された「願い」と、置き去りにされた「悲しい狼」の影を背負い。
プロウォーカー一行は、因縁の地である王都へと向け、決意の足を踏み出した。




