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1章 4話 ユナ姉さん

「……姉さん」


ユナ姉さんは僕の前まで来ると、ドルガをまっすぐ見上げた。


「トウヤを離してください」


「こいつは俺に逆らった」


「だから何ですか?」


広場が静まり返る。


ドルガの眉がぴくりと動いた。


「なんだと?」


「保管庫に侵入した罰なら、もう受けました。衛兵に抵抗した罰もです」


姉さんの視線が僕の背中へ向く。


鞭で裂けたところから、まだ血が流れていた。


「これ以上は、掟に定められた罰ではありません」


「姉だからといって口を挟むな」


「弟だから言ってるんじゃありません」


一歩も引かない。


姉さんは怒ると怖い。


ドルガ相手でも、それは変わらないらしい。


「衛兵隊長なら、掟にないことをしても許されるのかと聞いているんです」


ざわっ、と周囲が騒いだ。


さっきの僕といい、姉弟そろってドルガを怒らせる才能があるらしい。


そんな才能いらないんだけどね。


ドルガは姉さんを睨んでいた。


姉さんも目をそらさない。


しばらくして――。


ドサッ。


「ぐわっ!」


いきなり身体が地面に落ちた。


咳き込みながら、夢中で空気を吸い込む。


「トウヤ、大丈夫?」


姉さんがすぐにしゃがみ込んだ。


「な、なんとかね」


「なんとかね、じゃないでしょ。こんなに血だらけで」


「姉さんが来るの遅かったら、もっとひどくなってたよ」


「馬鹿!」


ゴツン!


頭を叩かれた。


「痛っ、何するんだよ!」


「心配かけた罰よ!」


もう一発。


「ちょ、姉さん! 本当に痛い! 鞭打ちの罰を受けたばっかなんだけど!」


「それとこれは別!」


怒ってる。


ものすごく怒ってる。


でも、よく見ると目には涙が浮かんでいた。


それを見たら、それ以上文句を言えなくなった。


ドルガが僕らの横を通り過ぎる。


けれど、数歩進んだところで足を止めた。


「次はないぞ、角なし」


振り返りもしない。


「今度その減らず口を叩いたら、姉が来ても助からんと思え」


「……」


一言くらい返してやりたい。


口を開きかけた瞬間、姉さんの指が僕の肩に食い込んだ。


これはたぶん、黙ってろって意味だ。


僕だって学習する。


たまにはね。


ドルガは大鬼たちを引き連れ、その場を去っていった。


集まっていた鬼たちも、興味を失ったように散っていく。


「ほんっと、ムカつく野郎だな」


足を引きずりながらジンがやってきた。


顔は腫れてるし、服も血まみれ。


たぶん僕も似たようなものだろう。


並んだら、どっちがひどい顔か勝負できそうだ。


「ふたりとも!」


聞きなれた声に振り向く。


白い髪が人混みの間から飛び出してきた。


「シロ――」


パシンッ!


頬が鳴った。


「痛っ!」


何が起きたのか分からないまま、シロエが今度はジンの前へ移動する。


パシンッ!


「いってぇ! なんで俺まで!」


「なんでじゃない!」


シロエの声が震えていた。


「約束したでしょ! 絶対に捕まらないって!」


「いや、あれは――」


「言い訳しないで!」


ジンが黙った。


珍しいものを見た。


あのジンを一言で黙らせるなんて、シロエもなかなかやるじゃないか。


「捕まったって聞いて……ドルガに連れていかれたって聞いて……」


さっきまで怒っていたシロエの声が、急に小さくなる。


「死んじゃったらどうしようって……ずっと……」


ぽろりと涙がこぼれた。


そして次の瞬間――。


ぎゅっ。


シロエが僕ら二人をまとめて抱きしめた。


「うわっ」


「お、おい」


僕もジンも固まる。


シロエは何も言わなかった。


ただ僕らの服をぎゅっと掴んで、顔を押しつけている。


どうしたらいいか分からなくて、ジンを見る。


ジンも困ったように僕を見ていた。


「……ごめん」


やっと、それだけ言えた。


隣でジンが頭をかく。


「悪かったよ」


しばらくして、シロエが離れた。


腕で乱暴に目元を拭う。


「もう知らない」


ぷいっとそっぽを向いてしまった。


これはたぶん、しばらく許してくれないやつだ。


そのとき、ジンが僕の肩に腕を回してきた。


「でもよ、トウヤ」


「なに?」


「ドルガに言ったあれ。最高だったぜ」


「でしょ?」


「あいつの顔見たか?」


「見た。すごかったね」


二人で吹き出す。


「……ねぇ」


冷たい声で笑いが引っ込んだ。


シロエがものすごく怖い顔で見ている。


その隣では姉さんが微笑んでいた。


ただし、目だけはまったく笑っていない。


僕とジンは顔を見合わせた。


「……ごめんなさい」


今度は綺麗に声が重なった。


※


「痛い!」


家に帰った途端、また痛い目に遭った。


「動かないで」


「姉さんが強く拭くからだろ!」


「誰のせいでこんな傷ができたと思ってるの?」


「……ドルガ?」


「トウヤ」


「ごめんなさい」


姉さんはため息をついて、濡らした布で背中の血を拭っていく。


さっきまでより、ほんの少しだけ手つきが優しくなった。


「それで?」


「なに?」


「どうして保管庫なんかに入ったの?」


「人間を見てみたかったんだ」


「人間を?」


「うん。僕と似てるって、ずっと聞いてたから」


姉さんの手が一瞬だけ止まった。


それから、何事もなかったように薬を塗り始める。


「どうだった? はじめて見た人間は」


「どうって……」


すぐには答えられなかった。


娘に自分のパンを渡した母親。


怖がりながらも家族の前に立った男。


そして、あの白髪の老人。


――弱いからこそ、誰かを助けるんじゃよ。


「聞いてたのとは、ちょっと違った」


「どんなふうに?」


「人間って……なんか、思ってたより普通だった」


自分で言ってから、変な答えだと思った。


でも、それ以外の言葉が見つからなかった。


姉さんは、少しだけ困ったような顔で微笑んだ。


「……そう」


「それだけ?」


「何て言ってほしいの?」


「ほら。『人間は恐ろしいのよ』とか」


「そんな言い方したことないでしょ」


「じゃあ、『二度と近づくな!』とか」


「それは言う」


「言うんだ」


姉さんは小さく息を吐いた。


「もう近づかないで。今度は鞭打ちだけじゃ済まないわ」


「うん。わかったよ」


「本当に?」


「姉さん、しつこい」


背中を強く拭かれた。


「いたたたたっ!」


「何か言った?」


「言ってません」


姉さんは鼻を鳴らして、また傷の手当てに戻った。


しばらく、家の中には布を絞る音だけが続いた。


「姉さん」


「なに?」


「ありがとう。助けに来てくれて」


なんとなく恥ずかしくなって、僕は前を向いたまま続けた。


「あのままだったら、本当に死んでたかもしれない」


返事がない。


振り返ろうとしたら、後ろから頭をくしゃくしゃにされた。


「ちょ、何するんだよ」


「……ほんと、馬鹿な弟」


姉さんの声が少しだけ震えていた。


僕は何も言わなかった。


いつもなら振り払うその手を、今だけはそのままにしておいた。


※


あれから二週間が経った。


鞭で裂けた背中の傷も、ようやく塞がってきた。


そして今日は――成鬼の儀。


十四歳を迎える鬼が、人間の肉を食べて一人前の鬼になる。


一生に一度しかない大切な儀式だ。


朝から里はお祭り騒ぎだった。


道のあちこちに松明が立てられ、大人たちが慌ただしく行き交っている。


姉さんには「絶対に遅れるんじゃないわよ」と三回も念を押された。


待ち合わせ場所の大岩が見えてきた。


そこには、もう二人とも来ていた。


ジンは岩の上に立ち、遠くに見える儀式の会場を眺めている。


シロエはその下に座っていた。


「遅ぇぞ!」


僕に気づくなり、ジンが飛び降りてきた。


「まだ時間あるだろ?」


「俺を待たせた時点で遅刻だ」


「いつもはジンが遅れるくせに」


「ずっとこんな感じなのよ」


シロエがうんざりしたように言う。


「私が来たときには、もういたんだから」


僕はジンを見る。


「もしかして、楽しみで眠れなかった?」


「んなわけあるか!」


どうやら図星らしい。


「子どもみたい」


「それも今日までだけどな!」


シロエが呆れたように立ち上がる。


「はぁ、こんなのが成鬼になるのね」


僕らは儀式が行われる会場へ向かった。


会場へ近づくほど、鬼の数が増えていく。


僕らと同じくらいの子も多かった。


みんな誇らしそうに胸を張っている。


その中でも、隣を歩くジンはやけに機嫌がいい。


「そんなに嬉しい?」


「当たり前だろ。やっと成鬼だぞ」


ジンが自分の拳を手のひらに打ちつけた。


「俺は人間を食って、もっと強くなる。まずはドルガを超えてやる」


「ずいぶん大きく出たね」


「あいつなんか通過点だ。そのうちグレン様も超えてやる」


僕はぎょっとして足を止めた。


僕の父――鬼王グレン。


その名を知らない者はいない。


僕にとっては、遠くから何度か見たことがあるだけの父親。


でも、里の鬼たちにとっては、神のような存在だ。


「本気?」


「当たり前だ」


「じゃあ、シロエは?」


「私は別に、強くなりたいとは思わないわ」


「じゃあ何したいの?」


シロエは少し考えた。


「ずっと三人でこうしていられたら、それでいい」


僕もジンも、ぽかんとシロエを見た。


「……なによ」


「シロエって、意外と寂しがり屋なんだね」


「違う!」


「顔赤いぞ」


「うるさい!」


シロエに追いかけられて、僕とジンは逃げ出した。


こういうところは、成鬼になってもたぶん変わらない。


「そういうトウヤはどうなんだよ」


少し先を走っていたジンが聞いてきた。


「成鬼になったら、何がしたい?」


考えてみた。


でも、何も浮かばない。


「……分かんないや」


「なんだそりゃ」


「そのうち考えるよ」


やがて、大きな祭壇が見えてきた。


祭壇を囲むように、大勢の鬼が集まっている。


僕らも儀式に参加する鬼たちの列に加わった。


やがて太鼓が止み、長老が祭壇へ上がる。


「これより、成鬼の儀を執り行う」


鬼たちから歓声が上がった。


僕はまだ知らなかった。


この日から、大切なものが壊れ始めることを。


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