3話 許しの部屋
意識が戻ったとき、まず感じたのは、鉄の味だった。
乾いた血が唇に貼りついて、口の中がザラザラする。
うわ、寝起きでこれって最悪じゃない?
おそるおそる目を開けると、あたりは薄暗く、獣の匂いがただよっていた。
両腕は上へ引っ張られ、体はゆらゆらと揺れている。
吊られてるのか?
捕まっちゃった?
背中を嫌な汗がつーっと流れる。
「トウヤ」
となりから、かすれた声がした。
顔を向けると、ジンが僕と同じように吊るされていた。
頬は腫れ、唇が切れ、血が黒くこびりついている。
「ジン、ここどこ?」
「“許しの部屋”だ」
吐き捨てるみたいな声。
「掟破りが“ありがたい教え”を受ける場所だとさ。笑えるだろ」
「……ほんと、笑えるね」
そのときだった。
ギ、ギギ、ギギギ
鉄がこすれる音とともに、扉がゆっくり開いた。
暗闇から、でっかい影がぬっと現れる。
衛兵隊長――ドルガ
黒金の飾りがついた角。
岩みたいな肩。
背には黒革の鞭。
部屋の床にこびりついた赤黒い跡を、まるで家の汚れみたいに踏んづける。
「目が覚めたか」
声だけで空気がゆれた。
ドルガの視線が、僕の額――角のない場所に落ちる。
「欠け者め」
胸がぎゅっとつまった。
数えきれないくらい言われた言葉なのに、どうしてこんなに刺さるんだろう。
そんな僕を見て、ドルガは愉快そうに笑う。
「グレン様の息子が角なしとはな。とんだ笑い話があったものだ」
父さん――鬼王グレン。
その血を引いているくせに、僕には角がない。
悔しくて、情けなくて、ずっと歯を食いしばって生きてきた。
「黙れよ」
ジンが低くうなる。
「なんだ、その口の利き方は」
「大鬼だからってデカい顔してんじゃねぇよ。ムカつくんだよ」
バシィッ!
するどい音がして、僕の腹に火が走った。
「っあ!」
体がはねて、涙がにじむ。
「おい! なんでトウヤを!」
ジンが叫ぶ。
ドルガは淡々と言った。
「お前が反抗したら、この角なしを打つ。この角なしが反抗したら、お前を打つ」
ジンの目が大きく見開かれた。
怒りと悔しさが交じりあった顔。
「卑怯者め」
「卑怯? 鬼にそんな言葉はない。勝った者こそが正義だ。弱い者は奪われ、強いものが奪う。それが鬼の掟だ」
ドルガの言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
ムカついた。
理由なんてわからない。
でも、認めちゃいけない気がしたんだ。
「ジン、なんで黙ってるのさ」
「でもよ」
「平気だよ。僕ら痛みなんてなれっこだろ」
「ああ」
「だったら言ってやれよ。さっきから口が臭いぞってね」
バシィッ!
今度はジンの胸に赤い線が走る。
「っつ!」
「ほら、おあいこだ」
僕が笑うと、ジンも苦しそうに笑う。
「うるせぇよ、バカ」
ドルガの額に青筋ができる。
「もうひとりいたはずだ。逃げたガキの名前を言え」
僕とジンは同時に目をそらす。
「言うかよ。最初から俺たちだけだ」
ジンはためらいなく言い切った。
ドルガの視線が僕へ移る。
「角なし。お前も同じ意見か?」
「仲間を売るくらいなら死んだ方がましだね」
バシッ、バシッ、バシッ。
鞭が降り注ぐ。
皮膚が裂け、血が落ち、呼吸が止まりそうになる。
泣きたい。叫びたい。
ぜんぶ言って楽になりたい。
でも、シロエの顔を思い浮かべて、歯を食いしばった。
どれだけの時間がたったのだろう。
ようやく鞭の音が止んだ。
残ったのは、血の匂いと、重たい静けさだけ。
壁や床の黒い染みは、僕らの痛みの歴史ってところかな。
「覚えておけ。お前らは弱い。弱者に生きる資格はない」
そう言い捨てて、ドルガは去っていった。
ジンが苦しそうに笑った。
「あの野郎、加減ってもん知らねぇよな」
僕も無理やり笑ってやった。
「ほんとだよ」
「トウヤ」
「なに?」
「俺、強くなる」
ジンの声には迷いがなかった。
「誰よりも強くなって、全部ひっくり返す。俺がすべての鬼を支配してやる」
僕は返事ができなかった。
強ければ、こんな痛い思いをしなくて済む。
それはきっと、本当だ。
でも、あんなふうに弱い者を踏みつけることが、本当に強さなんだろうか。
殴りつけて、従わせて、それでどうなるんだろう。
痛みと混乱のなかで、その疑問だけが鮮明に刻まれた。
でもね、こんな傷なんて、あとから思えばかすり傷だった。
大切なものが全部なくなる夜は、もうすぐそこまで迫っていたんだ。




