1章 3話 掟破りの罰
痛い。
最初に感じたのは、それだった。
頬が痛い。
肩も痛い。
息をするたびに、あちこちがズキズキする。
……もしかして、死んだ?
そう思ったけど、死んだあとまでこんなに痛いなら、死ぬのもたいした救いじゃないね。
ゆっくり目を開ける。
壁の高いところに小さな穴があって、そこから灰色の光が差し込んでいる。
石の床。
鉄格子。
両手には太い鉄の輪。
どうやら牢の中らしい。
そこまで分かったところで、記憶が戻ってきた。
谷。
大鬼。
ドルガ。
そして――。
「ジン!」
身体を起こそうとした。
「いっ……!」
全身に痛みが走り、また床に手をつく。
最後に見たジンは、ドルガに何度も殴られていた。
嫌な想像が頭をよぎる。
「おい、ジン。返事してよ」
「……うるせぇな」
暗がりから声がした。
目を凝らす。
牢の奥。
壁にもたれかかって、ジンが座っていた。
顔は腫れて、口元には乾いた血がこびりついている。
ひどい顔だ。
まあ、もともと大した顔じゃないけど。
「よかった。死んだかと思った」
「勝手に殺すな。お前より先に死ぬかよ」
いつもの言い方だった。
それだけで、少し安心した。
僕は壁にもたれかかった。
「ここ、どこ?」
「見りゃ分かるだろ。牢屋だ」
ジンはそう言って、手首から壁へ伸びた鎖を引っ張る。
ジャラッ。
「逃げられるかな?」
「無理だな」
「やってみなきゃわからないだろ」
「さっき試した」
ジンが壁を指さす。
よく見ると、鎖の根元に引っかいた跡があった。
「もうちょっと頑張ろうよ」
「じゃあ、お前がやれ」
「身体痛いから嫌だ」
「俺だって痛ぇよ」
しばらく黙る。
静かになった途端、別のことが気になった。
「シロエ、大丈夫かな」
ジンが僕を見る。
「あいつなら平気だろ」
「なんでそんなこと言い切れるの?」
「俺たちより頭いいし、俺たちより逃げるのもうまい。それに――」
ジンが牢の中を見回した。
「シロエが捕まってたら、とっくにここで俺たちに説教してる」
『だから言ったでしょ!』
頭の中でシロエの怒鳴り声がした。
「それはそうだね」
「だろ?」
ジンが得意げに笑った。
僕もつられて笑う。
このあと何をされるのかも分からない。
それでも、ジンが隣にいると、不思議となんとかなる気がした。
そのとき。
コツ。
足音がした。
僕らは同時に口を閉じる。
コツ。
コツ。
石の床を踏む音が、少しずつ近づいてくる。
やがて、鉄格子の向こうに大きな影が現れた。
ドルガだった。
殴られた頬が、見ただけで痛くなった気がする。
「出ろ」
ドルガが言った。
ジンが鉄格子に近づく。
「どこ行くんだ?」
「来れば分かる」
「飯か?」
ドルガの眉がぴくりと動いた。
「違うみたいだね」
「まだ分かんねぇだろ」
牢が開けられ、僕らの鎖が外された。
ドルガに連れられて外へ出る。
灰色の空が広がっていた。
夜は明けたらしい。
でも鬼の里は、昼になってもたいして明るくならない。
冷たい風が傷だらけの身体にしみた。
歩いていくうちに、周りに鬼が増えてきた。
大人もいる。
子どももいる。
みんな僕らを見ると、ひそひそと何かを話していた。
「保管庫に入った奴らだ」
「成鬼前だろ?」
「あれ、角なしじゃないか」
聞こえないふりをする。
やがて、前方に大きな広場が見えてきた。
中央には太い木の柱が何本も立っている。
柱の表面は、ところどころ黒ずんでいた。
「……まさか」
嫌な予感がした。
刑場――掟を破った者が罰を受ける場所。
もちろん知っている。
近づいたことはないけどね。
まさか自分が柱につながれる側になるなんて思わなかった。
刑場には、すでに大勢の鬼が集まっていた。
何気なく人混みを見る。
そこに白い髪が見えた。
シロエ。
無事だったんだ。
一瞬だけ目が合った。
シロエは、今にも泣き出しそうな顔で僕らを見ていた。
僕は「大丈夫」と伝えるつもりで、ほんの少しだけ笑ってみせた。
でも、シロエの表情は少しも変わらなかった。
どうやら、僕の笑顔には安心させる効果がないらしい。
「そこへ立て」
ドルガが命令する。
僕とジンが柱の前へ立たされる。
別の大鬼が紙を広げた。
「ジン、トウヤ。両名は昨夜、保管庫へ侵入した」
ざわざわと声が広がる。
「さらにジンは、成鬼の儀以前に人肉を口にした」
「一口だけどな」
ジンがぼそっと言った。
「黙れ」
ドルガが睨む。
ジンが肩をすくめた。
「さらに捕縛を拒み、衛兵に抵抗。以上の罪により、鞭打ちの罰を与える」
思わず柱を見る。
黒ずんだ跡の意味がはっきりした。
「先にジン」
大鬼たちがジンを柱につなぐ。
両手を頭の上で固定される。
ジンが僕を見る。
「すぐ終わる」
「強がらなくていいよ」
「強がってねぇよ」
ドルガが鞭を手に取る。
長くて、太い。
ジンの顔から笑みが消えた。
バシィッ!
乾いた音が広場に響いた。
ジンの身体が跳ねる。
「……っ!」
二発目。
バシィッ!
歯を食いしばる。
三発目。
傷口から血が流れ始めた。
「……ジン」
声をかけたくなる。
でも、ジンは一度もこっちを見なかった。
ドルガが鞭を止める。
ジンがゆっくり顔を上げた。
「……なんだよ」
「これが弱い者の末路だ」
ジンが睨む。
「力がなければ、こうして地面を這う。奪われても、傷つけられても、何もできん」
ドルガが周囲の鬼たちを見回した。
「弱者に選ぶ権利などない。強い者が奪い、弱い者が従う。それが鬼だ」
ジンは黙っていた。
「分かったか?」
「……だったら」
「あ?」
ジンの口角が、わずかに上がった。
「強くなればいいんだろ」
ドルガの目が細くなった。
「誰にも殴られねぇくらい強くなる。誰にも奪われねぇくらい強くなる」
口元には血がついていた。
それでもジンは力強く笑った。
「そしたら、誰にも文句言われねぇだろ?」
広場が静かになった。
ドルガはしばらくジンを見つめていた。
やがて、呆れたように鼻をならす。
「面白い」
バシィッ!
再び鞭が振り下ろされた。
ジンは最後まで声を上げなかった。
やがて拘束が外される。
ジンがその場に膝をついた。
駆け寄ろうとしたけど、大鬼に肩を掴まれた。
「次はお前だ」
柱の前まで連れていかれ、両腕を固定された。
背中にぬるっとしたものが触れる。
ジンの血だ。
嫌だな。
ものすごく嫌だ。
でも、ジンが耐えたんだ。
だったら僕だって――。
バシィッ!
「――っ!」
そんな考えは、一発目で全部吹き飛んだ。
痛い!
なにこれ!
想像していた十倍くらい痛い!
「どうした、角なし」
後ろからドルガの声がする。
「まだ一発だぞ」
知ってるよ!
わざわざ教えてくれなくても!
バシィッ!
「ぐっ……!」
二発目。
三発目。
四発目。
途中から数えるのをやめた。
背中が焼かれているみたいだった。
鎖に引っ張られて、倒れることすらできない。
「トウヤ! 耐えろ!」
ジンの声が聞こえた。
言われなくても分かってるよ。
僕は歯を食いしばった。
ドルガがまた鞭を振り上げる。
バシィッ!
声が出そうになる。
でも飲み込んだ。
こいつの前では、泣きたくなかった。
やがて――。
静かになった。
「終わりだ」
腕の鎖が外される。
足に力が入らず、その場にうずくまる。
やっと終わった。
身体中が震えてる。
今すぐ地面に寝転がりたい。
「どうだ、角なし」
顔を上げると、ドルガが見下ろしていた。
「少しは身の程を知ったか」
「……」
「返事をしろ」
黙っていると、髪を掴まれた。
「っ!」
無理やり引き起こされ、ドルガと目が合う。
「お前は弱い。弱い者は黙って頭を下げ、強い者に従えばいい」
腹が立った。
鞭で打たれたことよりも、その言葉のほうがずっと嫌だった。
弱かったら、何をされても黙ってろって?
強い奴が言うことなら、何でも正しいって?
「分かったか?」
ここで「はい」と答えればいい。
そうすれば、姉さんのところへ帰れる。
身体中痛いし、帰ってぐっすり眠りたい。
でも――。
「嫌だ」
広場が静まり返った。
ドルガの眉が動く。
「何?」
あ、言っちゃった。
ジンが呆れたような顔をしている。
僕だって自分でも馬鹿だと思う。
でも、一度口から出た言葉は戻らない。
「強い奴の言うことを何でも聞かなきゃいけないの?」
「当然だ」
ドルガは迷いもしなかった。
「強い者が決め、弱い者が従う。それが鬼だ」
まただ。
強い奴が正しい。
強い奴が奪う。
弱い奴は黙って従う。
ずっとそう教えられてきた。
でも――やっぱり変だ。
「じゃあさ」
「何だ」
「あんたより強い鬼がいて、そいつが『ドルガを殺せ』って言ったら――」
僕はドルガを睨み返した。
「あんたも黙って殺されるの?」
しん、と広場が静まり返った。
誰も声を出さない。
ドルガの顔から表情が消えた。
あれ?
もしかして、これって本当にまずい?
「角なし」
「な、なに?」
ドルガの拳が動いた。
ドガッ!
「ぐっ!」
身体が地面を転がった。
何度も身体を打ちつけて、ようやく止まる。
何が起きたのか理解するより先に、ドルガが近づいてくる。
「待て! 罰はもう終わっただろ!」
ジンが叫んだ。
でも、ドルガは止まらない。
大きな手が僕の首を掴む。
「ぐっ!」
そのまま軽々と身体を持ち上げられる。
苦しい。
息ができない。
必死にドルガの腕を掴むけど、びくともしなかった。
だんだん視界がぼやけてくる。
……やばい。
……本当に死ぬかも。
そのときだった。
「その手を離しなさい!」
鋭い声が広場に響いた。
ドルガの動きが止まる。
鬼たちをかき分け、一人の少女がこちらへ走ってくる。
長い黒髪が風になびいていた。
見間違えるはずがない。
「……姉さん」




