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2章 10話 ミカゲ

鉄格子の向こうが静かになった。


鬼の鳴き声も、刀の音も聞こえない。


しばらく、僕は格子から手が離せなかった。


けろっとした顔で、伊吹が戻ってくるような気がしていた。


けれど、どれだけ待っても、暗い通路に人影は現れなかった。


背後で小さな咳が聞こえた。


美緒の兄が岩壁にもたれたまま、苦しそうに息をしている。


――その子を助けてやれ。


伊吹が残った理由まで無駄にするわけにはいかない。


僕は格子から手を離し、少年の前にしゃがんだ。


「乗って」


首に細い腕が回る。


背中へ重みを受け、そのまま立ち上がった。


牢の並ぶ上層を目指して歩き出す。


ここへ下りてきたときより、巣の中は騒がしくなっていた。


遠くで人の怒鳴り声が交わり、時折、刀が何かを打つ音も混じっている。


救出隊はすでに中へ入っている。


そこまでたどり着けば、この子を任せられる。


美緒との約束も果たせる。


そう考えながら曲がりくねった道を進んでいると、首に回された腕が急に強くなった。


「……父さん」


耳元で呟かれた言葉に、前方へ目を向ける。


通路の先、揺れる油皿の明かりの中に、見覚えのある姿が浮かんでいた。


「……姉さん」


『トウヤ』


聞き慣れた声がした。


返事を飲み込む。


背中の少年が急に身をよじり始めた。


「下ろして。迎えに来てくれたんだ」


「違う。あれは鬼だ」


「父さんだよ!」


首に回していた腕を外し、自分から降りようとする。


方なく岩壁のそばへ下ろすと、少年は足に力が入らず、その場に膝をついた。


姉さんの姿をしたミカゲが、ゆっくりこちらへやってくる。


『もういいよ』


懐かしい声だった。


『もう頑張らなくていい』


差し出された手を見た途端、足元が揺らぐような感覚がした。


ずっと聞きたかった言葉だったのかもしれない。


美緒との約束を守ろうとして、門倉の命令を破った。


だから伊吹は僕を追ってきた。


そして、帰ってこなかった。


もし最初から、誰も助けようとしなければ――


『帰ろう』


姉さんが手を伸ばした。


『今度こそ、ふたりで』


その声に引かれ、気づけば姉さんとの距離が縮まっていた。


あと少しで、その手に触れられる。


『そう。それでいいんだよ』


姉さんが嬉しそうに笑った。


そのとき、後ろで衣擦れの音がした。


美緒の兄が岩壁に手をつきながら、立ち上がろうとしている。


「……父さん」


姉さんがその姿を見て、穏やかに言った。


『放っておけばいいのよ』


「え?」


『その子を助けるために、トウヤまで危ない目に遭うことないでしょう?』


伸ばしかけていた手が止まった。


『助けられないなら、見捨てればいいの』


鉄格子の向こうから怒鳴った伊吹の声が蘇った。


――そいつはどうすんだ!


――お前が助けたんだろ。


――だったら最後まで連れてけ。


伊吹は残ればどうなるか分かっていた。


姉さんも同じだった。


僕を見捨てることだってできた。


それでも僕を助けた。


「……違う」


『どうしたの?』


「姉さんは、そんなこと言わない」


姉さんの笑顔が、わずかにこわばった。


『私はトウヤのことを心配して――』


「見捨てればいいなんて、姉さんが言うわけないだろ!」


伸ばされていた手を振り払い、そのまま一歩踏み込んだ。


拳が頬に入る。


鈍い手応えとともに、姉さんの姿が横へ崩れた。


岩の上へ倒れ込んだ身体から、輪郭が剥がれるように消えていく。


黒い髪も、見慣れた服もなくなり、代わりに現れたのは一本角の鬼だった。


その顔を見て、思わず息を止める。


目も、鼻も、口も、まともな形をしていなかった。


誰かが顔の上から手のひらを押しつけ、そのまま無理やり平らにしたように、すべてが曖昧に潰れている。


鬼はゆっくり起き上がった。


潰れた顔の中で、細い裂け目だけがこちらを向く。


「……てめぇ」


声まで変わっていた。


僕は右手に残った痛みを確かめながら、そいつと向き合った。


「これが本当の顔か」


ミカゲが襲いかかってきた。


長い爪が横から迫る。


頭を沈めてかわすと、続けて反対の腕が来た。


後ろへ逃れたものの、肩をかすめられ、服の下に熱い痛みが走る。


慌てて距離を取った。


ミカゲも追ってくる。


けれど、二度目の攻撃を見て違和感があった。


大きく腕を振りかぶって、力任せに爪を振るう。


避けられると、その勢いのままよろけた。


もう一度。


今度も同じだった。


「……こいつ」


鬼の里で見てきた大人の鬼とは比べものにならない。


伊吹と戦った幼い鬼の方が、ずっと速かった。


ミカゲが苛立ったように突っ込んでくる。


爪は僕に届かず、岩壁を引っかいた。


身体を戻すより先に腹を殴る。


「ぐっ!」


ミカゲがよろめく。


手応えがある。


僕の拳が効いている。


そこでようやく分かった。


「戦ったことないだろ、お前」


ミカゲの動きが止まった。


「黙れ!」


図星だったらしい。


ミカゲは人間を騙して連れ去っていただけだ。


ミカゲが怒鳴りながら爪を振り回す。


さっきより雑になった。


身を引くと、ミカゲは簡単に体勢を崩した。


「なっ」


つまずいて転がる。


僕は逃げられる前に上へ乗った。


拳を振り上げる。


その瞬間、ミカゲの顔が揺らいだ。


潰れていた目鼻が消え、姉さんの顔に戻る。


『待って』


さっきまでなら、手が止まっていた。


『トウヤ……』


でも、もう違う。


「その顔を使っても無駄だ」


拳を振り下ろした。


姉さんの姿が崩れ、その下からミカゲの素顔が現れる。


ミカゲは僕を押し退けようと爪を立てる。


その腕を地面へ押さえつけ、もう一度、拳を叩き込んだ。


ミカゲの頭が岩に当たり、全身から力が抜けていく。


僕はすぐには離れなかった。


また姉さんの姿になるんじゃないか。


そう思って待ったけれど、何も起こらない。


岩の上には、本当の顔をさらした鬼だけが残っていた。


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