2章 9話 伊吹
少年の足取りは、すぐに遅くなった。
僕の肩に回していた腕からも力が抜けていく。
「もう少しだから」
そう言って歩かせるが、数歩進んだところで膝が崩れた。
身体を支え、ゆっくり岩壁にもたれさせる。
このまま歩かせるのは無理だ。
僕は少年の前にしゃがんだ。
「背中乗って」
腕を首に回させ、そのまま立ち上がる。
ずしりと重みがかかった。
足元は狭い崖道だ。
右側には岩壁が迫り、反対側は暗くて底も見えない。
一歩ずつ確かめながら登っていく。
少し後ろを歩く伊吹も、明らかに遅くなっていた。
脇腹を押さえた手は真っ赤だ。
それでも止まろうとはしない。
「やっぱり休んだ方がいいんじゃない?」
「こんなとこで休んだら追いつかれるぞ」
下から鳴き声が響いた。
オギャアアア――。
曲がり角の向こうから、小さな影が飛び出してくる。
幼い鬼だ。
四つん這いで、岩壁を蹴りながら、ものすごい速さで近づいてくる。
「走れ!」
伊吹が刀を抜いた。
「でも――」
「いいから行け!」
少年を背負ったまま走り出す。
狭い道では思うように速度が出ない。
背後から、爪が岩を引っかく音が迫ってくる。
ガキンッ!
刀の音。
鬼の叫び。
足を止めそうになった僕へ、伊吹の声が飛んでくる。
「前見ろ!」
歯を食いしばって進む。
しばらくすると、後ろから伊吹が追いついてきた。
「倒したの?」
「ああ。だか――」
また鳴き声が響いた。
二匹の鬼が曲がり角から飛び出してくる。
「なんでこいつら、ずっと追ってくるんだよ」
「血の臭いだろ」
伊吹が脇腹を押さえ直した。
僕らの通った道には、伊吹の血がずっと続いている。
「上までどれくらい?」
「分かんねえ。でも止まったら終わりだ」
鬼がみるみる距離を詰めてくる。
伊吹は足を止め、迫ってきた鬼へ刀を振るう。
僕はその間に先へ進んだ。
背後で何度も金属音が響く。
しばらくして、伊吹がまた追いついてくる。
さっきより顔色が悪い。
刀を握る手にも血がついていた。
「もう戦わない方が――」
「戦わなきゃ追いつかれてんだよ」
その通りだった。
一匹止めても、また次が来る。
僕が少年を背負っている限り、鬼たちを引き離せない。
上の方から別の音が聞こえてきた。
ドンッ!
続いて、鬼の叫び声。
そのあとには、何人もの怒鳴り声が重なった。
少年が僕の背中でわずかに動く。
「なに?」
「救出隊だ」
伊吹が息を切らしながら言った。
「門倉さんたち、入ってきたんだろ」
胸の奥が少し軽くなった。
もうすぐだ。
上まで戻れば、この子を任せられる。
伊吹の傷も見てもらえる。
「聞いた? 助けが来てるよ」
首に回された腕が、わずかに強くなる。
僕は足を速めた。
けれど、後ろから聞こえる鳴き声も、確実に近づいている。
曲がりくねった崖道を登り、狭い通路へ入った。
その先に大きな鉄格子が見える。
下へ来るときに通った場所だ。
鉄格子は変わらず頭上まで引き上げられている。
「ここ抜ければ牢のところだよね」
「そうだな」
伊吹が後ろを確認した。
暗い通路の奥から、何匹もの幼い鬼が見えた。
その後ろからも次々と姿を現した。
伊吹が舌打ちする。
「桃矢、先行け」
言われるまま、少年を背負って鉄格子の下をくぐる。
数歩進んで振り返る。
伊吹はまだ向こう側にいた。
「早くしろよ」
伊吹は動かなかった。
壁に垂れている太い鎖を見ている。
嫌な予感がした。
「何してるの」
「桃矢。その子、そのまま連れてけ」
「だから伊吹も――」
「俺はここ閉める」
頭上の鉄格子を見る。
ここを閉めたら、伊吹はこっちへ戻れない。
「もうすぐ門倉たちがいるんだろ。そこまで逃げれば――」
「そこまで持たねえよ」
伊吹が背後へ刀を向けた。
幼い鬼たちは、もうすぐそこまで迫っている。
一匹が地面を蹴った。
伊吹が横へ避けながら斬りつける。
倒れた鬼を乗り越えるように、次の一匹が飛びかかってくる。
ガキンッ!
爪を刀で受けた伊吹の足が滑る。
「ぐっ!」
脇腹から血が流れた。
それでも鬼を蹴り返し、どうにか距離を取る。
「だったら僕も戦う」
少年を下ろそうとすると、伊吹が怒鳴った。
「そいつはどうすんだ!」
手が止まる。
少年は僕の背中にしがみついたまま、荒い息をしている。
「お前が助けたんだろ」
伊吹が刀を構え直す。
「だったら最後まで連れてけ」
「でも伊吹が!」
返事を待つ前に、また鬼が飛びかかった。
伊吹が刀を振るう。
「いいから行け!」
「嫌だ!」
僕は少年を下ろした。
「ここで待ってて」
鉄格子をくぐって戻ろうとする。
その瞬間、伊吹が鎖を思いきり引いた。
ガコンッ!
頭上で大きな音がして、鉄格子が落ち始める。
「やめろ!」
下をくぐろうとした僕の肩を、伊吹が押し返した。
次の瞬間、目の前を鉄の棒が通り過ぎる。
ガァンッ!
地面が揺れた。
鉄格子が完全に閉じる。
「何してんだよ!」
格子を両手で掴む。
すぐ向こうに伊吹がいる。
「開けろよ!」
伊吹は苦しそうに息をしながら、少しだけ笑った。
「開けたら意味ねえだろ」
僕は鉄格子を持ち上げようとした。
腰を落とし、腕が震えるほど力を込めても、地面に食い込んだ鉄格子はびくともしない。
岩壁を見ると、大きな巻き上げ機が取りつけられていた。
太い鎖が鉄格子の上へ伸びている。
僕は取っ手へ飛びついた。
「これならっ」
身体ごと押す。
ギギッ――。
重い音を立て、取っ手がわずかに動いた。
鉄格子も少しだけ浮く。
「上がる!」
さらに力を込める。
けれど、そこから動かなかった。
足を踏ん張り直し、全身で押す。
それでも駄目だった。
「くそっ!」
もう一度押す。
動かない。
「桃矢」
「待ってろ、伊吹! すぐ助けに行くから!」
歯を食いしばり、取っ手に体重をかける。
「上がれよ!」
鉄格子は軋むだけだった。
「もういい」
「よくない!」
「その子連れて行け」
「嫌だって言ってるだろ!」
振り返る。
鉄格子の向こうに伊吹が立っている。
「僕の目の前で、誰かが死ぬのは……もう嫌なんだ」
口にした瞬間、姉さんの最期が頭をよぎった。
あんなのは、もう嫌だ。
「生き残るのが得意なんだろ」
伊吹の目が少しだけ見開かれた。
「自分で言ってたじゃん。任務は生きて帰ってきて終わりだって」
伊吹はしばらく黙っていた。
やがて、少しだけ笑う。
「桃矢、お前、俺に似てるよ」
「こんなときに何言ってんだよ」
「人の言うこと聞かねえし、すぐ無茶するし」
「そんなの今どうでもいいだろ!」
「助けてって言われたら、放っとけない」
伊吹は刀を握り直した。
「鬼狩りになれよ」
「……」
「お前ならなれる」
いつものように笑っている。
なのに、その笑顔を見ているだけで胸の奥が苦しくなった。
「一人でも多く、助けられる鬼狩りに」
下から響く鳴き声が大きくなった。
鬼たちはもう近い。
伊吹は鉄格子から離れた。
「待ってよ」
伊吹が刀を肩に担ぐ。
そして、いつもの調子で言った。
「じゃあな、桃矢」
背を向ける。
「伊吹!」
振り返らない。
鬼たちが一斉に現れる。
伊吹も刀を握り、そいつらへ向かって駆けていった。
暗い通路の中、その背中が遠ざかっていく。
やがて押し寄せる鬼の群れに重なり、伊吹の姿が見えなくなった。




