2章 8話 代償
木の足場を駆け下りる。
少年は大人の鬼に肩を押さえつけられていた。
鬼の赤子が四つん這いで近づいていく。
あと少し。
僕は足元に転がっていた石を拾った。
「こっちだ!」
思いきり投げる。
石が鬼の顔に当たった。
「っ……!」
少年を押さえていた手が緩む。
その隙に飛び込み、少年の腕を掴んで引き寄せた。
赤子の歯が少年の腕があった場所で空を噛む。
「立てる?」
返事はない。
腕を引くと、少年はふらつきながら上体を起こした。
「逃げるよ」
立たせようとした瞬間、背後で低い声がした。
「何してんだ、てめえ」
少年を押さえていた鬼が立ち上がっている。
少し離れたところにいたもう一匹も近づいてきた。
まずい。
刀は持っていない。
僕は少年を背中へ隠した。
「人間のガキが、どこから入りやがった」
逃げ道を探す。
でも、周りには赤子たちが這い回っている。
血の臭いに興奮したのか、鳴き声がさっきよりも大きい。
オギャアアア――。
一匹の鬼が距離を詰めてきた。
僕が避けたら、後ろの少年が狙われる。
僕はその場を動けなかった。
爪が迫る。
その間に刀が入った。
ガキンッ!
鬼の腕が弾かれる。
「ほんっと、お前は!」
飛び込んできた伊吹が、僕らの前に立った。
「なんで伊吹まで来たんだよ!」
「その話はあとだ」
伊吹は刀を構えたまま、二匹の鬼から目を離さない。
鬼たちの様子が変わった。
「鬼狩りか?」
「桃矢、その子を連れて上がれ。こいつらは俺が仕留める」
二匹の鬼が左右へ分かれた。
伊吹も刀を握り直す。
僕は少年の腕を自分の肩へ回した。
「行くよ」
けれど、少年の足は動かなかった。
「……父さん」
僕の肩から離れようとする。
「父さんが待ってる。行かなきゃ」
「君の父さんは死んだよ」
少年が初めて僕を見た。
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「ずっと僕を呼んでる!」
声が震えていた。
気持ちは分かる。
僕だって姉さんを追った。
死んだって分かっていたのに、信じたくなかったんだ。
だから、これ以上何を言っても届かない気がした。
でも――。
「美緒が待ってる」
少年の動きが止まる。
「美緒?」
「お兄ちゃんを連れて帰ってきてって、僕に頼んだ」
少年は何度か瞬きをした。
ぼんやりしていた顔に、少しずつ意識が戻ってくる。
「美緒と約束したんだ。だから帰るよ」
後ろで大きな音がした。
一匹の鬼が木の足場へ叩きつけられ、そのまま動かなくなる。
伊吹が残った一匹の懐へ潜り込み、腹を斬り上げた。
黒い血が飛ぶ。
鬼が膝をついたところへ、もう一撃。
倒れた。
「ぼさっとしてんな!」
言われる前に少年を支えて歩き出す。
伊吹もすぐ追いついてきた。
赤子たちを避けながら、上へ続く道を目指す。
オギャアアア――。
あちこちで鳴き声が重なる。
あと少し。
そのときだった。
ドンッ!
何かが僕らの前に飛び込んできた。
少年を引いて足を止める。
ゆっくり起き上がったそいつを見て、息を呑んだ。
広間を見下ろしたとき、妙に目についた奴だ。
僕と同じくらいの背丈しかない。
幼い鬼。
なのに、身体つきだけがおかしい。
肩も、脚も、まるで大人の鬼みたいに太かった。
口元から涎を垂らし、赤い目で僕らを睨んでいる。
幼い鬼が地面を蹴った。
速い。
伊吹が身体をずらす。
幼い鬼は僕らの脇を抜け、そのまま岩壁へ激突した。
ズドンッ!
鈍い音とともに石が崩れ落ちる。
なのに、幼い鬼は平然と立ちあがった。
「……丈夫すぎるだろ」
伊吹が刀を構え直す。
「先に上がれ!」
僕は少年を連れて進もうとした。
けれど、気になって足が鈍る。
「大丈夫なの?」
「誰に言ってんだ」
伊吹が笑った。
「生き残るのが得意って言ったろ」
そう言って、伊吹は幼い鬼へ向かっていった。
僕も少年の身体を支え直す。
今度は少年も自分から足を動かした。
一歩ずつ、上へ続く道へ近づいていく。
背後で激しい音が響いた。
振り返る。
幼い鬼の拳が伊吹の顔を狙う。
伊吹は頭を沈めてかわし、すれ違いざまに脚を斬った。
黒い血が飛ぶ。
普通なら、それで動きが鈍るはずだった。
なのに、幼い鬼は何事もなかったように踏み込み、伊吹へ体当たりした。
「ぐっ!」
伊吹の身体が後ろへ弾かれる。
数歩下がったところで踏ん張り、すぐに刀を構え直した。
「なんなんだよ、こいつ」
幼い鬼が低く唸る。
また突っ込んでいく。
伊吹は動かない。
ぎりぎりまで引きつけ――横へ跳んだ。
幼い鬼は止まりきれず、木の柱へ激突する。
バキッ!
太い柱が折れる。
鬼の身体がわずかに傾いた。
伊吹が踏み込む。
さっき斬った脚へ、もう一度。
今度は深く刃が入った。
幼い鬼が地面へ手をついた。
「よし!」
思わず声が出た。
その声に反応したのか。
幼い鬼の首が、ぐるりとこちらへ向いた。
ぞくっとした。
次の瞬間、幼い鬼は伊吹を無視して、僕らへ突っ込んできた。
「こっちに来る!」
少年を引っ張る。
けれど、少年の足がもつれた。
幼い鬼が迫ってくる。
速い。
間に合わない。
僕は少年を後ろへ押した。
せめて――。
「馬鹿!」
身体が横へ飛んだ。
伊吹に突き飛ばされたんだと分かったのは、地面に転がったあとだった。
顔を上げる。
鬼の爪が、伊吹の脇腹へ深く食い込んでいた。
「伊吹!」
血が地面へ落ちる。
それでも伊吹は退かなかった。
伊吹は爪の食い込んだ腕を掴み、逃がさないように抱え込んだ。
「……やっと捕まえた」
伊吹が刀を逆手に持ち替え、そのまま胸へ突き立てた。
ギャアアアアッ!
叫び声が広間に響く。
幼い鬼が伊吹を振り払おうとする。
爪がさらに脇腹へ食い込んだ。
「ぐっ……!」
それでも刀を離さない。
さらに深く押し込む。
鬼の叫びが弱くなっていく。
やがて、鬼の動きが止まった。
伊吹が刀を引き抜くと、幼い鬼が地面へ倒れた。
その直後、伊吹も崩れ落ちる。
「伊吹!」
少年をその場に座らせ、駆け寄った。
伊吹は仰向けに倒れたままだった。
「伊吹、起きてよ!」
脇腹から流れた血が、岩の上に広がっていく。
嫌なものが頭をよぎった。
「ねえ!」
「……うるせえ」
小さな声が返ってきた。
「よかった。生きてる」
「勝手に殺すなよ」
いつもの言い方だった。
でも、声にはほとんど力がない。
伊吹は身体を起こそうとして、途中で顔を歪めた。
「動かない方がいいって」
「ここで寝てろって?」
「でも、その傷――」
「あとだ」
脇腹を押さえる。
手の隙間から血が滲んでいた。
「僕が勝手に来たから」
「反省会は生きて帰ってから」
伊吹は近くに落ちていた刀を拾い、それを支えに立ち上がる。
僕が支えようとすると、伊吹は少年を顎で示した。
「俺より、そっち」
少年は座り込んだまま、こちらを見ていた。
「美緒のところに帰すんだろ」
「……うん」
伊吹は刀についた血を振り払い、鞘へ戻した。
「本当に歩ける?」
「しつこい」
そう言って歩き出した。
三人で上へ続く細い道へ入る。
僕が少年を支え、伊吹が少し後ろを歩く。
騒がしかった鳴き声が、少しずつ遠ざかっていった。
後ろから荒い息が聞こえた。
振り返る。
伊吹は脇腹を押さえながら歩いている。
その手は真っ赤に染まっている。
「……伊吹」
「止まるな」
いつもの調子じゃなかった。
「上へ行くぞ」
僕は唇を噛んで前を向いた。
僕らの歩いた道には、伊吹の血が点々と続いていた。




