2章 4話 命令違反
倒れている人間のうち、一人はもう手遅れだった。
仰向けに倒れた男の腹は大きく裂かれ、中身がなくなっている。
黒く乾いた血がこびりつき、食い散らかされた肉片が転がっていた。
でも、残る二人は生きていた。
一人は若い女。
もう一人は、小さな男の子だ。
「助けて」
男の子がかすれた声を出した。
その声を聞いた瞬間、僕は駆け出していた。
「待て」
門倉に腕を掴まれる。
「なんだよ! 生きてるじゃないか!」
「分かっている。周りを見ろ」
広い空間の周囲には、いくつもの横穴が開いていた。
どれも奥は真っ暗で、何がいるのか分からない。
「まだ鬼がいるかもしれん」
門倉が刀を構える。
「先に安全を確保する」
そのとき、男の子の背後にある暗闇から、ぬっと大きな手が伸びた。
男の子の小さな身体が、横穴へと引きずり込まれる。
「うわああああっ!」
悲鳴がどんどん遠ざかっていく。
僕は走り出した。
「追うな!」
門倉の怒声が響く。
でも、止まれなかった。
まだ助けられるのに、待ってなんかいられない。
「桃矢君!」
紅羽さんの叫び声を聞きながら、僕は横穴へ飛び込んだ。
※
暗い洞窟を走る。
前を走る鬼の背中が見える。
その腕の中で、男の子が必死にもがいていた。
「待て!」
鬼が振り返る。
僕の倍近い身体。
額から伸びた太い角。
全身には古い傷がいくつも刻まれている。
こいつが親玉か?
鬼は僕を見ると鼻を鳴らした。
「ガキ一人で追ってきたのか」
鬼が男の子を抱えたまま、片腕を振るう。
僕は夢中で身を屈めた。
ブンッ!
爪が頭のすぐ上を通り過ぎる。
がら空きになった腕が目の前にあった。
「はぁっ!」
刀を振り抜く。
ザシュッ!
刃が腕を切り裂き、鬼が男の子を落とす。
「いまだ! こっち!」
男の子が這うように僕のところへ来る。
僕は男の子を庇うように立った。
鬼は傷ついた腕を見下ろす。
「……俺を斬ったか」
ゆっくりと顔を上げる。
さっきまでとは目つきが違う。
鬼が地面を蹴った。
速い!
腹に拳がめり込んだ。
「ぐっ!」
身体が宙に浮き、そのまま岩壁に叩きつけられる。
「げほっ……げほっ……」
顔を上げると、鬼はもう目の前まで来ていた。
「その程度で俺に刃を向けたのか?」
鬼が腕を振り上げ、鋭い爪が僕に向けられた。
まずい!
銀色の光が視界を横切った。
次の瞬間、鬼の腕が宙を舞う。
「ぐあああっ!」
鮮血が飛び散る。
その向こうに、刀を振り抜いた紅羽さんが立っていた。
「まったく」
紅羽さんは刀を構えたまま、僕をちらりと見る。
「あとで、たっぷりお説教だからね」
鬼が残った腕を振り回す。
紅羽さんはそれをかわし、一気に懐へ入った。
鬼の胸から血が噴き出す。
「ぐあっ!」
僕が何もできなかった鬼を、完全に圧倒している。
鬼が紅羽さんを睨む。
その目が、ふいに僕へ向いた。
「――っ!」
鬼が僕めがけて飛びかかる。
「桃矢君!」
紅羽さんが僕を突き飛ばした。
鬼の爪が紅羽さんの肩をかすめる。
紅羽さんはそのまま刀を振り抜いた。
鬼の首が地面に落ちる。
「紅羽さん、肩……」
傷は深くなさそうだけど、赤い血がじわじわと布を染めている。
僕をかばったせいだ。
「ごめん」
「これくらい平気。それより戻ろう」
僕は男の子を背負って、急いで来た道を戻った。
広間へ戻った瞬間、足が止まった。
「え?」
さっきまで何もいなかった広間に、十数匹の鬼が倒れていた。
壁や地面には血が飛び散り、岩には新しい爪痕が刻まれている。
その中心に、門倉と燈子が立っていた。
門倉の額からは血が流れ、燈子の服も肩口が大きく裂けている。
二人とも息を切らしていた。
僕が飛び出したあと、ここでも戦いになったんだ。
門倉が振り返った。
「生きていたか」
「……うん」
門倉は僕の背中の男の子を見て、それから紅羽さんの肩へ目を向けた。
一瞬、顔が険しくなる。
「話はあとだ。ここを出るぞ」
門倉が歩き出す。
僕は紅羽さんの赤く染まった肩を見た。
次に、門倉と燈子の傷を見る。
背中では、助けた男の子が小さく息をしている。
助けられた。
そのはずなのに、素直に喜ぶことができなかった。




